ストレイトリガー
気だるさに沈む身体を無理やりに起こす。まともに眠れていなかった。髪がぐしゃぐしゃになっているのが感覚でわかる。
無言で椅子に座り、味のしない朝食を茶で流し込む。
「なんだ、センリ。残すのか?」
それを用意した男――イタルの問いかけに、無言で頷く。感情が麻痺して、申し訳なさすら感じない。
センリははたから見れば何の変哲もない、清潔感のある髪が少し緑がかっている他には、兄に影響された正義感くらいしか特徴がない人間のはずだった。青年と呼ばれる年齢になって、自分の力で生きられると過信した。憧れの背中を追って、なりたい自分――正義の味方を目指した結果犯したのが、あの罪だ。
繰り返される記憶。センリは取り下げられていく食器を無言で見送り、イタルの目の前で回想に沈んだ。
人を殺した。
悪人の蔓延る街。正義を貫く兄に憧れ、親に反抗し家を出て。非合法ながら強力な装置である「人体強化ユニット」――つまり、「悪と戦う力」をくれるという財団に流れ着いた。
力を渡す条件として、とある男――悪人の捕獲という指令で適正を試されることになった。同じ目的らしいいけすかない男と共に、二人一組で。
財団に悪人を無効化する銃を渡されて。二人で目標を追い詰めて。引き金を引いて――。
血が溢れ、標的は絶命した。
――騙されたのだ。
「どういうことだ。殺し……なんて、聞かされてない」
震える声で感情が溢れ出す。最初から殺させるつもりだったんだ。
「言ってはいなかったからね。でも、これで君たちは自分の判断で人を殺したということになる」
財団の男が笑う。着こんだスーツがいやにかっちりとしている。この財団は、表向きには娯楽施設や養護施設を支援している団体だ――だからこそ信じていた。なのに。
「僕は、僕は」
正義になりたかったのに、これじゃあ真逆じゃないか!
慈善事業を謳う財団の裏に、こんな闇があるなんて――怒りに任せて男の胸倉を掴む。
「こんなことをさせて、ただで済むと思うなよ。お前たちが僕らを騙して人を殺させたこと、世間が知れば――」
憎しみの籠ったセンリの視線を、ふっと煙草の煙で遮って、スーツの男は咳払いをした。
「ところで、センリくん、だったかな。君のお兄さんは随分といい人みたいだね。君はお兄さんに憧れたのかな?」
「――え?」
力がゆるんで、男の胸から手を離す。自分に兄がいることを話したはずはなかった。
「財団を舐めてもらっては困る。君の家族がどんな人物で、どこに住んでいるかも我々は知っている」
スーツの男が襟元を直す。突然、あらぬ方向から衝撃をぶつけられて、センリは困惑した。財団の男が追い打ちをかける。
「君が財団に反抗するなら、君の家族はどうなるだろうね?」
絶句した。絶望した。絶対の支配だった。
そこで初めて、センリは己に選択の権利がないことを突き付けられた。この混乱にもはや意味はない。反論も反抗もできず、目の前の男に――財団の圧力に潰されかけていた。
そのとき、スーツ男とセンリの間に、一人の青年が割って入ってきた。
「んでよ、その『強化ユニット』っていうのはもらえるのか?」
振り向くと、金髪の男が笑っていた。
「あの男を仕留めたんだ。俺らは合格だろ?」
――あっけらかんと言い出したその男こそ、共に任務を遂行したイタルだった。
標的の男を、彼と二人で同時に撃った。出会ったばかりの、同じ人殺し。けれどイタルは平気そうに、殺しの対価を要求してみせた。
蝕まれていく。人が人の命を奪うのは、こんなに軽い行為だったか?
