ストレイトリガー

 イタルがいなくなったことで、不本意ながらセンリは部屋の主となってしまった。当然寝床を交換する制度もなくなって、毎晩ベッドで眠れるようになった。しかし、朝起きても食事が用意されているわけではなく、センリは毎日、適当にパンを焼いては齧っていた。
 食事が終わると、寝室まで戻ることなく身体をソファーに横たえる。今日は何をすればいいのだろう。曇り空のように、頭のなかで靄が広がっていた。思考のパーツが錆びてしまって、うまく動かない。

 もはや兄に合わせる顔はなく、悪を滅ぼしても罪は消えず。今から正義を掲げられるほど、センリに力は残っていなかった。
 こうなってしまったら、この街では隠れて生きていくほかにない。裏稼業で暮らしていく方法はいくらでもあった。たとえば、悪人狩りや犯罪者が殺した人間の死体処理。たとえば、奪われたものを奪い返す盗みの仕事。善悪のグレーゾーンを行き来するような依頼先を探す人間は、この街には吐いて捨てるほど存在する。名を馳せない程度に食いつないで、センリはなんとか生きていた。
――イタルを手にかけたあの男が、自分を殺しに来ることはなかった。
 センリには人殺しの心理がわからない。だから、黒髪の彼が自分を殺さない理由もわからない。ただ一つ確信を持って言えることがあるとすれば、センリはイタルの死を、すなわち生を無意味にしたくはなかった。
 いつか誰かに、財団の真実を伝えるときまで――自分は生き残らなければならない。
 それがセンリ自身のためなのか、イタルを想ってなのか、もしくはそれ以外か。
 いつ何に巻き込まれてもいいように、あの日握っていた光線銃は、護身用としてずっと持ち歩いている。黒く硬い銃身は、決意によく似ていた。

 今は机の上で黒く光っているそれに、ソファーから視線を動かす。それがやっとだった。今日はどうしてか、目が覚めたその瞬間から、身体が闇夜に引きずられるように重かった。壁時計は、真昼を示している。仕事の予定は、しばらくはない。写真を撮りに行くほどの気力も、しばらくは湧いてこないだろう。
 カメラという趣味は、失うことを恐れて始めた記録だった。それなのにセンリは、彼を失うことを想定していなかった。何故か、ずっとそこにいるものだと思い込んでいた。
(もっとたくさん、撮っておけばよかった)
 後悔に押しつぶされて、身体が持ち上がらない。
もう丸一日寝て過ごそうかと目を閉じて、そのときふと思い出した。
――もし、財団と戦って、俺の身に何かあったら。寝る部屋にある机の棚、上から二番目の引き出しを開けてくれ。
 彼は、イタルの方は、この事態を予測していたのだ。
 細かく震える身体を奮い起こして、寝室へと向かった。持ち主を失った本や道具が広がり物置のようになっている机には、確かに三段の引き出しがついている。その、二段目を、とイタルは言っていた。
 ためらう一瞬があった。彼の想いを自分が受け取ることを。正直に、彼がいないことを認めてしまうことを。
 けれど、気にならないといえば嘘になる。いったいなにが遺されているのか、想像もつかなかった。だって、あのイタルだ。楽しみ以外の何もかもを軽視していた彼が、この世界に何を置いていくというのだろう。

 そっと引き出しを開ける。
 中には、何の変哲もない封筒がひとつ、ぽつんと放り込まれていた。
(手紙……?)
 意を決して手に取って、封を開ける。随分と枚数が多い。息を整えながら便箋をめくる。薄い紙の音だけが部屋に響いた。

 読みやすい丁寧な字。いくつもの整然とした図。便箋に書いてあったのは、遺言でも秘密でもなく――二人が毎朝飲んでいた、馴染みの紅茶の淹れ方だった。
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