Order of Border

「結局、サキをどうするか、になるんだよな」
 クロエは煙草を消し、残骸を握りつぶした。サキからそれとなく聞き出した情報によると、タクトの死を受けて、帝国軍は水を泡立てたように混乱しているらしい。国を強固にする軍事力をいっそう求めるようになった、と、彼女は遠くを見て言っていた。
 道を遮る、聳え立つ壁に大きな穴が開いている。この隙を逃すわけにはいかないだろう。――軍の支配から逃れるために。クロエは目を尖らせながら、頭脳の歯車をぎりぎりと回す。
 いまここから脱出するとなると、一番の問題はサキだろう。彼女が外出する際の枷による拘束は未だに破れず、かといって本人を前に逃走を図るわけにもいかない。まるで壁の穴に立ち塞がって、クロエを見咎めているようだ。算段を見抜かれたのでなければいいが。どちらにせよ、彼女を突破しなければ己が青空の下に出ることはない。

 今日もまた、サキのもとに使者が訪ねてきていた。扉の音に気がつくや否や、クロエはソファにぴたりと腰を沈め、息を潜めた。漏れ聞こえてくる声に耳を澄ます。帝国の内情は目につく限り拾っておきたかった。どうやら、相手は改造兵士に関する方針を相談しにきた研究者のようだ。
「あれ以上の比率でのスライム移植は危険だ。理性を失う恐れがある」
 部屋を訪れた相手に、サキは冷静に言い放つ。揺るぎない語調は、口を挟む余地すら与えない。兵器研究の専門用語が耳から耳へ流れていく。学者同士の話はこれだから、と頭の中でぼやき、情報収集に見切りをつける。これといった収穫はなさそうだった。
 扉を荒く閉め、部屋の中ほど――いつも居座っている一角に立ち戻ると、サキはため息をついた。盗み聞きを隠しながら、クロエは平静を装い声をかける。
「おれのこととか何か、言ってたか?」
「全く。この状況では、お前になど構っていられないだろう。向こうは、痛みを与えたり薬物を投与したり――とにかくそういったことで、過剰な強化により理性を失ったイェーガーを操作しようとしている」
 思っていたより長い答えが返ってきた。サキは初めて会ったときから饒舌ではあったが、この頃さらに小言が増えた気がする。帝国の心無さはとっくに聞きなれていたし、身をもって知っていた。
「それが軍の方針なんだろ?」
「ここにいる以上、私は従わねばならないだろう。いまこの国で、スライムを埋め込んだ人間をイェーガーに改造できる技師は私だけだからな」
 初耳だ。目の前で腕を組んでいる研究者が、帝国唯一の人間であったとは。目を丸くしている間に、彼女はクロエの正面に立っていた。
「技術指導や研究データの継承も重視しろ、と言いたいところだが、軍はどこまでも新たな戦力を追求するらしい。私が死んだらどうするんだか」
 死。その一語が耳を通った次の瞬間、クロエは反射的に立ち上がった。なんてことを。言葉は頭からではなく、肺から直接出ていった。
「冗談言うなよ! 第一あんたもイェーガーの一種なんだから、そう簡単には死なないだろ」
「……言ってみただけだ」
 サキは口の端だけで薄く笑う。呟いた声は空気が抜けたように落ちて、膨らむことなく消えていった。

「とにかく、向こうと話をつけないとならないだろうな。むやみな戦力増強はこちらにとっても仇となる」
 彼女としては、闇雲に改造兵士たちを強くすることは避けたいらしい。その理由がいかなるものなのか、想像してはみたがどうしてもその輪郭には靄がかかっている。
「ああそうだ、お前、部屋の隅に置いてある実験記録の資料を一冊にまとめておけ。どうせ暇だろう」
 人使いの荒い研究者様だとぼやいてみたそのときには、白衣はもう背中を向けていた。サキの胸中でなにが渦巻いていたか、伺うことはできても尋ねることは許されない。この歯がゆい距離感にも、そろそろ慣れてくる頃合いだった。
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