苛立ちの理由(西谷誉)
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「名無しちゃん。何怒っとんの」
この人の声は、何故こうも人の神経を逆撫でさせるのか。名無しは背中に浴びせてくる声に振り向くことなく、歩みを進める。
「なぁ、なぁ」
カツカツとヒールの踵が固い地面を打ち鳴らす。後ろの男とヒールの音は、周囲の注目を嫌でも集める。それが更に名無しを苛立たせる。目立つのがそもそも好きではないのだ。この男が追従してこなえれば、いつもならばこんな風な歩き方はしないのだ。
「なぁって」
名無しは精一杯歩みを早めているというのに、男は意に介した風もなく、容易く横につき、名無しの顔を覗き込む。
「無視せんといてぇな。おっちゃん、悲しゅうて涙出てまうわ」
そもそもこの男自体が派手なのだ。臙脂色のスーツに紫のネクタイ。そしてしゃがれているくせにやけに粘っこく耳につく声質。そして年齢と不釣り合いな、子供染みたようなおどけた台詞回し。
あぁ、しかもこのヒール、おろして間もないのに。いや、そもそもヒールなんて嫌いなのだ。
ーーあぁ、もう、何もかもが、イライラする。
カツン、とヒール音が止まる。
「本当に分からないんですか!? ご自分が先ほど何を仰ったのか覚え……!」
覚えていない程のトリ頭なんですか、と続けたかったがその言葉は飲み込んだ。あんまりな暴言は命取りになる。かろうじて残っていた理性が名無しの喉を押し込めた。ーーこの男は、名無しの勤務先の上客でもあり、ヤクザ者なのだ。
「えぇ…と。『ワシのオンナにならへん?』」
わざとではないかとも思えるその鈍感さが、名無しのイライラを加速させる。
「その後です!」
あぁ! と、男は目を大きく見開いて嬉しそうな声を上げる。
「あれか! 『一発ヤらへ……』」
「自重してください!! 公道ですよ!?」
男が最後まで言い終わらないうちに名無しは遮る。
「えぇ……言わしたん、名無しちゃんやん……。あぁ! でもワシ、そういうん嫌いやないで。プレイみたいやし」
ニカっと白い歯を見せて笑う男に、名無しは怒髪天を衝く寸前だ。
「誰もそんなこと聞いてませんし、知りたくもありません!」
「なんやなんや。 名無しちゃん、ほんまウブでかわいらしいなぁ」
話がどんどんずれていく。怒っているこちらが馬鹿らしくなってくる。しかし、これがこの男の手口なのだ。だからこの男が嫌いなのだ、と名無しは改めて思う。
「西谷さんが恥を知らなさすぎなだけです!」
男の名前は西谷誉。単なるヤクザ者ではない。蒼天堀界隈を仕切る近江連合のお偉いさんらしい。どの程度の偉さなのかは名無しは知らない。興味もない。そもそも関わりたくないのだから、深く知る必要もない。
名無しと西谷は、キャバクラのキャストと客という関係であった。とはいえ、名無しは隣の席で横目で見ていたり、ヘルプで入っただけで、直接ついたことはない。西谷の派手な遊び方は、名無しに合っていないのだ。いつも笑顔を張付けて、冷たく横目で見ていた。そういう空気には聡い男のはずが、なのになんでーー
「ーーそもそも、なんで私の本名知ってるんですか」
「みょうじ 名無しちゃん。名前だけやあらへんで。お家の事情で不本意ながらも学費のためにキャバクラで働いとること。ヒールはいつ迄経っても慣れんこと。ある程度稼いだら辞めるつもりやってこと。それがもうすぐってことも知っとるで。せやから、一世一代、告白しに来たんやがな」
名無しは息を呑んだ。この男は名無しの通う大学も、住所も、……実家の場所や事情でさえも、なにもかもを知っている。単なる直感だがそう思った。そしてその勘ははずれてはいないのか、西谷は緊張の走った名無しの顔を見て嬉しそうに笑った。
「知りたいん? どーしよっかなー。教えてあげよっかなー。ーーせや」
節をつけて歌うような独白がピタリと止まる。何か名案が浮かんだらしい。
「ちゅーしてくれたら教えてあげるわ」
「あ、結構です」