次の指令は、「コイツ」の通信で送るよ。スーツ男は強化ユニットを二人に渡し、嫌みな笑いで追い出した。
こんな機械のために、自分は取り返しのつかない罪を。二人分の影が伸びる。
人通りの少ない夕暮れ。空の端は赤いが、気分は既に闇夜だった。非合法の強化ユニットを隠し持って、言葉を忘れてただ歩いた。
そうするつもりのなかった命を奪っておいて、ここまで平然としていられるものだろうか。黙ることがつらくなって、横にいたイタルに問いかける。
「おまえは人を殺しても、なんとも思わないのか」
確かめたかった。確かめなければならなかった。忌むべき行為を、禁忌であると定義し直すのだ。センリはじっとりと迫る焦りに追い詰められていた。このままでは、おかしいのは自分の方になってしまう。
「俺は強い奴と戦えればそれでいいんだよ。力があればあるほど楽しい」
即答だった。どうして、なんて聞くまでもなく続きは返ってくる。イタルは当たり前のようにからっと言った。
「俺は戦うのが好きなんだ。今を楽しめればそれでいい。たとえそれが殺し合いだろうとな」
「……は、なんだ、それ……」
狂ってる。
イタルにはきっと心を許してはいけない。彼は倫理を越えて突き抜けた思考の持ち主だ。
彼の乾いた金髪が夕日に照らされてキラキラと光っていた。その流し目が、写真を撮るように一瞬で、仕上がった写真のように永遠で。その光景をはっきりと覚えている。
それでも、だからこそ、信用ならない。
――そんな男の部屋に転がり込んだのは、どういう経緯だったか。
元はといえば、英雄暮らしを保障されるという甘言に飛びついたセンリのあやまちだった。確かに財団の本拠地に宿泊施設は充実していたが、詐欺殺人集団に一宿一飯でも与えられることは、センリの心にこびりついた正義感が許さなかった。
「んじゃ、とりあえず俺の部屋来るか?」
……というイタルも大概だったが、境遇が同じ分、彼の方がまだ暮らしを預けられる――というのが、センリの最終的な判断だ。
帰路でぽつりぽつりと話してみてわかったのは、自分たちが同年齢であること、二人の思考には埋めようのない断裂があるということくらいだった。真面目で考え込みがちなセンリと、軽い態度で思ったことをすぐ実行するイタル。その行動力のおかげで寝床を確保できたのだから、センリにはイタルの軽薄さを責める権利はなかった。
チャラチャラした見た目の印象通り、彼の部屋はかなり散らかっていた。エレベーターのあるマンションの一室は、リビングと寝室に分かれていて、使いやすそうなキッチンが特徴的だった。独り身でここまでいい部屋を手に入れることができるだろうか、と感じはしたが、そこを突き詰めて考えるほど、センリに思考のリソースは残されていなかった。
イタルは態度を変えず、友人を家に招いたのと同じ声色で告げた。
「とりあえず、疲れたから寝ようぜ。細かいことは起きたら考えるってことで」
そう言われて眠れるものか! 知らない部屋、殺人の余韻、家族を人質に強要される悪事。そんなものに囲まれて、ぐっすり眠れる方がおかしいだろう。
――それから、睡眠不足の日々が始まった。
共同生活に支障はなかったが、センリは日に日に衰弱していった。自分でもわかるくらい、顕著に。
夜になるたび、虚無の憂鬱に包まれる。寝床はベッドとソファーを交互に使う決まりになっていた。やけに大きいソファーに身を横たえて、無駄とは知りつつ目を閉じた。
罪。罰。やぶれた正義。そんな単語が頭の奥から湧き出て、思考回路をかき乱す。
曖昧なまどろみの中で、記憶が流れてくる。
やめてくれ。助けて。命だけは。声を無視して、光線銃を打ち込んで、血が、零れて、溢れて、流れて。さっきまで命乞いをしていた男は人間から死体になって。センリは銃を取り落とす。
浅い眠りから覚める。やっと悪夢が終わった、いや終わってはいない。恐ろしい夢だった、と思うのは……都合が良すぎる。――殺された男のほうが、よほど恐ろしい思いをしただろうに。
