Order of Border
今日も今日とて、クロエは書類整理に勤しんでいた。暇であるよりはいいと思って一度引き受けたが、それから毎日頼まれるようになったので、少しばかり後悔している。
兵器開発に関する重要な会議があるようで、サキは帝国軍の本部へと出向いていた。頼まれごとを放っておいて脱出するチャンスかもしれない――と思ったのは一瞬で、左の足首に結ばれた知らぬ繊維がそれを邪魔している。結び目のない紐状の枷。サキは部屋を去る際に必ずこの枷をクロエに着けていく。見たこともない素材でできているそれは、恐らく彼女の研究の賜物なのだろう。
(こういうところ、抜かりがないやつ)
しかしながら、軍所属でもないクロエに研究書類を任せてもいいのだろうか。元々あらゆるものを床に放置するような女であるとはいえ。息をついて、手を止める。
サキは恐らく自分に対して疑念を抱いていない。それはそうだ。クロエは脱走という目標を隠し通している。その一点だけは努力してきた。自分が去った後の彼女のことは、どうしてか想像がつかなかったから。
――違う。想像しなかっただけだ。いずれ訪れるサキとの別離、そのとき彼女の表情を知りたくないのだ。
「そりゃあおれは昔から、誰かと正面から向き合うのは苦手だけどよ」
気がついてしまった本心にクロエはまず呆れた。誤魔化すように独り言を響かせていると、耳が知った足音を拾う。サキが帰ってくるのだろう。話し声も聞こえる。誰かと一緒なのか。探ろうと意識を集めた、そのときだった。
「お前は兵士の命を何だと思っている!」
耳に入ってきた怒鳴り声に、クロエは心臓の止まる思いをした。それがサキの声だったから尚更だ。
「帰れ。お前の提案を聞き入れる気はない」
それだけ言い残すと、彼女は乱暴に扉を開けて部屋に入ってくる。ピンと張られて強張ったままの空気。
「聞こえていたか」
こちらに向ける目がまだ冷たい。二人の間になにか、なにか言葉を重ねないと、視線の鋭さに殺されてしまいそうだ。そうして唾を飲み込んだあとに出ていったのは、彼女の名前ひとつだった。呼ばれた白衣の女は、返事をすることもなく、廊下での口論を振り返る。
「奴ら、軍の中枢に近い連中は、イェーガーの量産と強化を重視している。兵士の人格を顧みずに」
似たような話は前にも聞いた。サキがこれだけ繰り返すのだから、帝国内部の軍事開発は相当に急いているのだろう。彷徨った視界は結局サキの手元をとらえて、その拳がぎりりと握りしめられるのを見た。きつく震え、次に弛緩する。
「……だが、そうだな。実験と、改造と称して、生身のヒトをバケモノに作り変えてきた。あれを兵器として発展させたのは、他でもない私だ。……本当に今更だが、私は、彼らの命を何だと思っているのだろう」
それを述べたのは、輪郭を持たないはずのほんとうのサキだ。は、と息が逃げていく。破かれた手紙を思い出した。吐き出された感情の重さを見て以来、ずっと踏み込まないようにしていたクロエとサキとの境界。揺るぎない一線を、彼女の方から不意にしてきたのだ。
――サキが、おかしい。
「あんた、前はもう少し、こう……」
帝国のやり方について、軍人としての使命について。サキはすべてを割り切って、兵士たち人間を、実験材料として扱っていたはず。でも、いまの彼女は。筆を取り落としたように、続きが問えなくなった。
これまで見え隠れしていた棘を露わにして、同胞も彼女自身をも傷つけている。なにがサキを変えたのか、考えるまでもなかった。近頃、彼女の心を大きく濁らせた出来事があるとしたら――。
なぜ。なぜ今頃気がついたのか。当然、目を逸らしていたからだ。クロエは歯噛みした。次いで舌打ちも。サキは雑音を意に介さず、珍しいことに部屋を片付け始めたのだった。
兵器開発に関する重要な会議があるようで、サキは帝国軍の本部へと出向いていた。頼まれごとを放っておいて脱出するチャンスかもしれない――と思ったのは一瞬で、左の足首に結ばれた知らぬ繊維がそれを邪魔している。結び目のない紐状の枷。サキは部屋を去る際に必ずこの枷をクロエに着けていく。見たこともない素材でできているそれは、恐らく彼女の研究の賜物なのだろう。
(こういうところ、抜かりがないやつ)
しかしながら、軍所属でもないクロエに研究書類を任せてもいいのだろうか。元々あらゆるものを床に放置するような女であるとはいえ。息をついて、手を止める。
サキは恐らく自分に対して疑念を抱いていない。それはそうだ。クロエは脱走という目標を隠し通している。その一点だけは努力してきた。自分が去った後の彼女のことは、どうしてか想像がつかなかったから。
――違う。想像しなかっただけだ。いずれ訪れるサキとの別離、そのとき彼女の表情を知りたくないのだ。
「そりゃあおれは昔から、誰かと正面から向き合うのは苦手だけどよ」
気がついてしまった本心にクロエはまず呆れた。誤魔化すように独り言を響かせていると、耳が知った足音を拾う。サキが帰ってくるのだろう。話し声も聞こえる。誰かと一緒なのか。探ろうと意識を集めた、そのときだった。
「お前は兵士の命を何だと思っている!」
耳に入ってきた怒鳴り声に、クロエは心臓の止まる思いをした。それがサキの声だったから尚更だ。
「帰れ。お前の提案を聞き入れる気はない」
それだけ言い残すと、彼女は乱暴に扉を開けて部屋に入ってくる。ピンと張られて強張ったままの空気。
「聞こえていたか」
こちらに向ける目がまだ冷たい。二人の間になにか、なにか言葉を重ねないと、視線の鋭さに殺されてしまいそうだ。そうして唾を飲み込んだあとに出ていったのは、彼女の名前ひとつだった。呼ばれた白衣の女は、返事をすることもなく、廊下での口論を振り返る。
「奴ら、軍の中枢に近い連中は、イェーガーの量産と強化を重視している。兵士の人格を顧みずに」
似たような話は前にも聞いた。サキがこれだけ繰り返すのだから、帝国内部の軍事開発は相当に急いているのだろう。彷徨った視界は結局サキの手元をとらえて、その拳がぎりりと握りしめられるのを見た。きつく震え、次に弛緩する。
「……だが、そうだな。実験と、改造と称して、生身のヒトをバケモノに作り変えてきた。あれを兵器として発展させたのは、他でもない私だ。……本当に今更だが、私は、彼らの命を何だと思っているのだろう」
それを述べたのは、輪郭を持たないはずのほんとうのサキだ。は、と息が逃げていく。破かれた手紙を思い出した。吐き出された感情の重さを見て以来、ずっと踏み込まないようにしていたクロエとサキとの境界。揺るぎない一線を、彼女の方から不意にしてきたのだ。
――サキが、おかしい。
「あんた、前はもう少し、こう……」
帝国のやり方について、軍人としての使命について。サキはすべてを割り切って、兵士たち人間を、実験材料として扱っていたはず。でも、いまの彼女は。筆を取り落としたように、続きが問えなくなった。
これまで見え隠れしていた棘を露わにして、同胞も彼女自身をも傷つけている。なにがサキを変えたのか、考えるまでもなかった。近頃、彼女の心を大きく濁らせた出来事があるとしたら――。
なぜ。なぜ今頃気がついたのか。当然、目を逸らしていたからだ。クロエは歯噛みした。次いで舌打ちも。サキは雑音を意に介さず、珍しいことに部屋を片付け始めたのだった。