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淡藤の残像

 夢を見た。
 「あの人」に殺される夢。
 殺してもらえる夢。
 どんな風に殺されただとか、その前に何があっただとかは、よく思い出せない。
 そもそも、この舞台にそんな過程など存在しなかったのかもしれない。
 ただ、自分が地べたにへたり込んで夥しい血を吐いていて、目の前であの人が俺を見下ろすように立っているということ――。
 俺にとっては、それだけで充分だった。
 上手く息ができない。酸素の行き渡らない脳は時折視界をぼやけさせる。
 けれど、最高に気分が良い。
 するとあの人がゆっくり膝をついて、ぐちゃぐちゃに汚れた俺をふわ、と抱いた。
 温度も何も感じなかったのは、夢のせいだと言うにはあまりにもリアルな、死に際の無感覚だった。
 あの人がなにか囁く。
 聞きとれない。でももうなんでもいい。
 やっと、やっとだ。
 いま、あの人の何も映さない瞳は、それでも確かに『俺』を見ているのだ――。

******

 目の前に呑気な寝顔があった。
 長い睫毛、ついでにこちらも長めの金髪。鼻筋の通って頭にくるほど整った、聖護院成臣という男の寝顔だった。
 視線を周りに移すと、小綺麗な寝室はまだ仄暗い。
 外は夜が明けきっていないらしい。
 ここで俺はじわりと、あの夢のような喜劇は文字通り夢だった、という結論に至った。
 少しの間それを反芻し、隣で眠る男へと視線を戻す。
 そいつは相変わらずすやすやと寝息を立てていた。
「……似てない」
 呟きながら、成臣の頬と髪の間に指を滑らせる。
 そう、似ていない。全く。
 表情も、仕草も。
 俺の名前を呼ぶことの意味も。
「んん……」
 俺の手をくすぐったがるような声を出して、成臣が瞼を開けた。
 まだ覚醒したてのその瞳は、カーテンの隙間からわずかに入る光を取り込んで、新緑のような色をして輝いている。
 ……その目が一番『そう』だ。
 本当に、まるで正反対だよ。
 そこまで考えて、俺は成臣の頬から手を離し、代わりにシーツに手をついて上半身を起こした。
「んぁ……。おはようござ、」
 それに気づいた成臣がそんな声を上げたが、無視して俺はそいつの腹の上へ荒くまたがった。
 急にのしかかった重みに成臣は、う、と小さく呻いて、それから、状況が把握できないとでも言いたげにきょとんと見つめてきた。
 それを少しだけ見つめ返して、成臣の首筋を、右手でそっと撫でた。
 そして親指をかけて、左手も重ねる。
 力を徐々に、徐々に入れる。
 これは――こういう行為は、俺にとっても成臣にとっても、別にイレギュラーなことではない。
 何か意図があってやることでもない。
 ただ俺が気まぐれに、あるいはそれこそ夢の中の悦楽から覚めたくなくて、始めることだった。
 成臣の喉仏が、ぐっと動くのを感じた。
 さっきまで驚きに見開かれていた目が苦しさに細められる。目頭にはみるみる涙が溜まっていく。
 口がはくはくと不完全な呼吸を繰り返し、時には喉の下で詰まってしまった音さえ聞こえる。
 頬はすっかり紅潮して、もう額からも汗が滲み始める頃だろう。
 絶え間なくえづき混じりの掠れた声を出して、ああ、お前のそういう顔が――。
 その時。
 成臣が笑った。
 力なく、けれど明確に。
 待ち望んでいたかのように。
 なんだよ……それ。
 これが本望だとでも?
 それじゃまるで、夢の…………。
「っ、ゴホッ、ゴホ、か、は…………ぁ」
「……萎えた。やめる」
 成臣の首から手をパッと離して、ベッドから降りた。
 そのままドアのほうへ早足で向かった。
 くそ、最悪だ。こんなのは。
「あ……っ、なおきさん、どこに」
 ドアノブを乱雑にひねって開けたところで、成臣がぐしゃぐしゃの顔のまま聞いてきた。
「風呂。シャワー浴びる、ついてくんなよ」
 言い捨てて、ドアをピシャリと閉めた。