早鐘を打つ鼓動がうるさいほど存在を主張している。息が苦しい。今夜も眠れそうにない。
気だるさに沈む身体を無理やりに起こす。まともに眠れていなかった。髪がぐしゃぐしゃになっているのが感覚でわかる。
無言で椅子に座り、味のしない朝食を茶で流し込む。
「なんだ、センリ。今日も残すんだな」
イタルの問いかけに、無言で頷く。感情が麻痺して、申し訳なさすら感じない。
色のない日々を、ただ消化している。
「財団から連絡来てるぞ。指令を調節してるから、もう少し待てと。あとは例の脅しを繰り返された」
イタルからなされる報告と、話題になっているニュースの雑談と。そういうもので時間を潰して、一日を浪費していく。昼食は、と聞かれたので、いらないと返した。イタルは丸いパンを焼いて、ひとりで齧っていた。
財団から渡された装置を転がす。腰に装着するとベルトに変形するらしい。まるでヒーローの変身アイテムだ。――だとしたら、自分たちは敵役になるのだが。
「変身機能まではついてない奴だな、これ」
人体強化ユニットにもいくつか種類があり、一番高級なものには変身機能がついている。今手元にあるのは、そのままの姿で身体能力を強化し、戦えるようになる、というものだ。
「……殺人犯として、他人に顔を覚えられるってことだよな……」
正体を隠したいなら、自分で仮面か何かを探すしかない。が、まずこの街で顔を隠す道具を探している時点で、疑われに行くようなものだ。
この装置をどう使おうと、もう罪からは逃れられない。
これだけはと持ち込んだカメラに、触る気も起きなかった。写真は昔から入れ込んだ趣味なのに、どうして。
夕食の味はしなかった。身体を洗って、服を着替えて。
――また、眠りの呪いと戦う時間がくる。
今日はベッドを使う日だった。
イタルの寝室は、何度借りても慣れなかった。そもそもイタルはまだ寝る気がないらしく、ベッドの隣に陣取って、なにかの本を読んでいた。
「ああ、電気消すか。先に寝てていいぞ」
と軽く言ってくれるが、「寝よう」と思ってすぐ寝られるような精神状態ではない。リモコンで消した電灯を、無意味に凝視する。――と。
突然何かで目を塞がれた。それはじんわりと温かく湿っていて、花の香りがする。――心地いい。なんだよ、と手を伸ばすと、温かい何かはイタルの手で軽く押さえられえいて、センリにはどかすことができない。
ぽん、ぽん、と。何かを叩く音がする。一定のリズムで、穏やかな音が繰り返される。クッションを叩いている、の、だろうか。なんのために、とぼんやり考えた。
一言も喋らなかった。言葉を交わす必要のない空間がそこにある。視界を奪われたまま、やわらかな熱と音に包まれて――センリの感覚はゆるやかに、安寧の闇に落ちた。
気が付くと、兄が目の前に立っていた。憧れの兄。センリが力を求めたきっかけになった、
善意と行動力のかたまり。幼い頃から一番近くで、悪を打ち砕いていた存在。
(怒られるかな)
不本意にせよ悪事を働くセンリを、兄はどう思うだろうか。問いかける前に、彼が口を開いた。
「考え続けるんだ」
何を、と訊こうとしたけれど、兄は問い返す隙を与えてくれなかった。
「後悔はするかもしれない。立ち止まるかもしれない。それでも、今自分が本当に望んでいることは何か、考えてみるんだ」
――望むこと。
「センリ。おまえには、それを成し遂げる強さがある。兄さんは知っているよ」
目が覚めた。眠っていたということを、身体を起こしてから知った。やけに頭がすっきりしている。伸びをして、食卓へと向かった。
咀嚼していく卵焼きは甘く、毎朝出される茶はずいぶんと香りのいいものだと気が付いた。味と熱だけでなく、食事が、栄養が身体にしみわたっていく。久々の感覚だった。
「お、よく食べたじゃんか。食後になんかいるか?」
完食した食器を片付けるイタルは、前夜と変わらない様子だ。昨晩のよくわからない行動は、けれど明らかにセンリを寝かしつける行為であった。
(寝かせて、くれたのか……?)
