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季節は春、桜の蕾が綻び始めた頃。麗らかな陽気に染まってゆく街。
そんなことは関係ないとばかりに、今日も私達は地下のライブハウスで。演奏し、歌い、叫び、がなり、そして。
「乾杯~!」
いくつものジョッキが卓上で涼しい音を立てる。口に含んで飲み下せば、ビール特有の苦味と炭酸が喉を駆け抜けた。深夜近い大衆居酒屋の座敷。時間が時間だからか、私達以外の客はまばらだった。横に長い座卓を囲み、薄い座布団に座った男女十人分の話し声が響く。
ライブ後。半ば恒例と化した打ち上げ兼飲み会。女二人男三人のうちのバンドと、今日の対バン相手だった男五人のバンド。互いに飲み好きということもあって、よくこうして飲むことが多かった。
ただし、一人のメンバーを除いて。
「それにしても珍しいね、八神くんが打ち上げ来てるなんて」
目の前で唐揚げをつついている、いくつか歳下の彼に話しかける。相手の長く赤い前髪が揺れた。
バンド内最年少の彼がこうして一緒に飲んでいるのは珍しい、というより初めてなんじゃないだろうか。
八神くんが所属するバンドのバンマスが言っていたが、そもそもこういった集まり自体に参加しないらしい。本当にレアなんだな、なんて考えながら私もチーズフライをつまむ。
「こいつが……どうしても来いとうるさくてな」
親指で指し示した方向に目をやれば、隣の席に座っていた彼のバンドのギターくんがいて。既に出来上がっているらしいその男は、赤い顔をしてぎゃあぎゃあと喚く。
「お前はいつもいつも付き合い悪すぎんだよ! もっと親交を深めろ!」
「フン、そんなことなどしなくとも……おい」
ドン、と運ばれてきた中ジョッキを二つ、テーブルに置く。中身はハイボールで、薄い黄色をした液体からシュワシュワと泡が上がっていた。
「まー飲め飲め!」
笑いながら勧め、無理やり二人の手にジョッキの持ち手を握らせる。ここで言い合いになられても困るし、ね。
意識を逸らすという私の目論見は成功したらしく、ブツブツ言いながらも二人はお酒を飲み始めた。
ギターの男が反対隣にいた私のバンドメンバーと話し始めたのを見計らい、再び八神くんに話しかける。
「ね、それもらっていい?」
指差したのは彼の抱えている大皿に盛られた唐揚げ。あんなに沢山あったのに残り少なくなっているけれど、いつの間にこんなに食べたんだろう。
それにしても、と改めて八神くんを見る。ハイボールを片手に唐揚げを貪っている彼は、ただの二十歳にしか見えない。ライブ中、ファンからの“庵様”コールを浴びている超絶人気のベーシスト姿からは、想像もつかないほど普通だ。
それに。
「……ほら」
なんだかんだで、ため息をつきながらも唐揚げのお皿をこちらに差し出してくれる彼は、やっぱりいい人だと思うんだけどな。
「じゃ、お疲れ様」
「はいはーい、じゃあね」
代金を机に置いた男に、手をひらひらと振る。彼は私が所属するバンドのドラム。こんな時間にどうやって帰るんだろうか、タクシーかな、家遠くなかったっけ、なんて頭の隅でぼんやり考える。
いつの間にか一人、また一人と減っていって。だだっ広い座敷に残っているのは私と、庵くんと、相手のバンドのドラムと、同じバンドのキーボードだけになっていた。
「庵くんー、聞いてる?」
「……あぁ」
彼の眼前で手を振る。珍しく火照った顔に、いつもの冷酷さはない。それがなんだか面白くて、へらへら笑った。
簡潔に言えば、二人とも酔っていた。所狭しと並べられたジョッキの数を見れば一目瞭然だ。私はお酒に弱いほうだし、庵くんは強いけれどザルではないらしい。そして酔えばより無口になるようだ。今もレモンサワーのジョッキを握って、その残り少ない中身に視線を落とし黙りこくっている。
テーブルに片肘をつき、手のひらに顎を乗せた。完全に酔いが回るまでは音楽のことや、割と真面目なことも話してたつもりだったけれど。さっきからずっとこうして、たわいない話や愚痴を聞いてもらっていた。
「それでそいつがさあ……」
つまらない、どこにでもある、ただの愚痴。バンドと掛け持ちでやってるバイトのこと、友達のこと、元彼のこと。庵くんは聞いてるんだか聞いていないんだかわからないけど、それでもちゃんと相槌だけは返してくれるし、クダを巻き続ける私を放って帰らなかった。それだけで十分だ。
「みょうじに……恋人は、いるのか」
「今? いないよー。寂しいフリーでっす」
ぽつりと零された言葉に、おどけて応える。彼氏と別れたのは半年ぐらい前だっただろうか。それ以来、恋愛ごととは一切音沙汰なしだ。自分で言っていて悲しくなってきた。
同じ女でも、バンド内のキーボードの子からはそういった話をよく聞く。それが楽しそうでちょっと羨ましい。私も彼女を見習って、もっと遊んでみるべきだろうか。
目の前の彼ぐらい美形だったら引く手数多なんだろうな、なんて考えながらその整ったかんばせをぼーっと眺めていれば、彼も同じように見つめ返してきて。耐えきれずに笑ってしまう。
「……何だ」
「そんなに見られたら、顔に穴空いちゃうよ」
不服そうな顔をした庵くん。それが機嫌を損ねた子供のようで、思わず。
判断力の鈍った私の手が、彼の頭に伸びてしまう。
「やめろ」
だけど、それは阻まれてしまい。ぱし、と腕を掴まれて、今度は私が唇を尖らせた。
「なんでー。可愛いのに」
「……余計、嫌だ」
「え、」
すぐに離された腕を引っ込めながら、ぱちぱちとまばたきをすれば。庵くんにふいと視線を逸らされて。あれ。さっきよりもっと拗ねてる……?
