Order of Border

 クロエは既に知っていた。サキがヒトであるということを。彼女は確かに残忍で非道な研究者であるかもしれないが、それ以前に心があり、家族をもった人間なのだと。
 クロエにだって大切な人はいた。いま隣にいないだけで、振り向いてほしかった相手が、いたのだ。クロエはただ経験として、その傷を知っていた、その欠如を知っていた。だからサキの心情を人並みには想像できる、という、それだけのことだ。それ以上はない。
 自分がこの欠落を、罅を晒すことはなく、だからサキがクロエの傷を知る日は来ないだろう。そして、クロエがサキの抱えた傷の全容を知る日も。
 煙草を口から離す。燃え尽きた灰を手で受け、痛みに顔を歪めた。灰皿は依然この部屋にはない。

 サキは部屋の奥で何かをしている。視界にいない以上、何をしているのかは知る由もない。がさごそと音だけが聞こえてくるのだ。また散らかしていなければいいが。灰色の煙を吐く。
「おれ、今度は小説でも書こうかなあ」
「お前は随筆作家じゃなかったのか」
「そうだけどさ。新しいことはいつ始めたって遅くないだろ」
「わからなくはないな。だが、なるべく早い方がいいのも事実だ」
 あの日。サキがうたた寝をして、クロエが千載一遇の機会を見逃したあの日から、彼女は何一つとしておかしいところを見せない。けれど、ある。見えないけれど、彼女のこころには痛みがある。思い違いではなく、確実に。再び煙草を咥える。

 サキはもしかしたら、兄に対して何かを求めていたんじゃないのか。何か。うつわを満たす、透明なそれ。薬にも、眠りにも似た、こころの傷を癒すもの。誰もが欲するもの。
 一計を案じる。――誰かが、たとえば自分が、「それ」を兄の代わりに彼女に与えてやれば。きっとサキを傷つけている氷は解ける。
 けれど。煙を吐く。けれどそれは暴力だ。クロエが彼女の欠落を補うのは簡単だろう。だが彼女が求める「それ」を一度でも与えてしまえば、二人はその透明を注ぎ合うだけの存在になってしまう。それは、暴力だ。あるべき形をゆがめる行為だ。

「そろそろ煙草にも飽きた頃じゃないか?」
 適当に投げられたような声は、しかし暗に煙草を消せと要求している。それくらいのことはわかるようになった、けれど、それだけだ。ふたりの間には壊れない境界線が存在している。

 やがて、作業を終えたらしいサキがやってくる。なにやら目立つほどの荷物を抱えていた。
「どうしたんだよ、また呼び出しか?」
 いつものように何気なく問いかけると、サキは答えた。
「クロエ――」
 そして次の言葉が、決意が、運命を動かすことになる。
19/33ページ
スキ