確信は持てない。だから礼は言わなかった。
それ以上に、言いたいことが――胸を埋める決意があった。
夢の兄が告げた通り。本当に、望むこと。この袋小路から先に進む希望。センリが見出したたった一つの道を、確定するように声にした。
「イタル」
そういえば始めて、こんなふうに名前を呼んだ。
「僕は我慢ならない。僕らを騙して、人殺しをさせて、大切な人を人質にとって……とにかく、あの財団が許せない」
金髪の男は返事をせず、食器を片付けている。イタルは言葉を待っている。
「一旦、任務は受け入れるつもりだ。でも奴らの一員にはならない。財団の部下として潜り込んで、奴らを潰す」
そこで彼は振り向いた。イタルの視線が、センリの全身をなぞる。値踏みされているのが空気でわかる。
戦う力を求めて、命まで奪えるイタルに。この男に効く、殺し文句があるなら。
「――面白いと思わないか?」
こういう言葉じゃないのか。
「乗った」
――当たった。イタルは笑って頷く。互いの目が輝いて、視線が交差する。
「騙すのも、奴らと戦うのも楽しそうだ。よろしくな、センリ」
ぱん、と乾いた音。勢いでのハイタッチ。これからセンリは、正義を始める。相棒となったイタルの左手首で、銀の腕時計がギラリと光っていた。
無言で椅子に座り、味のしない朝食を茶で流し込む。
「なんだ、センリ。残すのか?」
それを用意した男――イタルの問いかけに、無言で頷く。感情が麻痺して、申し訳なさすら感じない。
センリははたから見れば何の変哲もない、清潔感のある髪が少し緑がかっている他には、兄に影響された正義感くらいしか特徴がない人間のはずだった。青年と呼ばれる年齢になって、自分の力で生きられると過信した。憧れの背中を追って、なりたい自分――正義の味方を目指した結果犯したのが、あの罪だ。
繰り返される記憶。センリは取り下げられていく食器を無言で見送り、イタルの目の前で回想に沈んだ。
人を殺した。
悪人の蔓延る街。正義を貫く兄に憧れ、親に反抗し家を出て。非合法ながら強力な装置である「人体強化ユニット」――つまり、「悪と戦う力」をくれるという財団に流れ着いた。
力を渡す条件として、とある男――悪人の捕獲という指令で適正を試されることになった。同じ目的らしいいけすかない男と共に、二人一組で。
財団に悪人を無効化する銃を渡されて。二人で目標を追い詰めて。引き金を引いて――。
血が溢れ、標的は絶命した。
――騙されたのだ。
「どういうことだ。殺し……なんて、聞かされてない」
震える声で感情が溢れ出す。最初から殺させるつもりだったんだ。
「言ってはいなかったからね。でも、これで君たちは自分の判断で人を殺したということになる」
財団の男が笑う。着こんだスーツがいやにかっちりとしている。この財団は、表向きには娯楽施設や養護施設を支援している団体だ――だからこそ信じていた。なのに。
「僕は、僕は」
正義になりたかったのに、これじゃあ真逆じゃないか!
慈善事業を謳う財団の裏に、こんな闇があるなんて――怒りに任せて男の胸倉を掴む。
「こんなことをさせて、ただで済むと思うなよ。お前たちが僕らを騙して人を殺させたこと、世間が知れば――」
憎しみの籠ったセンリの視線を、ふっと煙草の煙で遮って、スーツの男は咳払いをした。
「ところで、センリくん、だったかな。君のお兄さんは随分といい人みたいだね。君はお兄さんに憧れたのかな?」
「――え?」
力がゆるんで、男の胸から手を離す。自分に兄がいることを話したはずはなかった。
「財団を舐めてもらっては困る。君の家族がどんな人物で、どこに住んでいるかも我々は知っている」
スーツの男が襟元を直す。突然、あらぬ方向から衝撃をぶつけられて、センリは困惑した。財団の男が追い打ちをかける。
「君が財団に反抗するなら、君の家族はどうなるだろうね?」
絶句した。絶望した。絶対の支配だった。
そこで初めて、センリは己に選択の権利がないことを突き付けられた。この混乱にもはや意味はない。反論も反抗もできず、目の前の男に――財団の圧力に潰されかけていた。
そのとき、スーツ男とセンリの間に、一人の青年が割って入ってきた。
「んでよ、その『強化ユニット』っていうのはもらえるのか?」
振り向くと、金髪の男が笑っていた。
「あの男を仕留めたんだ。俺らは合格だろ?」
――あっけらかんと言い出したその男こそ、共に任務を遂行したイタルだった。
標的の男を、彼と二人で同時に撃った。出会ったばかりの、同じ人殺し。けれどイタルは平気そうに、殺しの対価を要求してみせた。
蝕まれていく。人が人の命を奪うのは、こんなに軽い行為だったか?
