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「極彩色の毒」の続き
薄暗い店内。黒を基調とした内装。棚にずらりと並んだ酒瓶。それらを妖しげに照らし出すライトの光は紫。
私は仕事帰りに行きつけのショットバーで、カクテルグラスを片手に途方に暮れていた。
開店と同時に入店したため、他の客の姿はまばらだ。カウンターの向こうでは、寡黙なバーテンダーが一つに結われた白髪を揺らしながらグラスを磨いている。
それをぼんやり眺め、また溜息をついた。現実逃避している場合ではないとわかっていても、どうすればいいのか……まるでわからない。
八神から、連絡が来た。あの大会から――図らずも彼と肉体関係を持ってしまった日から、二週間。「また会えないか」というショートメールが届いたのが昨日。
電話番号を交換した覚えはない。誰かに聞いたんだろう。心当たりは何人かいる、とチームメイト兼同僚を思い浮かべた。
さてどうするべきか、と再び頭を悩ませる。会いたいなら返事をすればいいし、会いたくないのなら無視すればいい。しかしどうにも、割り切れずにいる。
私が頭を抱えていると、軽い音を立てて入り口のドアが開いた。
「いらっしゃいませ」
「スコッチを」
飲み物を頼むと共に、その特徴的な赤髪を揺らして右隣の席に座ったのは――件の八神庵本人で。隠さずに溜息をつく。
そう、本題はこちらだ。
あの大会の日から、やたらと彼が私の目の前に姿を見せるようになった。会社近くのコンビニ、最寄り駅の改札口、ジムのランニングマシンで走っていたら隣に並ばれたこともある。
そして今回は馴染みのバーだ。もちろん私が自分の居場所を教えているわけではない。
ただのストーカーとして片付けないのは、例の心当たりが影で糸を引いているから。軽薄な彼が面白がっている姿が容易に思い浮かぶ。八神が迫ってくるわけでもましてや凶行に走るわけでもなく、ただ二言三言交わして去っていくだけ……というのも大きい。
それに――正直、満更でもないというのが本音だ。理由はわからずとも、そしてそれがどんな形であれ。八神に何らかの感情を……恐らく好意を向けられるのは、嫌ではなかった。身体を重ねたことで情が湧いてしまったのだろうか。だとすれば、我ながら単純すぎるけれど。
まあ、だからといって。この実情をそのままにしておくわけにもいかない。
「グラスが空だが」
「……え、あ、うん」
「何か頼むか?」
「うん……?」
自然におかわりを勧めてくる八神に首をひねりながらも頷く。いや駄目だ、流されそうになっている。
そんな私を意にも介さず、彼の滑らかな唇が言葉を紡ぐ。
「こいつにロングアイランド・アイスティーを」
「あのねぇ……プレリュードフィズに変更で」
わかりやすいレディキラーカクテルをキャンセルして、別のお酒を頼む。軽く睨んでみるが、彼は素知らぬ顔だ。
「どうしてここがわかったの?」
「偶然だ」
「本当に?」
「……」
そこで黙るか。確かめてはみたが、決して偶然ではないと分かっている以上、怖かったので詳しく聞くのはやめた。彼に追いかけ回されている草薙京の気持ちが少しわかった気がする。
八神はこちらの気持ちなどお構いなしに酒を呷るばかりで。深くため息をついた。
カウンターに置かれたステムグラス。薄いピンク色を口に含み、飲み下す。程よい甘味と酸味が、この短時間で溜まった疲れを癒やしてくれるような気がした。
ついでにとバーテンダーに目配せを試みるが、途端に彼はその赤い瞳を逸らした。面倒事に首を突っ込む気はないようだ。恨めしく思いながら口を開く。
「……何か用でもあるの?」
「返事が来なかったからな。自分で出向いた方が早いだろう」
当然とばかりに言い放つ八神に脱力した。頭痛さえする気がして、左手で額を押さえて俯く。
「それとも、俺とはもう会いたくないということか」
「そうじゃない、けど……」
思わず顔を上げて食い気味に否定してしまい、しまったと口をつぐむ。ああ、これは失敗した。
心なしか八神が嬉しそうに見えるのは、気のせいではないだろう。
「……それは、期待をしていいと?」
未だグラスの脚を掴んでいた私の指に、彼の指がそっと触れる。ぴく、と跳ねた手を抑えるように、第一関節から第二関節、手の甲へと太く節くれた指が滑る。その熱を余分に感じてしまうのは私の手が冷たいからだろうか。それとも。
身体の芯から温度が上がってゆくのを感じながら、息を吐いた。
ああ――私の、負けだ。
「場所、変えない?」
「……いいだろう」
私の方から持ちかけてみれば、意外だったようで片眉を上げる。僅かに上がった口角に今更ながら羞恥を覚え、カクテルを一気に飲み干した。
「チェックで」
「俺が……」
「いいから」
財布を出そうとする八神を制し、強引に二人分の会計を済ませて店を出る。流石に年下に奢られるわけにはいかない。バーテンダーから寄越された胡乱げな視線は無視した。いい年して若い男を相手に何をしているんだ、というのは自分が十二分にわかっている。
もうこうなれば、開き直るしかない。またアルコールの力を借りる形にはなったけれど、返事をした以上は応えなければ。
連れ立って繁華街を通り抜ければ、その先にあるのはHOTELと書かれた袖看板や鮮やかなネオンやらに彩られた建物の数々。躊躇わずにそちらへ足を向ける八神の数歩後ろで、ずるい大人である私は――覚悟を決め、深く息を吐いた。
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