Order of Border

「クロエ、ここから出るぞ」
 珍しく名前を呼ばれたと思ったら、これだ。
「本部におれを連れていくのか?」
 それにしては荷物が多いな、と付け足そうとしたときだった。サキは表情一つ変えず続ける。
「私はこれから軍を捨てて、帝国を脱走する。お前も好きなところに行くといい。このまま軍の管轄に置かれたくなければな」
 青天の霹靂であった。
 クロエの脱出作戦が行き詰っていた要因、最大の障壁本人から、そんな話を持ちかけられるなんて。おかげで彼女がなにを言っているのか、理解するのに少しばかりの時間を要した。
「どういう風の吹き回しだよ」
「お前がそんなに察しの悪い奴だとは思わなかったよ。嫌気が差した、それだけだ」
 彼女のもつ理由はクロエも重々承知していた。けれど、まさかこんな選択肢を採るとは思いもよらなかったのだ。なんて、大胆な。
 いつから、と聞こうとして、やめた。彼女はこういうとき必ず境界線の向こうにいて、クロエと本心を分かち合うことはない。

「って言ったって、これからどうするんだ」
「私には研究しか取り柄がないからな。どこかに潜伏して、己の探す答えを求め続ける」
 的を外した答えに、すこしだけ落胆する。知りたいのは具体的な方策であった。不満を舌先で整えて、吐き出そうと息を吸う。
 そのときサキがまばたきをした。深海に差し込むひかりのような、黒く青い瞳。彼女の横顔は、不死者には見えぬ何かを見据えていた。遠さに目を奪われているうちに、研究者は言葉を重ねる。吐こうとした不満が喉で行き場を失う。
「――そして、私のつくった改造兵士たちを、この手で全て処分しようと思う。あれを兵器にしたのは私だ。私が責任をとる」
 消したばかりの煙草の匂いと強い意志。まるで似合わない組み合わせはどこか現実離れしていて、まだ思案の海の底にいるようだった。

「……責任って、何だよ」
 浮いた心地で、思ったままが滑り出る。問いは封殺され、読み上げているような正確さで、代わりに展望が語られた。
「いま軍に現存している兵士たちは、申し訳ないが既に手を下しておいた。どちらにせよ他の研究者が使い潰すだろうが、彼らを放置すると、犠牲者は増える一方だろうからな」
 それって。掠れた相槌が漏れる。彼女がしでかしたことの骨組みが、ようやく染み込んでくる。
「資料も必要なものは持ち去って、軍にあるものは複製も含めて抹消した。灰すら残すつもりはない」
 ――つまり、イェーガー開発に関する一切の痕跡を消し去った、ということだ。そして、唯一その研究概要と技術を持ったサキは、国を捨てようとしている。
(これでもう、帝国はイェーガーを造り、運用することができない……)
 サキの意志はともかく、意図はなんとか飲み込めた。そのために、この国から消えようとしているのだ。

「あんたの考えはわかった。けど、じゃあ、おれは?」
 まさかここに置いていかれるのか。最初からそのことを聞こうとしていた。青い紐を外されると、クロエは正真正銘自由の身だ。そして自由とは、寄る辺ないことだった。
「好きにしろ」
サキはささいなことのように言ってのけた。
「あのなあ、いきなり野放しにされたらまた軍の連中に捕まって終わりだろ。好きにって言われてもどうすればいいんだよ」
 いまになって初めて、クロエは自分の無計画さに思いあたっていた。国内に留まるのは危険すぎる、かといって国境を越えられる確証もない。せめて経路を考える時間くらい与えてくれてもいいだろう。クロエが口を尖らせると、サキはまた軽やかに、
「だったら、私が使う予定の国外逃亡ルートに相乗りするのはどうだ?」
 と言い返して、悪戯をする子供のようににやりと笑った。
20/33ページ
スキ