次の指令は、「コイツ」の通信で送るよ。スーツ男は強化ユニットを二人に渡し、嫌みな笑いで追い出した。
こんな機械のために、自分は取り返しのつかない罪を。二人分の影が伸びる。
人通りの少ない夕暮れ。空の端は赤いが、気分は既に闇夜だった。非合法の強化ユニットを隠し持って、言葉を忘れてただ歩いた。
そうするつもりのなかった命を奪っておいて、ここまで平然としていられるものだろうか。黙ることがつらくなって、横にいたイタルに問いかける。
「おまえは人を殺しても、なんとも思わないのか」
確かめたかった。確かめなければならなかった。忌むべき行為を、禁忌であると定義し直すのだ。センリはじっとりと迫る焦りに追い詰められていた。このままでは、おかしいのは自分の方になってしまう。
「俺は強い奴と戦えればそれでいいんだよ。力があればあるほど楽しい」
即答だった。どうして、なんて聞くまでもなく続きは返ってくる。イタルは当たり前のようにからっと言った。
「俺は戦うのが好きなんだ。今を楽しめればそれでいい。たとえそれが殺し合いだろうとな」
「……は、なんだ、それ……」
狂ってる。
イタルにはきっと心を許してはいけない。彼は倫理を越えて突き抜けた思考の持ち主だ。
彼の乾いた金髪が夕日に照らされてキラキラと光っていた。その流し目が、写真を撮るように一瞬で、仕上がった写真のように永遠で。その光景をはっきりと覚えている。
それでも、だからこそ、信用ならない。
――そんな男の部屋に転がり込んだのは、どういう経緯だったか。
元はといえば、英雄暮らしを保障されるという甘言に飛びついたセンリのあやまちだった。確かに財団の本拠地に宿泊施設は充実していたが、詐欺殺人集団に一宿一飯でも与えられることは、センリの心にこびりついた正義感が許さなかった。
「んじゃ、とりあえず俺の部屋来るか?」
……というイタルも大概だったが、境遇が同じ分、彼の方がまだ暮らしを預けられる――というのが、センリの最終的な判断だ。
帰路でぽつりぽつりと話してみてわかったのは、自分たちが同年齢であること、二人の思考には埋めようのない断裂があるということくらいだった。真面目で考え込みがちなセンリと、軽い態度で思ったことをすぐ実行するイタル。その行動力のおかげで寝床を確保できたのだから、センリにはイタルの軽薄さを責める権利はなかった。
チャラチャラした見た目の印象通り、彼の部屋はかなり散らかっていた。エレベーターのあるマンションの一室は、リビングと寝室に分かれていて、使いやすそうなキッチンが特徴的だった。独り身でここまでいい部屋を手に入れることができるだろうか、と感じはしたが、そこを突き詰めて考えるほど、センリに思考のリソースは残されていなかった。
イタルは態度を変えず、友人を家に招いたのと同じ声色で告げた。
「とりあえず、疲れたから寝ようぜ。細かいことは起きたら考えるってことで」
そう言われて眠れるものか! 知らない部屋、殺人の余韻、家族を人質に強要される悪事。そんなものに囲まれて、ぐっすり眠れる方がおかしいだろう。
――それから、睡眠不足の日々が始まった。
共同生活に支障はなかったが、センリは日に日に衰弱していった。自分でもわかるくらい、顕著に。
夜になるたび、虚無の憂鬱に包まれる。寝床はベッドとソファーを交互に使う決まりになっていた。やけに大きいソファーに身を横たえて、無駄とは知りつつ目を閉じた。
罪。罰。やぶれた正義。そんな単語が頭の奥から湧き出て、思考回路をかき乱す。
曖昧なまどろみの中で、記憶が流れてくる。
やめてくれ。助けて。命だけは。声を無視して、光線銃を打ち込んで、血が、零れて、溢れて、流れて。さっきまで命乞いをしていた男は人間から死体になって。センリは銃を取り落とす。
浅い眠りから覚める。やっと悪夢が終わった、いや終わってはいない。恐ろしい夢だった、と思うのは……都合が良すぎる。――殺された男のほうが、よほど恐ろしい思いをしただろうに。
早鐘を打つ鼓動がうるさいほど存在を主張している。息が苦しい。今夜も眠れそうにない。
気だるさに沈む身体を無理やりに起こす。まともに眠れていなかった。髪がぐしゃぐしゃになっているのが感覚でわかる。
無言で椅子に座り、味のしない朝食を茶で流し込む。
「なんだ、センリ。今日も残すんだな」
イタルの問いかけに、無言で頷く。感情が麻痺して、申し訳なさすら感じない。
色のない日々を、ただ消化している。
「財団から連絡来てるぞ。指令を調節してるから、もう少し待てと。あとは例の脅しを繰り返された」
