Order of Border
かつて同類ジャックは言った。
――僕たちは死なないんだ。だから、死のために何もしない。こんなの、生きてないのと一緒だよ。
気の遠くなるような昔、喉から棘を吐く少年に、「そんなわけないだろ」と生返事をした。埋もれた記憶を掘り当てて、クロエは目を覚ます。
まばたきをする。執筆に詰まって横になり、そのまま寝入ってしまったようだ。彼を眠らせた陽気は、窓から軽やかに降り注いでいる。筆に手を戻す気力がわかず、そっと書斎を抜け出した。
世界に流されて、生まれ消えゆくものに触れて、すべてを書き残す。自分にとって、生きるとはそういうことだ。けれどその旅には問いも答えもない。思考も思想も形を変える。クロエという存在が、そもそも移ろうものなのだ。
だがサキは違う。彼女は、自分の題を知っている。そして己の道を一心に歩む。生意気なジャック、あの少年が言いたかったことが、いまになって少しだけわかる。
白衣の姿は居間になかった。気配と物音からして、もう一つの部屋に籠っているのだろう。研究室と称した彼女の自室。わざとなのか不用意なのか、扉が少し開いている。
夢心地に吸い寄せられて、そっと隙間に顔を寄せた。
その部屋は書斎より暗い。窓に帳がかけられているのだ。サキは無数の触手を自在に操り、いくつもの作業を同時に進めていた。
蠢くのは、人間じみた肌色。スライムに似た不定形の物体。巨大な水槽に浮かぶ、人間の心臓。水槽の横には、塗られたように均一な赤。硝子製の管に入れられて並ぶ、あれは血液。赤い管のひとつに、触手が伸びる――。
これは現実だ。突如として自覚した。去来する景色に反射と意識が覚醒する。本能が足を後退させ、上体が引きずられる。そうして十分離れてから、床に座り込み、膝に縋るようにして俯いた。
これが。これが、サキの――。
クロエは知らなかった。サキは本当に、人間とは違うものになろうとしている。帝国の職務にも兄への感情にも縛られない今、その翼で、自ら望んで為すことがこれなのか。
――私には、やることがある。
ヒトをやめたというその日から、サキは見つけていたのだ。己のうつわを満たすものを。そして、クロエがその中身を恐れる理由を、サキは死んでも知らないだろう。
新しいことを始めるなら、なるべく早い方がいい。いつか誰かに諭された。終わらせることも同じだろうか。
クロエの生にはあてがない。だからこの身が彼女の境地に至ることはない。そうだとしても、ひとつ、わかることがあるとすれば――。
真新しい紙に筆を走らせる。これから彼が紡ぐのは、物語でも随筆でもない。運命を動かす決意だ。
――僕たちは死なないんだ。だから、死のために何もしない。こんなの、生きてないのと一緒だよ。
気の遠くなるような昔、喉から棘を吐く少年に、「そんなわけないだろ」と生返事をした。埋もれた記憶を掘り当てて、クロエは目を覚ます。
まばたきをする。執筆に詰まって横になり、そのまま寝入ってしまったようだ。彼を眠らせた陽気は、窓から軽やかに降り注いでいる。筆に手を戻す気力がわかず、そっと書斎を抜け出した。
世界に流されて、生まれ消えゆくものに触れて、すべてを書き残す。自分にとって、生きるとはそういうことだ。けれどその旅には問いも答えもない。思考も思想も形を変える。クロエという存在が、そもそも移ろうものなのだ。
だがサキは違う。彼女は、自分の題を知っている。そして己の道を一心に歩む。生意気なジャック、あの少年が言いたかったことが、いまになって少しだけわかる。
白衣の姿は居間になかった。気配と物音からして、もう一つの部屋に籠っているのだろう。研究室と称した彼女の自室。わざとなのか不用意なのか、扉が少し開いている。
夢心地に吸い寄せられて、そっと隙間に顔を寄せた。
その部屋は書斎より暗い。窓に帳がかけられているのだ。サキは無数の触手を自在に操り、いくつもの作業を同時に進めていた。
蠢くのは、人間じみた肌色。スライムに似た不定形の物体。巨大な水槽に浮かぶ、人間の心臓。水槽の横には、塗られたように均一な赤。硝子製の管に入れられて並ぶ、あれは血液。赤い管のひとつに、触手が伸びる――。
これは現実だ。突如として自覚した。去来する景色に反射と意識が覚醒する。本能が足を後退させ、上体が引きずられる。そうして十分離れてから、床に座り込み、膝に縋るようにして俯いた。
これが。これが、サキの――。
クロエは知らなかった。サキは本当に、人間とは違うものになろうとしている。帝国の職務にも兄への感情にも縛られない今、その翼で、自ら望んで為すことがこれなのか。
――私には、やることがある。
ヒトをやめたというその日から、サキは見つけていたのだ。己のうつわを満たすものを。そして、クロエがその中身を恐れる理由を、サキは死んでも知らないだろう。
新しいことを始めるなら、なるべく早い方がいい。いつか誰かに諭された。終わらせることも同じだろうか。
クロエの生にはあてがない。だからこの身が彼女の境地に至ることはない。そうだとしても、ひとつ、わかることがあるとすれば――。
真新しい紙に筆を走らせる。これから彼が紡ぐのは、物語でも随筆でもない。運命を動かす決意だ。