******

「本当に水だけでいいんですか?」
「ん……」
 テーブルの向こうからミネラルウォーターを注いだコップを差し出して、さも心配そうに尋ねてくる成臣に、俺は椅子に横座りで寄りかかったまま応えた。
 俺がいつまでもコップを受け取らないので、ここに置いときますね、と言って成臣はキッチンに戻っていった。
 テーブルの、もう一つある椅子のほうには、出来立てのハムエッグがのった皿、小さめのサラダボウル、高級そうなジャム瓶、それから牛乳パックと空のコップが置かれている。
 おそらくあとはトーストを持ってきて完成なのだろう。
 まあ健康的なことで。
「びっくりしましたよぉ、本当」
 成臣がキッチンに立ったまま少し声を張って話しかけてきた。
「尚輝さん、上に何も着ないまんま早足で行くから、僕、あぁそのまま外行っちゃだめですよって思って」
「馬鹿か。んな露出狂みたいなことする気ないし」
 体勢は横座りのままコップを取って、手慰みに水面を揺らす。
「ですよねぇ、でもいつも朝は起きてすぐ帰っちゃうじゃないですか」
「まあ……そうだけど」
 今朝起きてからシャワーを浴びたのも、こうして朝食の時間までこの部屋にいるのも、俺の気まぐれ。
 決して、なんだかこのままでは釈然としないからではない。
 そういうことにすることにした。
 水を一口だけ飲む。
 飲みにくい味だ。
 こいつの買っているミネラルウォーターは硬水だから、俺の口に合わない。
「……今日、『手』でしたね」
 焼きあがったトーストを持って戻ってきた成臣が、椅子に座りながらそう言った。
 手というのは、素手でやろうとしたということだ。
 ナイフやカッターなどの刃物、そうでなくても道具を使って標的を屠るのが常である俺が、自分の手しか使わなかった、ということ。
「どうしてですか?」
 聞いてくる成臣の表情は、ただ純粋に疑問であるという風で、声色からはむしろ期待すら入り混じったニュアンスを感じた。
「別に、ただ周りに使えそうなものがなかっただけ」
「そうですか……」
「なんで?なんか気になんの」
「あぁいや、なんというか、」

「あのとき尚輝さんが、やっと僕を見てくれた気がして」

 背筋を上から下へ電気が走った。
 こいつ、こんな目をするやつだったか?
 そして同時に俺は確信した。
 こいつも結局、俺と同じなのだ。
「…………見てるじゃんいつも。付き合ってんだから」
「へっ?あっ、そ、そうですよね……えへへ」
 動揺を抑え込んで、ようやく絞り出したリップサービスに素直に照れる成臣の顔は、いつものお人好しで締まりのないそれに戻っていた。
「はあ……そういうこと」
 成臣には聞き取れないであろう程度の小声で呟いた。
 成臣、つまりお前はいつもの、道具を使った俺の仕事の『ごっこ遊び』じゃなくて、俺の手で本当に殺してもらいたかったんだろ。
 可哀想だな。お前も俺も。
 想いが報われるのは、愛した人に殺されるその一瞬だけしかない、だなんて。
 そんな、俺に似てしまったお前を見ているから、夢見のいい朝も不安になるんだ。

 あの夢は本当に俺の感じた通りだった?
 「あの人』が俺を殺したという証拠は?
 本当は、標的の返り討ちにあって瀕死になった俺を見限りに来たところだった、という可能性は?
 囁かれたのは愛の言葉か、それとも……。

 きっとあの人と俺がそうだったように、俺と成臣も大部分がすれ違ったままで、なに一つ前に進まない腐った関係性なのだろう。
 それでも成臣が報われたいと言うのなら、じゃあせめてこれからは、この手をその首にかけるぐらいはしてやろう。
 それから――
「……そんな顔してるうちは駄目だな、成臣」
 そう、さっきみたいに、あなたしかいないんだと言う目で俺を見つめればいい。
 俺を問い詰めればいい。
「えぇ!なんですか急に……これでもしゃんとするように意識してるんですよ」
「全くできてないなぁ。というかゆっくり朝飯なんか食べて講義に遅れないの?学生クン」
「今日は休講だって昨日の晩言いましたよ……話聞いてくださいよぉ」
「そうだっけ」
 そのとき俺が少しでも、あの人よりお前を見ることができていたら。
 きっとお前を殺してやるから。
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