イタルからなされる報告と、話題になっているニュースの雑談と。そういうもので時間を潰して、一日を浪費していく。昼食は、と聞かれたので、いらないと返した。イタルは丸いパンを焼いて、ひとりで齧っていた。
財団から渡された装置を転がす。腰に装着するとベルトに変形するらしい。まるでヒーローの変身アイテムだ。――だとしたら、自分たちは敵役になるのだが。
「変身機能まではついてない奴だな、これ」
人体強化ユニットにもいくつか種類があり、一番高級なものには変身機能がついている。今手元にあるのは、そのままの姿で身体能力を強化し、戦えるようになる、というものだ。
「……殺人犯として、他人に顔を覚えられるってことだよな……」
正体を隠したいなら、自分で仮面か何かを探すしかない。が、まずこの街で顔を隠す道具を探している時点で、疑われに行くようなものだ。
この装置をどう使おうと、もう罪からは逃れられない。
これだけはと持ち込んだカメラに、触る気も起きなかった。写真は昔から入れ込んだ趣味なのに、どうして。
夕食の味はしなかった。身体を洗って、服を着替えて。
――また、眠りの呪いと戦う時間がくる。
今日はベッドを使う日だった。
イタルの寝室は、何度借りても慣れなかった。そもそもイタルはまだ寝る気がないらしく、ベッドの隣に陣取って、なにかの本を読んでいた。
「ああ、電気消すか。先に寝てていいぞ」
と軽く言ってくれるが、「寝よう」と思ってすぐ寝られるような精神状態ではない。リモコンで消した電灯を、無意味に凝視する。――と。
突然何かで目を塞がれた。それはじんわりと温かく湿っていて、花の香りがする。――心地いい。なんだよ、と手を伸ばすと、温かい何かはイタルの手で軽く押さえられえいて、センリにはどかすことができない。
ぽん、ぽん、と。何かを叩く音がする。一定のリズムで、穏やかな音が繰り返される。クッションを叩いている、の、だろうか。なんのために、とぼんやり考えた。
一言も喋らなかった。言葉を交わす必要のない空間がそこにある。視界を奪われたまま、やわらかな熱と音に包まれて――センリの感覚はゆるやかに、安寧の闇に落ちた。
気が付くと、兄が目の前に立っていた。憧れの兄。センリが力を求めたきっかけになった、
善意と行動力のかたまり。幼い頃から一番近くで、悪を打ち砕いていた存在。
(怒られるかな)
不本意にせよ悪事を働くセンリを、兄はどう思うだろうか。問いかける前に、彼が口を開いた。
「考え続けるんだ」
何を、と訊こうとしたけれど、兄は問い返す隙を与えてくれなかった。
「後悔はするかもしれない。立ち止まるかもしれない。それでも、今自分が本当に望んでいることは何か、考えてみるんだ」
――望むこと。
「センリ。おまえには、それを成し遂げる強さがある。兄さんは知っているよ」
目が覚めた。眠っていたということを、身体を起こしてから知った。やけに頭がすっきりしている。伸びをして、食卓へと向かった。
咀嚼していく卵焼きは甘く、毎朝出される茶はずいぶんと香りのいいものだと気が付いた。味と熱だけでなく、食事が、栄養が身体にしみわたっていく。久々の感覚だった。
「お、よく食べたじゃんか。食後になんかいるか?」
完食した食器を片付けるイタルは、前夜と変わらない様子だ。昨晩のよくわからない行動は、けれど明らかにセンリを寝かしつける行為であった。
(寝かせて、くれたのか……?)
確信は持てない。だから礼は言わなかった。
それ以上に、言いたいことが――胸を埋める決意があった。
夢の兄が告げた通り。本当に、望むこと。この袋小路から先に進む希望。センリが見出したたった一つの道を、確定するように声にした。
「イタル」
そういえば始めて、こんなふうに名前を呼んだ。
「僕は我慢ならない。僕らを騙して、人殺しをさせて、大切な人を人質にとって……とにかく、あの財団が許せない」
金髪の男は返事をせず、食器を片付けている。イタルは言葉を待っている。
「一旦、任務は受け入れるつもりだ。でも奴らの一員にはならない。財団の部下として潜り込んで、奴らを潰す」
そこで彼は振り向いた。イタルの視線が、センリの全身をなぞる。値踏みされているのが空気でわかる。
戦う力を求めて、命まで奪えるイタルに。この男に効く、殺し文句があるなら。
「――面白いと思わないか?」
こういう言葉じゃないのか。
「乗った」
――当たった。イタルは笑って頷く。互いの目が輝いて、視線が交差する。
「騙すのも、奴らと戦うのも楽しそうだ。よろしくな、センリ」
ぱん、と乾いた音。勢いでのハイタッチ。これからセンリは、正義を始める。相棒となったイタルの左手首で、銀の腕時計がギラリと光っていた。
1/8ページ