鳥籠の中で飛翔せよ

 あたしは籠の中にいる。出口すらない籠の中に――。

 うららかな日差し、の、当たらない屋内で、あたしは見飽きた扉を開ける。
 あたしには、実験室に住む先輩がいる。
 重い黒髪をぼさぼさにして、眼鏡を不気味に光らせるそのひとは、今日も魔法陣やスライムを相手している。朝っぱらから薄暗い部屋にこもっているだけあって、その雰囲気は暗くて厳しそう。二歳年上の女性とはとても思えない。自分が後輩の立場じゃなかったら、まず身だしなみに苦言を呈していただろう。
「お疲れ様です」
 はきはき挨拶するあたしはというと、ふわふわさせた髪を頭の右側でまとめて結んでいた。お気に入りの茶髪は、最近少しオレンジっぽくなってきた。ヘアゴムにはニコニコ顔のチャームをつけている。その笑顔も、こんな狭苦しいところでは台無しだけど。
 研究棟の九階、第三実験室。グレイ先輩ひとりのための部屋。あたしがそこに荷物を降ろしたのは、単に取っている講義がこの人と被っているからだ。最初の講義で偶然声をかけたことがきっかけで、いつのまにかこの先輩に色々と質問するようになっていた。――二個上の先輩は、アカデミアのことも特別講義のこともよく知っている。

 帝都からエーテル機関車で半日ほど。地方都市ヘルミトを代表する総合研究学校、ヘルミト・アカデミア。入学から一年も経たないうちに、あたしは中央キャンパスからほど遠い、山の上にある研究棟に通うようになっていた。
 ――というのは、あたしが『適合者』だったからだ。
「先輩、次の特別講義って何か用意するものありますか?」
 適合者と診断された生徒は、学年関係なく研究棟で特別講義を受ける。半生命スライム状変化物質、略して『スライム』の生態及び性質について。よくわからなくてずっと寝ている。だから連絡の類は誰かに聞かなければならない、というわけだ。グレイ先輩は振り向かずに答える。
「確固たる知識と記憶力だな。中間試験だと言っていた」
「それって、成績にかかわるやつですか」
「でなければ試験の意味がない。アンデルセン、お前はもう少し真面目に講義を聞いたらどうだ」
「身体が勝手に寝ちゃうんですよ。グレイ先輩みたいな天才とはアタマの出来が違いますんで」
 あたしは先輩のファーストネームを知らない。先輩もあたしのことを苗字で呼ぶ。あたしたちはまあその程度の仲だ。けれど、特別講義で出される課題のヒントを得るにはこのひとに聞くのが一番手っ取り早い。
「さてと」
 気を取り直して、今日の実験に向き合う。右手首の真っ黒なリストバンドを外して、実験着に袖を通す。リストバンドの下には、手首のあたりに不格好なオレンジの点があった。そこから、オレンジ色の触手がにょっきりと生える。

 適合者の印として植え付けられた、非人間への第一歩。なんとかかんとかスライム物質。使用者の意思によって変形して動かせる不気味な触手。グレイは実験用のナイフとしても使っている。オレンジの触手をリボンのようにくねらせてみる。魔法陣をいくつか重ねる。それだけで、この触手は鋭くなったり柔らかくなったりする。
 魔法がこれにどう影響しているのか――それが、あたしたちの研究だ。今回の試験範囲は、強化魔法の場合。講義を聞くのは苦手だけど、ここぞというときの集中力には自信がある。ちゃっちゃとやること終わらせて、この部屋から抜け出したい。

 複数回の記録を経て、あたしは立ち上がる。リストバンドをつけなおしているとき、先輩に訊かれた。
「実験は終わったのか?」
「だいたいデータはとれたんで、気分転換でもしようかと。街に出てから帰ります」
 昼下がり、まだ食事もしていない。どうせだから外食もいいかもしれない。ストレス解消は大事だ。――と考えていたんだけど、グレイ先輩はこういうことにはやたら口を挟む。
「お前も私も国家機密なのだから、不用意な外出はやめた方がいい」
「十八歳の女子がショッピングに行くのが、不用意なもんですか」
 先輩だって、ずっとここに籠っていたらカビが生えちゃいますよ。なんて嫌味を返してはみたけれど、「そうか」とそっけない返事が返ってくるばかり。きっと、もうこの人はとっくにおかしくなっている。
「あたしは兵器じゃなくて、人間です」
 言い切って、早々と実験棟を後にする。坂を下りながら灰色の建物を見やると、九階の端、ちょうど先輩がいる窓に目が吸い寄せられた。あの部屋の明りは一日中消えない。
下り坂をぶらりと歩きながら、何を探しに行こうか考える。人が増えてくると、無意識に右手を隠すようになっていた。手首に巻かれたリストバンドは真っ黒で、今日のファッションからはひどく浮いている。
「忘れるなよ。私たちは国家機密だ」
 口うるさい先輩の声が蘇る。わかっている。講義中半分の時間を睡眠に費やしているあたしでも、一番大事で、恐ろしくて、そして知られてはならないところくらいは心得ている。

 ――つまり、自分たち適合者が、生物兵器の研究をしているということは。
 ここは牢獄。運悪く兵器候補になってしまった学生たちが閉じ込められる籠の中。囚人たちはより強い兵器になるために恐ろしい実験をさせられていて、ずっとここにいれば、いずれはヒトとしての在り方を忘れてしまう。そんな不幸なところにおとなしく捕まっている先輩が、あたしにはわからないのだ。
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