回想録:青年F.N.
俺の一番古い記憶は、「親父」に手を引かれながらぼろっちい裏道を歩いたときのものだ。
都会の隙間を埋めるみたいに無理矢理建てられたコンクリートのさらに隙間は、当然昼間でもまともに日が当たっていない。カビや土の生っぽい匂いが漂っていた。道端に転がるプランターの萎えた草の、茎にだけ緑色が残っている。それが視界の中で一つだけ鮮やかな色だったのを、なぜか覚えている。
急ぐ風ではないけれど、手首を引っ張られる力は強くて、とうとう手がすっぽ抜けるんじゃないかと頭の隅で思っていた。親父は俺のことを見もせずずんずん進んでいく。景色は俺が意味を見つける前に後ろに流れていく。
俺の「親父」は本当の父親か知れない。なにせ、ろくな世話を受けた覚えがない。親父の周りにいた奴らが親父と呼んでいたから真似をしただけだった。俺はどこぞの孤児で使い捨てとしてもらわれたか、親父が本当の親を殺したか、どちらかだと俺は思っている。
ただそれは正直、大して興味のあることじゃない。俺は昔から、今目の前にあるものを、居るものを、「隅々まで確かめる」ことにだけ忙しい。多分親父はそのたちを邪魔に思っていて、なんでも問答無用で進めるのが得意だった。ちょうどこの時みたいに。
でも、すぐにそれには隙ができることになる。親父の携帯に着信があった。親父が立ち止まって、余所見していた俺は背中にぶつかって止められた。するとそこはちょうど細い十字路の真ん中で、視界が奥に開いた。
ぎりぎりはっきり見える遠さの行き止まりに、ゴミ溜めがあるのが見えた。そこに何かが寝そべっている。黒くてでかくて毛が見える。野良犬?違う。服も見える。
ヒトだ。
手前の枯れた枝がずりずりと俺のほうに向かって動いた。
それは枝じゃなくて腕だった。
生きてる。
その瞬間、そいつは横に滑って消えた。親父の電話が終わったからだ。
その日なんの雑用で連れ出されたのかは覚えていないが、何にしても俺の思考はすっかり、ゴミ溜めの枝人間に囚われた。どうにか抜け出して確かめに行きたくて、散々暴れて、親父の手をかいくぐるのにはずいぶん時間がかかった。
ぶん殴られて口の中が熱いと思いながら、行きの道をなんとか思い出して走った。息を切らして戻ってきたゴミ溜めに、まだそいつはいた。
さっきと同じ恰好で転がっている。やすりみたいな肌に小虫が図々しく這っているのに取ろうともしない。寝ているんだろうか。
他のやつに話しかける時は、舐められちゃいけない。俺は親父がいつもそうしてくるのを真似て、声を低くしておい、と呼びかけた。反応はない。今度はつま先で蹴った。まだ静かだ。
なんだか変に思ってしゃがんで覗き込む。そこで初めて顔が見えた。
そいつの目は、開いているのにどこも見ていなかった。
「人間が物になった」と俺は感じた、あの感覚をいま言葉にするなら。前に見た時まで息をして小さく動いていたんだろう体が、いくら注意深く見つめても全て止まっている。こいつはもう、周りにある空っぽの缶とも、ずっと前からここに建っている壁とも、同じ存在になったんだ。
それに対してなんともいえない悔しさが湧いてきて、首をかしげた。
唸っていると突然後頭部に衝撃があって、気づいたら俺は親父に捕まっていた。
*
時間が経って、フツーの人なら中学か高校くらいの歳のころ、俺は色々な日雇いバイトをして生活していた。
俺をこき使っていた親父は、ある朝取り巻きの奴らもろとも消えた。何がどうなって、だなんて、なんの説明もされてこなかったから知ったことじゃない。俺には用が無くなったことだけは確かだろう。
いつも邪魔ばかりしてくる人間から解放されてせいせいした。ただ、ずっと働かされたおかげでその後一人でも仕事ができたと考えると、ありがたく思わないでもない。
「働きたい」と言うだけで子供にもさせてくれる仕事は、俺の生きているところには当たり前にあった。考える頭がないから力仕事がほとんどだ。なんとか食いしのげる分の金しか貰えなくて楽とは言えなかったが、俺の歳の低さを可哀想がってものをくれるお人好しはたまにいた。
前と比べたらずっと自由で、静かな日が続いた。このまま日銭を稼ぎながら、なんとなく生きていけるんじゃないかとも思った。でも俺の脳には、あの日のことがこびりついたままだ。
――俺は死体が好きなのか?
