Order of Border

 本、書類、服、その他諸々。床を埋め尽くす有象無象を片付ける日々が続いて、気づけばサキの根城は随分と殺風景になっていた。またもや会議があるらしく、彼女は部屋を空けている。これまでのように何かをまとめておけとか、整理しておけとか、そういった類の言付けもない。ひとりでの脱出は随分前に諦めていて、試す策すら思いつかない。つまりクロエは、久方ぶりに暇を持て余していた。
 なにしろ部屋がきれいになってしまったため、探索する対象がないのだ。煙草はもう三本も燃え尽きていて、吸い殻もいましがた処分したところだ。
 いっそ眠ってしまおうか。そう考えたところで、扉が開いた。言葉もなく、のろりとした歩調でサキが帰ってくる。
 息が詰まる。彼女が、赤い。

「それ、どう……したんだよ」
 サキの身に纏ういつもの白衣が、真っ赤なまだらに染め上げられていた。錆びた匂いが示すのは、その赤の正体。血。
「怪我したのか? どうして――」
「返り血だ」
 血染めの衣を着た女は、不死者の言葉を遮った。
「スライムに施術する魔法の配合を、他の研究者がいじったらしい。結果的に移植後の検体が――兵士が自我を失って、触手ごと暴走。異常な攻撃性を備えていて、並の連中には手が負えなかった。だから、私が処分した」
 サキは語りながら汚れた白衣を脱ぎ捨てる。そのままソファに腰を下ろすと黙り込んでしまった。静寂が痛い。クロエは半分強いられた感覚で声をかけた。
「そんなやつによく勝てたな」
「そうだな」
「怪我はしてないんだよな」
「ああ」
「煙草吸っていいか」
「……」
 とりとめのない会話を何度か続けたが、生返事が次第に途切れていった。訝しんでサキを見やると、瞼は閉じられ、身体は傾いている。既に意識はなさそうだ。よほど疲れていたのだろう。見かねたクロエは、彼女をソファに横たえて、毛布をかけてやった。

 その瞬間、はたとクロエは気がついた。サキは部屋に帰ってきて早々、クロエの足首をぐるりと囲んでいたあの青い紐を外した。そしていま、どこか遠い夢の中にいる。そもそも寝入るつもりはなかったのだろう、眼鏡だってそのままだ。でなければ用心深いはずの彼女が、容易に自由を与えるなど。
 自由。そう、クロエはいま自由なのだ。換気をせずに煙草を吸うことも、せっかく整頓した室内を荒らすこともできる。勿論、部屋の鍵を内側から開けて、廊下に出ることだって。
 瞳孔が開き、心臓が鳴る。できる。
 ――この檻から、軍から、出ていける。

 簡素な変装ならお手の物だし、部屋のどこに何があるかは知っている。白衣を身に纏い、研究者に成りすませば事足りるだろう。時間は限られている、それでも今なら、確実に脱出できる。クロエはそう悟っていた。音を立てずに、脇目も振らず準備を進める。
 そして、全ての身支度を終え、扉に手をかけた、そのとき。

「どうして、」
 輪郭の薄れた声が静寂をついばむ。それは紛れもなくサキのものだ。気づかれただろうか。足音を殺して近づいてみると、彼女は未だ目を閉じて、本来座るべき場所に身を預けていた。これは、寝言か。
「にいさん――」
 その声音が、ただひたすらにクロエを抉った。
 彼女の痛みに関するかの仮説は的中していたし、それは的に命中したどころの話ではなかった。いまのサキは、傷といった言葉で済まされる状態ではない。
 もしかしてこれは、限界と呼ぶものなんじゃないのか。

 クロエの内側で、ひとのかたちをした倫理のようなものが走り回っている。扉にかけた手を針でつつき、糸を手繰りサキの元へと引き戻そうとする。このこころを踏み潰して外に出るのは簡単だ。けれどその後、すべてを振り返ったときに見える足跡は、一体どれほど濁っているだろう。
 背後にいるのはぼろぼろの、憐れむべき人間だ。きっと相手はサキでなくとも躊躇った、だがそれが彼女なら尚更だ。だってサキは突き進み続けていた。特別であっただろう兄の死について、これまで解明するようなそぶりも見せず――。
 そして唐突に、必然的に、彼は知る。勝手に動く思考が真実を導き出す。本当はずっと前から気づいていたのかもしれない。クロエの脳髄に、自らが鳴らした警鐘が響く。しかし、遅い。彼はもう認識してしまった。すぐ傍で眠っている研究者が言うことには、タクトの死因は、確か。
――登録されていない改造兵士に襲撃されたらしい。
 
「嘘、だろ」
 不死者はうなだれた。帝国の改造兵士。未登録であるとはいえ、それがイェーガーを示すのは確実だ。そして、スライムと人間の融合体を改造できる者は一人しかいない。だから、つまり、要するに。
サキによって開発された兵器が、彼女の唯一であった人を殺したのだ。
(こんなこと)
 ――自分のせいで、大切な人が。
目の前がちかちかしている。胸を、皮膚のさらに奥を掻き毟りたくなる。。縋るように扉に手をついて、けれどそのたった一枚を開くことができない。
(気づかなきゃ、よかった)

 クロエの内側で胸をつつく、溶け残ったひとのこころは問う。これでもまだ、彼女を置いていくのかと。罪と痛みに潰されそうなひとりのひとを、ここで見捨てるのかと。叫びたくなるのを必死に堪えて、削った声を絞り出す。
「なんで、だよっ……!」
 羽織っていた白衣を引き剥がし、勢いのまま床に叩きつけた。吸って吐いて、浅く繰り返す息が苦しい。
 クロエはそのまま膝を折り、床に転がった。サキが起きたら、寝言のことも、タクトの死因も、束の間の自由にも、何にも気づかなかったふりをしよう。囚われのままの、何も知らない不死者でいよう。その方が、罪を背負うよりずっと――。まとまらない思考はやがて泥の底に沈んでいき、クロエはそのまま意識を手放した。
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