Order of Border
帝国を出てから、サキは活動的になった。身に纏う空気が瑞々しいのだ。時折出かけては、自分に必要なものを街で買ってくる。そうしてこの家には、実験設備が次々と増えていった。
というのは、どうやらサキはスライムの暴走を止める研究を始めたらしい。彼女自身もまたイェーガーであるのだから、このままでは少しずつ侵食されていく。どうにかして、生き延びる術を突き止めなければならないのだ。
そういった事情をぼんやりと思い出しながら、クロエは薄い紙に万年筆を走らせる。情に厚い少年の冒険譚、その細かい設定をまとめているところだった、が、行き詰まりつつあった。こういうときは一旦筆を置いて、気持ちを切り替えるのが彼の執筆術だった。――という経緯で、サキに何気ない問いを投げてみた。
「人間にスライムを植え付けるなんて、どうやって思いついたんだ」
彼女は探し物に来たらしく、クロエの背後で何かを漁っていた。その合間に、はっきりした声で答えを放る。
「最初に考えたのは私じゃない。もともと先駆者がいたんだ。彼の死後にその研究を継いで、あの改造方式を完成させた」
的を射た返球は、作家の調子を良くした。どことなく弾んだ気分で会話を投げ返す。
「じゃあ逆に、自分の研究を誰かに継いでほしいとか、そういうことは」
「兵器研究に対してそう思ったことはない」
言い終わる前に答えが来て、クロエは気圧された。
「私の考えに関係なく、あの国は似たものを造るだろう。イェーガーの実在は、なかったことにできないのだから」
望まぬ連なりは、やはり続くのだろう。残酷な研究が巻き起こした業が、細々と、延々と。その接ぎ木であろう彼女の真意は、恐らく聞くべきではなかった。
「だからといって、今更私がどうするという話でもないがな」
謝るべきか悩んでいる間に、サキが先手を取って話を散らす。クロエはタイミングを失い、作りかけの謝罪は彷徨って消えた。
――生きている限り、心も世界も、まるで空のように変わり続ける。というような文章は、確か昔の自分が書き残したフレーズだった。その意味をクロエは実感して、ただ宙を仰ぐ。
「継ぐってのは、いいものだと思ってたけど」
視線は壁時計を通り天井へ至る。サキはこちらを訝しむのがわかる。クロエは思わず、言葉の盾を重ねてしまう。
「だって誰かに受け継いでもらえれば、死んだ後も自分のことが残るじゃないか」
死後に何かを遺したいという想いは、死すべきものなら自然に抱く望みだろう。少なくともクロエはそうだ。だが、彼は本当に「死すべきもの」なのか、という綻びをサキが見過ごすはずがない。
「お前はこの期に及んで自分が死ぬと思っているのか」
「そうだ。可能性は絶対に消せない。だから怖いんだよ」
物書きをやっていると、まあ想像力というのは育つもので。という付け足しは、余計に言い訳じみて響く。クロエがそうなった要因を、彼女に語ることはないのだろう。
と、ひと段落つけたつもりだったのだが。サキが突拍子もないことを言い出した。
「じゃあ、ひとつ提案だ。お前、死ぬ瞬間に私のことを思い出してみろ」
突然の必然がひたひたと忍び寄る。死ぬとき。終わるとき。物言わぬ肉塊になり果てるとき。想像して、胃の底から冷たい不快がこみ上げた。死を振り翳す女を、涙を浮かべた気分で不死者は見上げる。
「趣味が、悪いな。無意味におれを怖がらせてどうするっていうんだよ」
「私はもともとこういう奴だ。幻滅したか?」
サキは笑った。吐いて捨てるのと同じ笑みだった。この表情には覚えがある。目が輝く様子は、きっと無邪気な素顔なのだ。
「わかってたよ。いまになって幻滅なんてしないさ」