一人でいくら考えても分かりやしない。もう一度直に見て確かめないと。とは言っても、この街でも死体はその辺に転がっているものじゃないらしい。あの日から死んだ人間と鉢合わせたことがない。
それなら自分から見に行くしかないと、俺は特殊清掃のバイトを受けることにした。
特殊清掃。人が死んだ現場の後始末をする仕事。死んだ本人と関係なくても、センモンカじゃなくてももらえる仕事だ。その時受けたのは、アパートで刺し殺された奴の部屋掃除。俺は久しぶりに死体を見ることを思って、そわそわした気持ちでそこに向かった。
アパートの外には俺の他に作業する数人と、それを監督する人間がいた。渡されたごついマスクを付けて、監督がドアを開けると、むわっと熱と酸っぱい匂いが流れ出てきた。皆で中に入っていく。荒れ放題のまま放ったらかされてハエが飛んでいる。奥の畳部屋には布団が敷いてあった。横のテレビに黒い血痕が散っていて、布団からはみ出たところに人の形の染みがあった。
つまり、部屋には死体そのものはなかった。特殊清掃が誰にでも受けられるのは、現場から死体が運び出された後だからだった。それは最初に説明されていたのかもしれない。死体関係というだけでろくに聞かずに飛びつくんじゃなかった。
そんな後悔ができるようになったのは掃除の終わった後だ。とにかく匂いとウジを踏んだ感触がひどかった。吐きそうになって他の奴らと一緒にうめきながら汚れを拭いた。畳に染みついた殺人の様子にはわりと興味が湧いたが、それにしても腐ったものは俺はごめんだということが分かった。
絶対に死体に触ると分かる仕事じゃなきゃ駄目だ。次に俺は、小さい葬式屋のやっている死体洗いのバイトを受けた。ユカン、とかいうやつだ。
先に言ってしまうと、やっと死体を見ることはできた。でもどうにもピンと来なかった。すすぐための水に浸かった、白いゴム皮みたいなその表面に触ってみても、やっぱりそれはもう「物になった」後の何かでしかなかった。
葬式をあげてもらえるだけあって、その死体はどこも欠けていないよぼよぼの爺さんだった。ふと、この爺さんが生きていた頃の姿が見られればよかったと思った。どうしてだろう。俺はそれを見て何を確かめたいんだろう。
この仕事をして感じたのはそれぐらいだ。結局俺は何が欲しいのか、はっきりさせられないモヤモヤは溜まっていくだけだった。
*
真夜中の、シャッターが下りた商店街の角っこ。そこだけぼんやり明るい自販機の隣に座って、缶ジュースを飲みながら考える。
枝人間と、畳の染みと、爺さんと。どれを見ても「違った」理由はなんだろう。
それぞれに感じたことはなんだったっけ。
二度目に見たら死んでいたのが悔しかった。誰かが殺されたなごりに目を引かれた。死んだ後しか見えなくて物足りなかった。
じゃあ、俺がまだ見ていないものは――。
自販機の明かりがちかちかと消えかかった。その通りだと誰かに言われた気分になった。腹の奥からぐわっとやる気が上がってきて、俺は飲みかけの缶を置いて立ち上がった。
夜が明けてきたころ、俺は「ブルーシートで出来た家」を探し回っていた。
「やる」ならなるべく目立たないのがいいんだろうと思う。相手も、やり方も。
川沿いの、公園だか空き地だか見分けのつかないところを歩いていく。すると、フェンスの向こうで積まれたゴミ袋に埋もれて、はっきりした青が並んでいるのが見えた。走って近づきたいのを我慢して遠まきに目を凝らす。ちょうど、そこで暮らす奴らがのそのそと出てきたところだった。よく見て、その中でも特にひもじそうな奴を探す。一人だけ重ね着していないあのはげ頭がいいか。そいつをそれとなく付けていく。周りに誰も居なくなったところをめがけて、声をかけた。