「男に言う台詞じゃないだろう……」
「ごめん」
苦笑いを零した。確かにそうだ、何だか悪いこと言っちゃったかな。それに髪も乱れちゃうし、他人に触れられるの好きじゃなさそうだし。今さらながら後悔が沸きあがる。
そんな少し気まずい空気を壊したのは、例のキーボードの女の子だった。
「ねえ、始発も来るしそろそろお開きだってー」
「あれ、もうそんな時間?」
腕時計を見れば、既に朝の五時前。話し込む……というか私が一方的に愚痴を言っていただけなのだけれど。
「ごめんね、うちのが迷惑かけて」
「いや……構わん」
二人の会話に、思ったより彼に嫌がられてはいなさそうで、ほっとする。同時に反省も。やっぱり、お酒はほどほどにしないと駄目だなあ……。酔いを冷まそうと、お冷の入ったジョッキを煽った。
「そう? ならよかった。じゃあ、後はよろしくね」
「ちょっと、よろしくって……何が?」
勝手に進んでいく話にストップをかける。するとこちらを振り向いた彼女。その顔が意外と近くにあって、数時間前よりしっかりリップが引かれているのに気付く。にんまりと弧を描いたその口元に、何やら嫌な予感がした。
「私と彼はJRだから。あんたと八神くんは地下鉄でしょ?」
「……そうだっけ?」
「そうなの!」
確かキーボードの子も、路線は違えど地下鉄に乗ってたよな、と首を傾げるけれど。
いやに近い二人の距離。彼女の笑顔が邪魔しないでよね、と言っているように見えて、そういうことかと溜息をつきそうになる。
実は付き合っていたのか、はたまたこれから落とすのか……うーん、きっと後者だろうな。
だらだらと荷物を纏め、上着を着て。代金を支払い、閑散とした居酒屋を出る。挨拶もそこそこに二手に別れれば、彼女らは足早に去っていった。
「じゃ、行こっか」
二人並んで歩を進める。少しして後ろを振り返れば、大げさなほど腕を絡めてしなだれかかっているキーボードの子が見えて、苦笑いしてしまった。
太陽が登り始めた辺りはほの明るく。同じように飲み明かしたらしいサラリーマンや、しぶとくキャッチを続けるホストなんかがちらほら歩いていた。
春先とはいえ朝はまだ寒くて。隣を歩く彼が身につけている、紅のレザーコートが羨ましい。襟に黒いファーまでついてるのもあったかそうだし。
「……おい」
「んー?」
のんびり返事をして振り向けば、目の前に庵くんの顔があって。驚いた私は咄嗟に身体を逸らそうとするけれど、彼の手に腕を掴まれてそれは阻まれた。
「どし、た……――っ!?」
それは、触れるだけのキスだった。
突然のことにふらついた足。逃げようとする腰を彼の腕に捕まえられ、動けなくなる。
いやに熱っぽいその三白眼と目が合って。びり、と体に電流が流れる。薄い唇は柔らかく、そんなことを考える自分がなんだか嫌で。
酔っているから? それだけ? それとも、
――他に意味がある?
身体を離されて、思わず目を瞑ってしまう。キーボードの下世話な笑顔が脳裏をよぎった。彼氏がいないか確認してたのって、まさかそういう意味? ああ、もし誘われたらどうしよう。断るのかな。断れるかな。一瞬でとめどない思考の奔流に流されてしまう。
だけど。カツカツと石畳を叩く靴音がして、それは遠ざかっていく。
このまま置いていくなんて、と慌てて目を開いた時には。既に庵くんの姿は消えていた。
「うそ、でしょ」
立ち尽くしたまま、赤く染まっているだろう頬を抑えて。心蔵がどくどくと脈打つ。どうして、なんで。一体何のつもりで、彼は。
言葉にならない呻きが、朝日に焼かれて散っていった。
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