Order of Border
クロエは共用の居間で市販の焼き菓子をつまんでいた。昼下がりというには少し遅い午後、ようやく休憩をとることにしたのだ。書斎に篭るのは苦ではなかったが、気分転換は必要だ。
家主であるサキは朝から出かけている。本か食料か、そういったものを買いに行ったのだろう。ついでに煙草も用意してくれないだろうか、などと考えたとき、玄関の方から音がした。
「今日は長かったな」
帰宅した白衣姿に声をかけて、ふと気づく。手に何も持っていない。
「買い出しじゃなかったのか」
「隣国に研究対象として囚われていたイェーガーを処分してきた」
棒を飲み込んだように背筋が伸びた。彼のこわばりに目もくれず、眼鏡の女は抑揚なく話す。次の目標の情報を得たこと、周辺を調査する予定。その横顔に憂いはない。サキはこれからも、着々と彼女の決意を果たしていくのだろう。胸の奥を炙られるような思いで目を逸らす。
(もう、いいのか)
兄のことは。そして、イェーガーの命のことは。
兵士たちを消費する帝国に、サキは確かに傷ついていた。傷は癒えるものだが、変わり果てた心はもとに戻るものではない。だってクロエがそうなのだ。記憶の果て、遥か昔の前世界、あの喪失がなければ自分のいまはない。
――何があっても死なせるな。
耳に突然蘇った声は、紛れもなく彼女のものだった。暴走した被験者を斬り、繋ぎ、その命のために投げられた怒号。けれどそのとき救われた彼も、いまやこの世にいないのだろう。
「つらくなかったのか」
知らなければならない気がして、クロエは踏み切った。一歩の重みとは裏腹に、反響するサキの声音は変わらない。
「彼は幽閉生活に疲弊していて、最期の解放を受け入れた。穏やかに逝ったよ」
「……」
そうじゃない。全身の力が抜けて、言い返す気もなくなった。眉を顰めてそれとなく送った非難も、目が合わなければ伝わらない。やるせなさに包まれて、不死者はただ、「そうか」と間に合わせの返事を置いた。皿に残った菓子を拾い上げ、齧る。
何気なく居間を見渡すと、床には脱ぎ捨てた服が放置され、部屋の隅には紙や本が無造作に積まれている。そこはずいぶんと散らかった、いつも通りのサキの空間だった。
家主であるサキは朝から出かけている。本か食料か、そういったものを買いに行ったのだろう。ついでに煙草も用意してくれないだろうか、などと考えたとき、玄関の方から音がした。
「今日は長かったな」
帰宅した白衣姿に声をかけて、ふと気づく。手に何も持っていない。
「買い出しじゃなかったのか」
「隣国に研究対象として囚われていたイェーガーを処分してきた」
棒を飲み込んだように背筋が伸びた。彼のこわばりに目もくれず、眼鏡の女は抑揚なく話す。次の目標の情報を得たこと、周辺を調査する予定。その横顔に憂いはない。サキはこれからも、着々と彼女の決意を果たしていくのだろう。胸の奥を炙られるような思いで目を逸らす。
(もう、いいのか)
兄のことは。そして、イェーガーの命のことは。
兵士たちを消費する帝国に、サキは確かに傷ついていた。傷は癒えるものだが、変わり果てた心はもとに戻るものではない。だってクロエがそうなのだ。記憶の果て、遥か昔の前世界、あの喪失がなければ自分のいまはない。
――何があっても死なせるな。
耳に突然蘇った声は、紛れもなく彼女のものだった。暴走した被験者を斬り、繋ぎ、その命のために投げられた怒号。けれどそのとき救われた彼も、いまやこの世にいないのだろう。
「つらくなかったのか」
知らなければならない気がして、クロエは踏み切った。一歩の重みとは裏腹に、反響するサキの声音は変わらない。
「彼は幽閉生活に疲弊していて、最期の解放を受け入れた。穏やかに逝ったよ」
「……」
そうじゃない。全身の力が抜けて、言い返す気もなくなった。眉を顰めてそれとなく送った非難も、目が合わなければ伝わらない。やるせなさに包まれて、不死者はただ、「そうか」と間に合わせの返事を置いた。皿に残った菓子を拾い上げ、齧る。
何気なく居間を見渡すと、床には脱ぎ捨てた服が放置され、部屋の隅には紙や本が無造作に積まれている。そこはずいぶんと散らかった、いつも通りのサキの空間だった。