Order of Border

 いまクロエが暮らしているのは、サキの居住スペースたる空間である。研究者の生活を物語るように、同じ階には設備の整った実験室がある。廊下に出て少し歩けば辿り着く、過度に清潔で息苦しい場所。しかし忌まわしいその扉を、クロエは既に忘れかけていた。
「最近あんたは、おれに何もしないよな」
 出会ってからすぐの頃こそ何度か切り刻まれていたが、このところ実験行為はめっきりなくなったのだ。サキは自然に言う。
「私個人の判断だ。お前の不死性を人体改造に応用するのは不可能だと結論づけた。よってこれ以上の実験は必要ない」
 要するに、帝国の軍事力をもってしても、不死の再現はできない。ならば探究を続けるのは労力の無駄だ。軍事研究の対象としてのクロエに、彼女はとっくに見切りをつけていた。……ということは。

「おれ、もう役立たずの用済みってこと? ひどいな」
 最初こそ冗談めかして笑っていたが、しばらくして疑問が浮かんだ。用事がないなら、捨て置かれてもおかしくないはずだ。
「実験に使わないんだったら、なんであんたはおれを手放さないんだ」
 さらさらと、万年筆の動く音がする。投げかけた問いは、漂っていた安らかさをたやすく切り裂いた。探究者の真摯なまなざしで、サキがクロエに向き直る。
「私の疑問がまだ、解決していないからだ」

 ――不死者はヒトか否か。いつか告げられたサキの根源たる議題には、未だ決着がついていない。議論さえしていないのだから当たり前だ。いつか付き合ってやったほうがいいかもしれない、などと考え込んでいると、サキは思いもよらぬことを告げてきた。
「どのみち私がお前を解放したところで、お前の身柄が他の部署に移るだけだが、それがお望みか?」
 他の部署。相手がサキでなければ、どのような仕打ちを受けただろうか。彼女の実験は、不死者の扱いとしてはかなりまともな方だ。過去の責め苦を思い出し、じわりと冷や汗が滲んだ。
 クロエの様子など気にも留めず、サキは書類の相手をしている。不死者が落とした声には、きっと安堵が溶けていた。
「いや、謎が解決するまで傍に置いといてくれ。そうしてくれた方が、おれも助かるよ」
 逃げるにせよ倒すにせよ、あるいはやむなく留まるにせよ、他の見知らぬ誰かより彼女を相手にしたほうがいい。クロエにとってサキの存在は、そんな形あるものになっていた。
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