鳥籠の中で飛翔せよ

 日に日に体調が悪くなっていく。重い心が身体を蝕んで、あたしを泥沼へと引きずりおろす。おかしくなる身体が自分でもわかるほどだ。少しずつ、食事が喉を通らなくなっていったし、寝袋に入っても思うように眠れない。こんな具合じゃ実験に集中なんてできるはずもなく、前よりもひどいミスを何度も繰り返していた。実験動物を逃がさなかったのは奇跡だった。もう本当に見ていられなくなったのか、グレイ先輩が厳しく言う。

「やる気がないならそこで寝ていろ。そうでなければ、片付けて家に帰れ」
 その口調は、挙げられた選択肢のどちらかを選ぶことを強制するようだった。でも、一度帰ったらもう二度とここには来られない気がする。バケモノがヒトに戻れないように。寝袋はたしかにあるけれど、午前だというのに睡眠に逃げるのももう限界だ。

「すみません。少し、部屋の整理でもしてますね」
 結局、どちらも選べない。気持ちを置き去りにしたまま、第三の選択肢で時間を稼ぐことにした。
 あえて見ないようにしていた、自分の机。そこには、あのときから壊れたままのブレスレットが――。
「あれ……」
 あった。けれど、壊れていなかった。金具が完璧に修理されて、ちゃんと着けられるようになっていた。きらきらしたビーズは、ひとつも欠けていない。鳥のチャームも、ばっちり同じ位置で光っている。

 誰かが直した? いったい誰が。この部屋に出入りするのは。基本的にあたしと先輩だけだ。ということは。
「あの、これ、先輩が?」
 呼ばれると、グレイ先輩は振り向いて頷いた。
「それが壊れたから落ち込んでいたんじゃないのか?」
「そう……じゃ、ないですけど、どうして?」
 このひとが、あたしのものであるアクセサリーをわざわざ修理する理由はあるんだろうか。不思議に思って聞くと、先輩はこっちを見ないまま答えた。
「気分転換にな」
 嘘だ。実験室に根を張る先輩が、実験に気分転換なんて必要とするはずがない。……けど、あたしはその嘘を受け取ることにした。この人のことをこれほど人間らしく思ったのは初めてかもしれない。声の穏やかさから直感した。
 勝手な想像が膨らんでいく。先輩にもあったんだろうか。あたしみたいなことが。自分がまだヒトなのか、そうではないのか悩んだことが。もう戻れない身体になってしまったことを、嘆いたことが。
 出会う前のことなんて知るはずがない。けれど、いまここにいる先輩は、確かにあたしの背中を押してくれた。だって、元通りになったブレスレットが、あたしのもとにある。
 ――今しかない。
「ありがとうございます。あたし、ちゃんとあの子に会いに行けそうです」
 行かなければ。一人のヒトとして、レイラへ会いに。
(まだ、あたしはヒトでいられる)
 揺れているオレンジのビーズは、先輩からのメッセージに思えて仕方がなかった。あたしの証明は、あたしだけのものじゃない。改造人間になっても、まだヒトでいられる。それは、先輩にも当てはまる命題だ。
 あたしは親友の反応に心が折れて、ヒトの証明を諦めていた。だけど、違う。秘密でも、嘘でもいい。
(もともと、あたしが言い出したんだ)
 ヒトであることを諦めない。その決意を、あのひとが、そして輝く小鳥が思い出させてくれた。
左手首にきらきらした輝きを巻く。朝の日差しが暖かい。あたしたちはまだ、ヒトでいい。託された想いを携えて、あたしはレイラを探しに走り出した。
12/33ページ
スキ