うー、と唇をタコのように突き出した西谷を一瞥すらせず、名無しは冷たく突き放す。
「ほんまに冷たいわ……名無しちゃん。……あぁ、あかん。クセになりそうや」
上擦ったような声を出して身をクネクネとさせる西谷を見て、名無しはげんなりとした。と、同時に、その西谷のコミカルな挙動にほんの少しだけ余裕を取り戻す。
とりあえずはこの男を信じるしかない。この男は常識破りなことばかりをするが、お店の女の子が本気で嫌がることは強要したことはない。今は、その良心にすがろう。
そんなことを考えている間に、西谷は一人で妄想を進めていたのかハァ、ハァ、と息を荒げてうっとりと宙を見ていた。ーー本当に自分が馬鹿らしく思えてくる。名無しは脱力した。
それにしても、この男は本当にへこたれない。
「そもそもですね。先ほどちゃんとお断りしましたよね。
私と西谷さんじゃ何もかも違い過ぎます。立場も、年齢も、性格も、常識とするもの全て。お付き合いしてもお互い不幸になるだけです。
それに……今回のことで見損ないました。西谷さん、品のない遊び方はするけども、ルールを守……ってるんだか守ってないんだかだけども、女の子が本当に嫌がることは……してる時もあるけど……あ、でもすぐ止めてくれるし、凄んで強要とかはしないし、……あれ? でもお金バラまいて……」
「……」
「……」
しばし沈黙でお互い目を合わせる。心なしか西谷の視線はすがるような色を含んだ眼差しだ。
「……もしかして見損なうも何も、元から最低?」
「ーーさすがのワシも、それは傷つくで」
西谷はがっくりと肩を落とし、その場でしゃがみ込んだ。その姿を見て名無しは不覚にも、ほんの少しだけーー可愛いと思ってしまった。いつの間にかあんなにもイライラしていた気持ちも消えていたことに名無しは気づいた。
「ま、でも。そっちのほうが名無しちゃんらしいわ」
碌に会話したことも無いと言うのに、この男は私らしいと評するのか、と名無しは戸惑った。ーーそう。そもそもこんなにもまともに西谷と話したことは今までになかった。だというのに、突然の今日の出来事。
ーーこれは、半ば嫌がらせに近い、からかいなのだ。店外でまで無料でこの男のお遊びにいつまでも付き合うことはない。
「……ともかく」
話を戻す。
「お店の外で、キャストのプライベートを付け回すような無粋な遊び方をする人じゃないと思ってた、ってことです」
「せやなぁ」
しゃがみ込んだまま、西谷は懐から煙草を取り出し、それを咥えたまま火をつける。
「ワシも焼き回ってもうたんかなぁ……」
そう呟いて、西谷は煙草越しに息を深く吸う。この蒼天掘の薄汚れた空気も、この冬の夜の寒さで普段よりも澄んでいるように感じる。なんとなくつられるように名無しも深呼吸をする。
西谷の鼻から煙が吐き出される。”蒼天堀の空気はこうでないとあかん”ーーそう自重するように西谷は薄く笑っていた。
「名無しちゃんには言えんような商売しとるさかいなぁ。いつでもバチ当たってもええよう、後悔だけはしたないーーっちゅぅことや。まぁ、前は遊びで満足できとったんやけど、歳のせいか意地も張れんようなって……ま、そんなんどうでもええわ」
そう言って西谷は立ち上がった。
「あんたが断ったんは、『わしのオンナになってくれ』っちゅー件や。もう一個の方は返事もろてへん」
楽しそうに、しかしまっすぐと名無しを見据える。しかし名無しは、言われたことの意味が今ひとつ捉えられず、怪訝な顔で見返すしかなかった。
「確かに真面目な名無しちゃんとええ加減なワシや。ワシはノリで女の子にすーぐ触ってまうし、触ってもろてーーって、名無しちゃんは多分そんなん無理や。名無しちゃん、夢持って学校行っとるけど、ワシと関わっとったらそれも叶わんどころか危ない目に合うかもしらんしな。確かに、お互いを不幸にするっちゅーんは、きっと正しい。阿呆なワシでも理解出来たわ。さすが大学行っとるっちゅーだけあって、名無しちゃん賢しこや」
そう言うと、西谷はまだ長さの残った煙草を地面に落とし、靴底で火種を擦り潰してゆっくりと名無しに歩みを進め、距離を縮める。
