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ベッドに蹲り、左足首を拘束する枷を撫でる。決して外れることはない金属の冷たさが肌に沁みてゆく。
今が朝か夜かすらわからない。この部屋に時計はないから。壁紙や床、家具の一つ一つに至るまで全て真っ白だ。
初めの数日は抵抗したが、全て徒労に終わった。非力な私が何をしても無駄だった。それにこの堅牢から外に出たところで、すぐに捕まるのは目に見えている。だからといって、彼らの元から逃げ出すことを諦めたわけじゃないけれど。
私がクラスメイトらの手によって拐われ、監禁されたのは一ヶ月ほど前のことだった。二人の名は、武藤遊戯と海馬瀬人。
彼らと特別仲が良かったわけではない。何かの折に顔を合わせれば話す、ぐらいの間柄。それはグループ学習だったり掃除当番だったりと。ほんの些細な関わりにすぎない。そのはずだった。
どうして私なんだろう、と幾度となく考えた。けれど答えは出ない。彼らも教えてはくれない。
際限のない思考を止めたのは、施錠が解除された音だった。次いでゆっくりとドアが開く。
「なまえさん、おはよう」
ひょっこり顔を出したのは、武藤くんだった。実年齢より幼げなそのかんばせは、にこにこと笑ってこちらを見つめる。だけど、騙されてはいけない。私は彼に誘い出されてここに幽閉されたのだから。キミにどうしても伝えたいことがあるんだ、と頬を染めながらそう言った彼から告白の気配を察して。ほとんど知らない相手だとはいえ、初めてのことに心を浮つかせてしまったあの時の自分が許せない。
彼が手に持っているトレーとそのお皿の上にはクロワッサンや目玉焼きや果物が乗っていて、朝食然としたそれに今は朝なのかもしれない、と判断をつけた。
「…おはよう」
「夕べはよく眠れた? 最近元気がないから、心配で」
武藤くんが朝食のトレーをテーブルに置く。量と食器が多いところを見ると、彼も一緒に食べるつもりらしい。
躊躇いつつも挨拶を返せば、その口から転がり落ちる言葉。目を細め、薄ら寒い笑顔を浮かべた彼が不気味だった。そんなことを聞くなら、家に帰してくれればいいのに。
それでも、海馬くんよりはましだ。険のある目付きでずっと見つめられながら、お互い無言で朝ご飯を食べるのはなんともやり辛い。
ベッドから降りて身支度を整える。とはいえ彼の前で着替える気はないから、部屋に備え付けられた洗面所で顔を洗って、髪型を整えるだけだ。
冷たい水を手に集めて顔を濡らす。何度か繰り返して、もういいだろうと目をつぶったまま手を伸ばしてタオルを探す。
「はい、どうぞ」
声とともに顔が柔らかな布に包まれて。ふわふわとした肌触りから、それが探していたものだと知った。
「あ、ありがとう」
「髪も。梳かしてあげるね」
ぎこちなく礼を言えば、有無を言わさずドレッサーの前まで手を引かれ、椅子に座る。下手に断って刺激するのもと思い渋々それに従った。
ブラシを引き出しから取り出し、優しい手つきで髪に這わせる武藤くん。警戒しながらも、その心地よさに身を任せる。
すれば、ぽつりと。彼が呟いた。
「ここから、出してあげようか?」
思わず目を見開いた。聞き間違いだと思ったからだ。だってどうして、武藤くんがそんなことを? 私を攫ったのは彼じゃないか。
鏡越しの彼はいつも通り、柔らかな笑みを崩さない。
「……うそ」
「元々、ボクは反対だったんだ。閉じ込めるだなんてこと」
つらつらと述べられる言葉の羅列。謝罪を挟みながら、自分がどれだけ悔やんでいるかを滔々と説明する武藤くん。
疑いは晴れない。罠かもしれない。だけど。
「……本当にここから、出られるの?」
この機を逃せば、もう二度と――この部屋から出られる日は、来ないかもしれない。
焦りから揺らいだ私に、彼は大きく頷いた。
「うん! キミさえ協力してくれれば、だけど」
「でも……」
海馬くんが、それを許すだろうか。思い出すのは鋭い目つきと威圧感。彼の整った顔はいつも冷たく研ぎ澄まされていて、笑うところなど想像できないほどだった。
私の不安を散らすように、武藤くんはしっかりとした声で言葉を紡ぐ。
「絶対に、上手くいくよ」
力なく萎れていた私の手を、彼が握る。自信に満ちた様子で。
――ああ。一縷の望みに、縋りたくなってしまう。
「はい、終わったよ。朝ごはん食べよう?」
武藤くんの手が、私の頭から離れる。丁寧に梳かされた髪が揺れた。
振り向いた先にあるテーブルでは、二人分の朝食が湯気を立てていて。動揺と憂慮に浸った私は、気もそぞろに自分の席へ着いた。
▽
彼があの日私に話した計画は、至って単純なものだった。
海馬くんの社長としての責務、重役会議。毎月行われているというそれが終われば、彼は食事会へ行く。その間に、武藤くんが私を逃してくれるという。
藁にもすがる思いで彼に乗ってしまったけれど、果たしてこれでよかったんだろうか。
「どうした? やけに落ち着きがないな」
本のページを捲る手が止まった。動揺するなと自分に言い聞かせて、また文字を目で追う。
今、部屋に来ているのは海馬くん。何もない部屋だけど本だけは何冊もあるから、暇つぶしにと読み始めたところに彼はやってきた。時刻は夕方ぐらいだろうか。いつもの特徴的なコートではなく制服姿なのは、学校帰りにそのまま立ち寄ったからだと推察する。
学校。懐かしい響きだ。友達は元気にしているだろうか。級友が消えて、不審に思っているだろうか。家族だってそうだ。……心配、してくれているだろうか。それとも私の事なんてもう忘れちゃった?
