Order of Border

「ここにまとめた書類を、端の鞄に移しておいてくれ」
 サキは最近、よく整理整頓に取り組んでいる。が、なかなか進まない。なにしろ元が散らかりすぎていたのだ。数日経って、ようやく一角の床が見えてきた。
「わかった。けど、なんでいまになって、」
「どうした?」
 クロエは言葉を選び、選び損ねて、続けるのをやめた。
「いや、何でもない」
 廊下での口論を聞いたときからか、あるいは手紙の一件からか、彼女に聞けないことが次々と増えていく。いまだって、なぜ突然部屋を片付ける気になったのか、という何気ない問いを口に出せずにいるのだ。手伝わされている以上、こちらも当事者なのに。

「そうだ。以前お前が気にしていた件だが――軍の実験で結果が出た」
 ふと思いついたようにサキが言った。手を止めることなく、本の山を分別しながら。
「気にしていた? なんのことだ」
「なんだ、忘れたのか。イェーガーに起こりうる将来のことさ」
 イェーガーの細胞が、すべてスライムと化したらどうなるか。その答えとしてサキが述べたのは「暴走」という二文字であった。
「通常ならば、徐々に人間側の肉体が侵食されて、数年から十数年程度で半数以上の細胞がスライムに乗っ取られる」
 実際にはそれより早く侵食が進んでいる、と付け足して、彼女は続ける。
「勿論、予防策として定期的な処置を行っていたが、それが不完全だと判明した。未だ、根本的な解決方法は見つかっていない。このまま軍がイェーガーを使い続ければ、やがて彼らの肉体は制御を失い暴走するだろう」
 破壊衝動に襲われ、無差別に周囲を攻撃する狂戦士と化すのだという。
「スライムと人間の融合体は、中央の核を正確に破壊しないと処理できない厄介なシロモノだ。本格的に武装した実働部隊でも手こずったようだ」
 クロエは言葉を失った。例えば、サキの細胞がすべてスライム化した場合、彼女は彼女でいられるのか――かつての問いに、答えが出されたのだ。否、と。
「以前から理性を失うイェーガーの存在は確認されていた。それらも同じように、過剰融合が原因らしい」
「過剰融合?」
 聞き返すと、サキの目は専門家のそれだった。ああしまったと思ったがもう遅い。講釈が始まる。
「『境界』を見失うのだと、思う。どこまでが元の自分自身で、どこからが植え付けられた異形なのか――」
 あまりに抽象的なフレーズを投げられて、クロエは思わずサキの方を確かめた。この頃よく見る、抜け殻のような表情をしていた。そのまましばらく聞き流しているうちに、彼女の声は常の調子に戻る。
 スライムの力を行使し続けるか、あるいは傷ついて治癒を繰り返すほど、その危険性は高まるという。しかし、そうでないイェーガーにおいても、過剰融合は発生する――。そこまで語って、彼女は眼鏡を光らせた。
「つまり、私が暴走する可能性もあるということだ」
 こういうときに笑みを浮かべるのが、サキのよくわからないところだった。

「いまいる改造兵士は、生きていれば必ず暴走し、ヒトとしての死に至る。戦うならば尚更だ。だから、暴走を防ぐ手立てを早急に考え出さなければならない」
 人道を考えれば当たり前のことだった。だが、その前提が狂っていることをクロエは実感している。帝国軍は痛覚を持つ人間を切り刻むようなところだ。
「けどよ、軍は新兵器を開発してるんじゃなかったのか」
「そうだな。兵士たちの人格はおろか命のことまで考えていないらしい。会議で挙がってくる案といえば彼らを強化することばかりだ」
 そこまで零して、白衣の女は口を閉ざす。さあお前の番だとでも言いたげな沈黙に、クロエは彼女の背中から目を逸らした。
「それを……あんたは、」
 ――どう思ってるんだ? 次の一言が、唇から先へ出ていかない。
 何がきっかけだったのかは定かではない。けれどクロエがサキに何も言えなくなったのは、ある可能性に気づいてからだ。
 彼女は傷ついているのではないかという、ほんの些細な仮説に。
17/33ページ
スキ