「せやけど中卒のワシでも結構賢しこなんやで? 昔っから名案だけは浮かぶんや」
そう言って顔を名無しに近づける。思わず名無しは仰け反るが、ぐるりと肩に回された腕がそれを許さなかった。
「せやからなぁ。思い出作りに一晩明かそーーーそう言うとるんやないか」
肩を優しく撫でられながら、酒灼けした声が甘く名無しの耳元に囁かれる。生温く湿った息に煽られ、身体中の血が耳に収束し、熱を持つ。
「な、なんでそんな話になるんですか!」
弾けたように腕を使って西谷の身体を押しのける。服越しで伝わる肉体の感触すら、今の名無しにとって何故だか生々しく感じられた。西谷は促されるままに抵抗することなく身体を離した。
「何が?」
いかにもすっと惚けたような芝居掛かった口調。
「だ、だって最初にお付き合いすること断ってるのに、なんでそんな話になるんですか!!」
「なんでって……そら」
西谷は呆れたように自分の頭を掻く。
「名無しちゃん、わしのこと好きやろ」
フリーズ。
「ワシも名無しちゃんこと好きや。せやから好いとるモン同士、1回の思い出作りでヤっとくんもアリやないか言うとんねん。な?名案やろ?」
西谷は構わず好きに言葉を続けているが、名無しは脳内の処理が追いつかない。
「ちょっと待ってください」
「ん?」
「好いてる……?」
「あぁ」
「誰が?」
「名無しちゃんが」
「誰を?」
「誉ちゃんを」
「私が、誉ちゃんを……」
「そう、この誉ちゃんを」
言われるがままの単語を繰り返す名無しを面白そうに西谷は眺める。しかし反応しない名無しにすぐに飽きたのか、再び煙草を取り出し、煙とともに呆れを吐き出す。
「なんや、自分、気づいとらんかったんかいな」
西谷のこの言葉でようやく、名無しの意識は帰ってきた。
「なんで!?」
「なんでて……。あんた、お店で女の子とイチャイチャしとったらいっつもこっちガンつけよって、いっつも嫉妬しとったやろ」
「それは単純に不愉快だからで!」
「それにさっきの断った理由も、ほんまワシとのこと考えたことやないか」
「その解釈はポジティブ過ぎでは!?」
「ならーーあんた、ワシのこと嫌いか?」
嫌い。ーーではない。
ただ、この男にはいつもイライラさせられるのだ。だから好きなはずがない。
それを確認するかのように西谷の顔を見る。いくらでも考えたらええーー彼はそうとでも言っているかのように、ネオンの光に照らされる西谷の横顔を。
ーーしかしそれならば、なぜ、今はイライラしないのか。なぜ、店だとイライラして、今はーー。
『いっつも嫉妬しとったやろ』
ーー先ほどの西谷の言葉が名無しの頭の中で反芻される。
突如、頭の中で何かがパチンと音を立ててはまった。
だけどもそれは受け入れてはならない。
「すっ……」
異音とも言える名無しの発生に、怪訝そうに西谷は煙草を吸う手を止め、振り返る。
真正面からまともに目が合う。堰き止めていた言葉がーーー溢れる。
「……き」
途端、西谷は好相を崩す。途端、名無しの内側に、イライラがむくりと起き上がる。
「嫌い! 西谷さんなんて嫌いです!!
ばーーーーーーーーか!! 西谷さんのぶぁーーーーか!!!」
名無しはハンドバッグを顔目掛けてぶつけ、西谷が一瞬怯んだ隙にその場を走って去った。
* * *
西谷は、ヒールのせいで走りにくそうにしている名無しの後ろ姿が雑踏に消えるまで眺めていた。
「馬鹿はアカンやろ。馬鹿は。阿呆にしといてぇな……」
その独り言はどこか楽しげである。普段、自分が人を呆れさせることは多いが、その逆はなかなかない。なかなか新鮮な感覚である。
「せやけど」
あない顔真っ赤にしてーーー小学生かいな。普段澄ました顔しとる癖に。
思い返される彼女の顔が脳裏に浮かぶと、ふっと、笑いがこみ上がる。
「やっぱ思うた通りおもろい女や。ほんま堪らんわ」
すっかり短くなった煙草を落とし、再び靴底で揉み消すと、西谷は歩き出した。
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