――誰か、助けて。
「別、に。何でもない」
そっけなく返せば、彼は手元の本に視線を戻す。なんとか隠し通せたようだ。せっかくの企てを、ここでおじゃんにするわけにはいかない。
拳を握る。冷や汗が滲んだ手のひらは、緊張もあり冷たくなっていた。
決行の時が、近づいている。
▽
数日後、計画は遂行された。そしてそれは恐ろしいほどに上手くいった。遊戯くんの手引きで部屋を抜け出した私は、彼の言う抜け道を歩いていた。
誰にもばれないようにと灯りすら付けず、闇の中を進む。あの部屋は、海馬コーポレーションの地下にあったらしい。海馬くんが一枚噛んでいたことから予想はしていたけれど、本当にそうだとは。あれほどの大企業ならもみ消すのだって簡単だろう、なんて恐ろしいことまで考えられてしまう。
足元すらおぼつかず、怖かったけれど。武藤くんが手を引いてくれたから、なんとかここまで歩けた。小さい彼だけど、その手は男らしく大きくて、安心できた。
いつの間にか私の方が彼を引っ張る形になっていたのは、あの牢獄から逃げられるのが嬉しかったからだ。
「もういいよ、目を開けて」
優しい声と共に、瞼の裏が明るくなる。武藤くんが電気のスイッチを押してくれたらしい。彼の言うとおり、目を閉じていてよかった。でなければ光に焼かれていたことだろう。
ゆっくりと瞼を上げれば、眩しい光が目に飛び込んでくる。
いちばん最初に見えたのは、武藤くん。優しげに口元を緩めている、けれど。
「そ、んな」
じゃあ今、私の後ろにいて、私の手に繋がっているのは――?
「本当に、ここから逃げられると思ったのか?」
唐突に、低い声が響いた。
油の切れたブリキのおもちゃのように、ぎこちない動きで後ろを振り向く。
そこには海馬くんが。唇を歪めてこちらを見下ろしていて。
「残念だったな。お前はずっと騙されていたんだ」
「うそ……」
「キミのその顔が見たかったんだよ。やっぱりなまえさんには絶望した顔が似合うね」
「嘘、だ」
楽しげな二人の声に、冷や汗が止まらない。助けを求めるように武藤くんを振り返るけれど、彼はいつも通り柔らかな笑みを崩さずこちらを眺めているだけで。
「嘘――っ」
「もう黙れ」
長身の彼に。やさしく、優しくキスを落とされ、抱きすくめられて。それでも何の抵抗もできない。ただ呆然と立ち尽くすだけ。
「あー! ズルいよ海馬くん」
「役得だ」
燃えるように熱い手のひらが私の背に食い込む。恐る恐る顔を見上げれば、マグマのように滾った瞳と視線が交わって。
「っ、いや……!」
「ずっと一緒だよ」
「愛している、なまえ」
逃げようと身を捩るけれど、力でねじ伏せられてしまえばもう、何をしても無駄だと。そう理解できてしまう。
背後で武藤くんが笑っている。海馬くんも笑っている。二人の声に魂が削られていくようで。寒気が、止まらない。
――助けてと叫んだ金切り声は、黒に塗り潰されていった。
お題:ユリ柩様
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