Order of Border

 ――あんたがヒトじゃないなら、いったい何になるんだ。
 ――バケモノになるしかないんじゃないか。
 サキは言いながら、見せつけるように触手を躍らせ、しっとりと目を細めた。
 そんなやりとりをしてから、もうそれなりの年月が経つ。

 帝国を出てから、作家の仕事は滞りなく進んでいた。小説を三冊。随筆は五冊。そのうち、既に市場に出回ったものが六冊。クロエ・スタンリーの名を出せば、どの出版社も飛びついてくる。住所を明かさないまま仕事ができるのは、逃亡中の身として気が楽だ。
 一方でクロエは、そろそろ帝国が脱走者を諦める頃合いだと読んでいた。なにせ相応の時が流れたのだ。当時の軍幹部はとっくに現役を退いたことだろう。行き詰まった研究を追うより、別の兵器に着手する方が理にかなっている。

 書斎を出て居間に向かうと、見慣れた姿の研究者がいた。そう、見慣れた姿なのだ。いままで出会った人間は、たかが数十年で変わり果ててしまった。けれどサキは、クロエの知るサキのままだ。彼女の大部分を占めるスライムが成長も老化もさせてくれないらしい。
 ――勿論、暴走はしないようにスライムを抑える処置をしているから安心していい。
 帝国を脱出してから真っ先に開発したのが、イェーガーの暴走を防ぐ手法だった。この世にサキ一人となったスライム融合体を、幾年もの時を費やしてどうにか制御したのだ。
 ――もう少し早く、このプロセスを見つけられればよかったのに。
 そう零した一瞬、たった一瞬だけ、サキは過去を見ていた。ゆっくりと首を横に振る、さりげない髪の流れ。その微妙な翳りを、クロエはしばらく忘れられそうになかった。

 書斎の扉を後ろ手に閉めて、椅子に腰掛けると煙草を取り出す。正面に座る女から、見計らったような声がかかってくる。
「執筆は順調のようだな」
 クロエが煙草に火をつけるのと同時に、サキは座ったまま窓を開けた。手首からするりと伸びた青い触手。彼女が操る、異形の手足。
 煙を吐いて、スライムらしい派手な色合いを見つめた。サキの性格には似合わないな、と世事にもならぬ些事を頭に浮かべる。それから、涼やかな声が切り出すのを聞いた。

「そうだ。お前、私を殺すなら頭を狙うといい」
「はあ?」
 いきなりなんなんだこの女は。と思ったが、よく考えてみれば元々唐突なのがサキだった。色々と。なにもかも。
「制御システムの関係上、頭部から触手は出せなくなっている。よって、皮膚や骨の脆さも通常の人間と変わりない」
 どうやら、主題はサキというバケモノの構造的仕組みのようだ。それだけならばまだわかる。しかし、なぜ自分が彼女を殺さなければならないのか。
「わざわざ殺し方を教えてどうするつもりだよ。あんたは別に、死にたいわけじゃないんだろ」
「深い意味はないさ。いつかお前が、似たような敵と戦うときにでも参考にすればいい」
 戦う。――旅をしても野犬すら避け、暇があれば書斎に篭る自分が? まさかそんなこと。どちらともなく、乾いた声を立てた。お互い、今日は気分がいいようだ。
「あんた、最近絶好調だな。頭の回転も、趣味の悪い冗談も」
「ああ、何もかもだ。ヒトだった頃より、ずっとな」
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