Order of Border
煌々と燃える炎がすべてを包む。書斎を、居間を、隠れ家を。物書きに明け暮れていたクロエでも、煙草に火をつける程度の魔法は使える。そして、小さな火が広がった結果がこれだ。
書きかけの原稿も、研究室にあるおぞましいものたちも、食器も、卓も、椅子も。意思なき炎は何もかも、平等に灰へと変えていく。
「クロエ」
サキは、本当に大事なときしか彼の名を呼ばない。火を放った男は、視線を上げて答える。サキは煙を見つめたまま、クロエの行動を背中で察して続ける。
「これはどういうことだ?」
通る声は、不死者が火種であると見破っていた。燃え盛る灼熱が、彼女のシルエットを赤く縁取る。
「もうやめろって言っても聞かねえだろ」
結局、クロエはサキを止めるためにすべてを消すことを選んだ。焼けた木材がパチパチと音を立てる。
「私を止めても世界は滅びへ進む。だから無駄だと言ったはずだが」
「それでもおれは、黙って見てることはできなかった」
なにもしないのはいやだった。世界そのものが進むなら、揺蕩う不死者といえども置き去りにされるわけにはいかない。
サキの背を、後ろ髪を見つめる。顔を合わせないままの会話。火の傍にいるというのに、からだの芯がどうしようもなく寒い。
「お前の本もあったはずだが、それはいいのか」
「おれが生きてる限り何度でも書き直せるんでね」
「それは私も同じだ。生きている限り私は人工生命を探究するだろう。放火などしなくても、私を殺せば早かっただろうに」
「人殺しはしない主義で」
「私はもうヒトじゃないから問題ないだろう」
変わらない応酬に呆れ果て、クロエは肩をすくめる。細い、ため息。
「あんたと話してるといつもこうだ。……あんたは、誰に止められても、下手したら殺されても、研究を辞めないんだな」
「その通りだ」
この返答こそが、彼女の道だ。知っている。煙の重みにクロエは嘆いた。
「これでもあんたを止められないなら、出ていくよ。二度も世界破滅の引鉄をひくのはごめんだ」
紡いでいく言葉が、決別の証となる。それからサキは動かずに告げた。振り向かずに。こちらを見ずに。
「……構わない」
諦める段階はもう終わったのだ。せめて最後に、払っておくべき露があるなら。クロエは切り出す。
「なあ、サキ。魔科学の力で人工的に造られた人間がいたとして、それはヒトと呼べるのか」
「その境界は、己が決める」
サキは線を引いた。ヒトとヒトならぬものの間にある一本の線を。あの問いに、結論が出た。
いまや彼女こそが、境界の支配者――。
その座に甘んじることなく、サキは進んでいく。彼女と炎とに背を向けて、男は噛みしめるように尋ねる。
「最後に一つだけ聞いていいか。お前の引いた境界線では、おれはヒトなのか、そうじゃないのか」
「お前はヒトだよ、クロエ。私と違ってな」
「そうか」
苦々しく、ただ答えが聞こえたと示すためだけに、彼は返事をした。
そして、これが最後のやりとりだった。直後クロエは着の身着のまま飛び出した。死なない肉体なのだから、惜しいものなどひとつもない。ただ――炎を見つめるサキがどんな表情をしていたか知らずに終わったことが、悲しくもあり、安らかでもあった。
だからクロエが、サキの呟きを聞くことはない。
「お前は案外、詰めの甘い男らしいな」
白衣の胸元に残されたものを見出せぬまま、彼はもう二度と、この場所には戻らない。
書きかけの原稿も、研究室にあるおぞましいものたちも、食器も、卓も、椅子も。意思なき炎は何もかも、平等に灰へと変えていく。
「クロエ」
サキは、本当に大事なときしか彼の名を呼ばない。火を放った男は、視線を上げて答える。サキは煙を見つめたまま、クロエの行動を背中で察して続ける。
「これはどういうことだ?」
通る声は、不死者が火種であると見破っていた。燃え盛る灼熱が、彼女のシルエットを赤く縁取る。
「もうやめろって言っても聞かねえだろ」
結局、クロエはサキを止めるためにすべてを消すことを選んだ。焼けた木材がパチパチと音を立てる。
「私を止めても世界は滅びへ進む。だから無駄だと言ったはずだが」
「それでもおれは、黙って見てることはできなかった」
なにもしないのはいやだった。世界そのものが進むなら、揺蕩う不死者といえども置き去りにされるわけにはいかない。
サキの背を、後ろ髪を見つめる。顔を合わせないままの会話。火の傍にいるというのに、からだの芯がどうしようもなく寒い。
「お前の本もあったはずだが、それはいいのか」
「おれが生きてる限り何度でも書き直せるんでね」
「それは私も同じだ。生きている限り私は人工生命を探究するだろう。放火などしなくても、私を殺せば早かっただろうに」
「人殺しはしない主義で」
「私はもうヒトじゃないから問題ないだろう」
変わらない応酬に呆れ果て、クロエは肩をすくめる。細い、ため息。
「あんたと話してるといつもこうだ。……あんたは、誰に止められても、下手したら殺されても、研究を辞めないんだな」
「その通りだ」
この返答こそが、彼女の道だ。知っている。煙の重みにクロエは嘆いた。
「これでもあんたを止められないなら、出ていくよ。二度も世界破滅の引鉄をひくのはごめんだ」
紡いでいく言葉が、決別の証となる。それからサキは動かずに告げた。振り向かずに。こちらを見ずに。
「……構わない」
諦める段階はもう終わったのだ。せめて最後に、払っておくべき露があるなら。クロエは切り出す。
「なあ、サキ。魔科学の力で人工的に造られた人間がいたとして、それはヒトと呼べるのか」
「その境界は、己が決める」
サキは線を引いた。ヒトとヒトならぬものの間にある一本の線を。あの問いに、結論が出た。
いまや彼女こそが、境界の支配者――。
その座に甘んじることなく、サキは進んでいく。彼女と炎とに背を向けて、男は噛みしめるように尋ねる。
「最後に一つだけ聞いていいか。お前の引いた境界線では、おれはヒトなのか、そうじゃないのか」
「お前はヒトだよ、クロエ。私と違ってな」
「そうか」
苦々しく、ただ答えが聞こえたと示すためだけに、彼は返事をした。
そして、これが最後のやりとりだった。直後クロエは着の身着のまま飛び出した。死なない肉体なのだから、惜しいものなどひとつもない。ただ――炎を見つめるサキがどんな表情をしていたか知らずに終わったことが、悲しくもあり、安らかでもあった。
だからクロエが、サキの呟きを聞くことはない。
「お前は案外、詰めの甘い男らしいな」
白衣の胸元に残されたものを見出せぬまま、彼はもう二度と、この場所には戻らない。