土方仕事のバイトで、休憩中に喋ったオッサンが「騙された儲け話」のことを俺に真面目に話してきたことがある。それをそっくりそのままはげ頭に話してやったら、思ったよりすんなり乗ってきた。金額を聞いて態度を変えたからどんな話でも良かったのかもしれないけど。とにかく一人目でうまくいったのはラッキーだ。
案内するからと言ってそいつの先を歩き出す。道を入っていく。奥へ奥へ。古いほうへ。なんでこんな道を行くのか聞かれて近道だからと声だけで返す。気分が浮いてつい早足になってしまう。いい加減怪しまれるし、もう待ち切れない。この辺りでいいだろう。
角を曲がってすかさず振り返り、そいつを横から思い切り蹴った。するとあっけなく向こう側に倒れた。
あの日とそっくりの、暗い行き止まりだった。
反応を見ている暇はない。ここで逃げ出されたらたまらない。どすんと跨って、買っておいたナイフを上着の内から引きずり出す。
振り下ろして、沈ませた。
蛙みたいな声が聞こえた。触れた生地に温かさが広がった。
心臓がうるさい。周りの音がどんどん遠くなっていく。夢中でもう一度振り下ろした。これで見られる。早く確かめさせてほしい。
口で息をしながら前を見上げた。しわくちゃに顔を歪ませてなにか言っているそいつの口が、ゆっくりと止まった。
嘘だろ、と思った。
もう終わり? こんなもんだったのか? こいつはこのまま――。
その時。
手を上から握られた。ぐう、と、今までにない力で押し返そうとされた。
身体中に痺れが走りぬけた。
その力はだんだん抜けていって、地面に落ちた。
あ。
これだ。
都会の隙間を埋めるみたいに無理矢理建てられたコンクリートのさらに隙間は、当然昼間でもまともに日が当たっていない。カビや土の生っぽい匂いが漂っていた。道端に転がるプランターの萎えた草の、茎にだけ緑色が残っている。それが視界の中で一つだけ鮮やかな色だったのを、なぜか覚えている。
急ぐ風ではないけれど、手首を引っ張られる力は強くて、とうとう手がすっぽ抜けるんじゃないかと頭の隅で思っていた。親父は俺のことを見もせずずんずん進んでいく。景色は俺が意味を見つける前に後ろに流れていく。
俺の「親父」は本当の父親か知れない。なにせ、ろくな世話を受けた覚えがない。親父の周りにいた奴らが親父と呼んでいたから真似をしただけだった。俺はどこぞの孤児で使い捨てとしてもらわれたか、親父が本当の親を殺したか、どちらかだと俺は思っている。
ただそれは正直、大して興味のあることじゃない。俺は昔から、今目の前にあるものを、居るものを、「隅々まで確かめる」ことにだけ忙しい。多分親父はそのたちを邪魔に思っていて、なんでも問答無用で進めるのが得意だった。ちょうどこの時みたいに。
でも、すぐにそれには隙ができることになる。親父の携帯に着信があった。親父が立ち止まって、余所見していた俺は背中にぶつかって止められた。するとそこはちょうど細い十字路の真ん中で、視界が奥に開いた。
ぎりぎりはっきり見える遠さの行き止まりに、ゴミ溜めがあるのが見えた。そこに何かが寝そべっている。黒くてでかくて毛が見える。野良犬?違う。服も見える。
ヒトだ。
手前の枯れた枝がずりずりと俺のほうに向かって動いた。
それは枝じゃなくて腕だった。
生きてる。
その瞬間、そいつは横に滑って消えた。親父の電話が終わったからだ。
その日なんの雑用で連れ出されたのかは覚えていないが、何にしても俺の思考はすっかり、ゴミ溜めの枝人間に囚われた。どうにか抜け出して確かめに行きたくて、散々暴れて、親父の手をかいくぐるのにはずいぶん時間がかかった。
ぶん殴られて口の中が熱いと思いながら、行きの道をなんとか思い出して走った。息を切らして戻ってきたゴミ溜めに、まだそいつはいた。