とりあえず否定すると、サキは「そうだな」と返事をして書斎を出ていった。振り回されたクロエはため息をつき、自分の遺すものに向き直るのだった。
というのは、どうやらサキはスライムの暴走を止める研究を始めたらしい。彼女自身もまたイェーガーであるのだから、このままでは少しずつ侵食されていく。どうにかして、生き延びる術を突き止めなければならないのだ。
そういった事情をぼんやりと思い出しながら、クロエは薄い紙に万年筆を走らせる。情に厚い少年の冒険譚、その細かい設定をまとめているところだった、が、行き詰まりつつあった。こういうときは一旦筆を置いて、気持ちを切り替えるのが彼の執筆術だった。――という経緯で、サキに何気ない問いを投げてみた。
「人間にスライムを植え付けるなんて、どうやって思いついたんだ」
彼女は探し物に来たらしく、クロエの背後で何かを漁っていた。その合間に、はっきりした声で答えを放る。
「最初に考えたのは私じゃない。もともと先駆者がいたんだ。彼の死後にその研究を継いで、あの改造方式を完成させた」
的を射た返球は、作家の調子を良くした。どことなく弾んだ気分で会話を投げ返す。
「じゃあ逆に、自分の研究を誰かに継いでほしいとか、そういうことは」
「兵器研究に対してそう思ったことはない」
言い終わる前に答えが来て、クロエは気圧された。
「私の考えに関係なく、あの国は似たものを造るだろう。イェーガーの実在は、なかったことにできないのだから」
望まぬ連なりは、やはり続くのだろう。残酷な研究が巻き起こした業が、細々と、延々と。その接ぎ木であろう彼女の真意は、恐らく聞くべきではなかった。
「だからといって、今更私がどうするという話でもないがな」
謝るべきか悩んでいる間に、サキが先手を取って話を散らす。クロエはタイミングを失い、作りかけの謝罪は彷徨って消えた。
――生きている限り、心も世界も、まるで空のように変わり続ける。というような文章は、確か昔の自分が書き残したフレーズだった。その意味をクロエは実感して、ただ宙を仰ぐ。
「継ぐってのは、いいものだと思ってたけど」
視線は壁時計を通り天井へ至る。サキはこちらを訝しむのがわかる。クロエは思わず、言葉の盾を重ねてしまう。
「だって誰かに受け継いでもらえれば、死んだ後も自分のことが残るじゃないか」
死後に何かを遺したいという想いは、死すべきものなら自然に抱く望みだろう。少なくともクロエはそうだ。だが、彼は本当に「死すべきもの」なのか、という綻びをサキが見過ごすはずがない。
「お前はこの期に及んで自分が死ぬと思っているのか」
「そうだ。可能性は絶対に消せない。だから怖いんだよ」
物書きをやっていると、まあ想像力というのは育つもので。という付け足しは、余計に言い訳じみて響く。クロエがそうなった要因を、彼女に語ることはないのだろう。
と、ひと段落つけたつもりだったのだが。サキが突拍子もないことを言い出した。
「じゃあ、ひとつ提案だ。お前、死ぬ瞬間に私のことを思い出してみろ」
突然の必然がひたひたと忍び寄る。死ぬとき。終わるとき。物言わぬ肉塊になり果てるとき。想像して、胃の底から冷たい不快がこみ上げた。死を振り翳す女を、涙を浮かべた気分で不死者は見上げる。
「趣味が、悪いな。無意味におれを怖がらせてどうするっていうんだよ」
「私はもともとこういう奴だ。幻滅したか?」
サキは笑った。吐いて捨てるのと同じ笑みだった。この表情には覚えがある。目が輝く様子は、きっと無邪気な素顔なのだ。
「わかってたよ。いまになって幻滅なんてしないさ」
とりあえず否定すると、サキは「そうだな」と返事をして書斎を出ていった。振り回されたクロエはため息をつき、自分の遺すものに向き直るのだった。