さっきと同じ恰好で転がっている。やすりみたいな肌に小虫が図々しく這っているのに取ろうともしない。寝ているんだろうか。
他のやつに話しかける時は、舐められちゃいけない。俺は親父がいつもそうしてくるのを真似て、声を低くしておい、と呼びかけた。反応はない。今度はつま先で蹴った。まだ静かだ。
なんだか変に思ってしゃがんで覗き込む。そこで初めて顔が見えた。
そいつの目は、開いているのにどこも見ていなかった。
「人間が物になった」と俺は感じた、あの感覚をいま言葉にするなら。前に見た時まで息をして小さく動いていたんだろう体が、いくら注意深く見つめても全て止まっている。こいつはもう、周りにある空っぽの缶とも、ずっと前からここに建っている壁とも、同じ存在になったんだ。
それに対してなんともいえない悔しさが湧いてきて、首をかしげた。
唸っていると突然後頭部に衝撃があって、気づいたら俺は親父に捕まっていた。
*
時間が経って、フツーの人なら中学か高校くらいの歳のころ、俺は色々な日雇いバイトをして生活していた。
俺をこき使っていた親父は、ある朝取り巻きの奴らもろとも消えた。何がどうなって、だなんて、なんの説明もされてこなかったから知ったことじゃない。俺には用が無くなったことだけは確かだろう。
いつも邪魔ばかりしてくる人間から解放されてせいせいした。ただ、ずっと働かされたおかげでその後一人でも仕事ができたと考えると、ありがたく思わないでもない。
「働きたい」と言うだけで子供にもさせてくれる仕事は、俺の生きているところには当たり前にあった。考える頭がないから力仕事がほとんどだ。なんとか食いしのげる分の金しか貰えなくて楽とは言えなかったが、俺の歳の低さを可哀想がってものをくれるお人好しはたまにいた。
前と比べたらずっと自由で、静かな日が続いた。このまま日銭を稼ぎながら、なんとなく生きていけるんじゃないかとも思った。でも俺の脳には、あの日のことがこびりついたままだ。
――俺は死体が好きなのか?
一人でいくら考えても分かりやしない。もう一度直に見て確かめないと。とは言っても、この街でも死体はその辺に転がっているものじゃないらしい。あの日から死んだ人間と鉢合わせたことがない。
それなら自分から見に行くしかないと、俺は特殊清掃のバイトを受けることにした。
特殊清掃。人が死んだ現場の後始末をする仕事。死んだ本人と関係なくても、センモンカじゃなくてももらえる仕事だ。その時受けたのは、アパートで刺し殺された奴の部屋掃除。俺は久しぶりに死体を見ることを思って、そわそわした気持ちでそこに向かった。
アパートの外には俺の他に作業する数人と、それを監督する人間がいた。渡されたごついマスクを付けて、監督がドアを開けると、むわっと熱と酸っぱい匂いが流れ出てきた。皆で中に入っていく。荒れ放題のまま放ったらかされてハエが飛んでいる。奥の畳部屋には布団が敷いてあった。横のテレビに黒い血痕が散っていて、布団からはみ出たところに人の形の染みがあった。
つまり、部屋には死体そのものはなかった。特殊清掃が誰にでも受けられるのは、現場から死体が運び出された後だからだった。それは最初に説明されていたのかもしれない。死体関係というだけでろくに聞かずに飛びつくんじゃなかった。
そんな後悔ができるようになったのは掃除の終わった後だ。とにかく匂いとウジを踏んだ感触がひどかった。吐きそうになって他の奴らと一緒にうめきながら汚れを拭いた。畳に染みついた殺人の様子にはわりと興味が湧いたが、それにしても腐ったものは俺はごめんだということが分かった。
絶対に死体に触ると分かる仕事じゃなきゃ駄目だ。次に俺は、小さい葬式屋のやっている死体洗いのバイトを受けた。ユカン、とかいうやつだ。
先に言ってしまうと、やっと死体を見ることはできた。でもどうにもピンと来なかった。すすぐための水に浸かった、白いゴム皮みたいなその表面に触ってみても、やっぱりそれはもう「物になった」後の何かでしかなかった。
葬式をあげてもらえるだけあって、その死体はどこも欠けていないよぼよぼの爺さんだった。ふと、この爺さんが生きていた頃の姿が見られればよかったと思った。どうしてだろう。俺はそれを見て何を確かめたいんだろう。
この仕事をして感じたのはそれぐらいだ。結局俺は何が欲しいのか、はっきりさせられないモヤモヤは溜まっていくだけだった。
*
真夜中の、シャッターが下りた商店街の角っこ。そこだけぼんやり明るい自販機の隣に座って、缶ジュースを飲みながら考える。
枝人間と、畳の染みと、爺さんと。どれを見ても「違った」理由はなんだろう。
それぞれに感じたことはなんだったっけ。
二度目に見たら死んでいたのが悔しかった。誰かが殺されたなごりに目を引かれた。死んだ後しか見えなくて物足りなかった。
じゃあ、俺がまだ見ていないものは――。
自販機の明かりがちかちかと消えかかった。その通りだと誰かに言われた気分になった。腹の奥からぐわっとやる気が上がってきて、俺は飲みかけの缶を置いて立ち上がった。
夜が明けてきたころ、俺は「ブルーシートで出来た家」を探し回っていた。
「やる」ならなるべく目立たないのがいいんだろうと思う。相手も、やり方も。
川沿いの、公園だか空き地だか見分けのつかないところを歩いていく。すると、フェンスの向こうで積まれたゴミ袋に埋もれて、はっきりした青が並んでいるのが見えた。走って近づきたいのを我慢して遠まきに目を凝らす。ちょうど、そこで暮らす奴らがのそのそと出てきたところだった。よく見て、その中でも特にひもじそうな奴を探す。一人だけ重ね着していないあのはげ頭がいいか。そいつをそれとなく付けていく。周りに誰も居なくなったところをめがけて、声をかけた。
土方仕事のバイトで、休憩中に喋ったオッサンが「騙された儲け話」のことを俺に真面目に話してきたことがある。それをそっくりそのままはげ頭に話してやったら、思ったよりすんなり乗ってきた。金額を聞いて態度を変えたからどんな話でも良かったのかもしれないけど。とにかく一人目でうまくいったのはラッキーだ。
案内するからと言ってそいつの先を歩き出す。道を入っていく。奥へ奥へ。古いほうへ。なんでこんな道を行くのか聞かれて近道だからと声だけで返す。気分が浮いてつい早足になってしまう。いい加減怪しまれるし、もう待ち切れない。この辺りでいいだろう。
角を曲がってすかさず振り返り、そいつを横から思い切り蹴った。するとあっけなく向こう側に倒れた。
あの日とそっくりの、暗い行き止まりだった。
反応を見ている暇はない。ここで逃げ出されたらたまらない。どすんと跨って、買っておいたナイフを上着の内から引きずり出す。
振り下ろして、沈ませた。
蛙みたいな声が聞こえた。触れた生地に温かさが広がった。
心臓がうるさい。周りの音がどんどん遠くなっていく。夢中でもう一度振り下ろした。これで見られる。早く確かめさせてほしい。
口で息をしながら前を見上げた。しわくちゃに顔を歪ませてなにか言っているそいつの口が、ゆっくりと止まった。
嘘だろ、と思った。
もう終わり? こんなもんだったのか? こいつはこのまま――。
その時。
手を上から握られた。ぐう、と、今までにない力で押し返そうとされた。
身体中に痺れが走りぬけた。
その力はだんだん抜けていって、地面に落ちた。
あ。
これだ。
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