Order of Border

 サキはこの頃不在がちだ。というのも、新型イェーガーの開発が盛り上がっているらしく、いくつもの会議に出席しているのだ。
 一方のクロエは、何もなかった。勿論身柄を解放されたわけではなく、ひとりきりのときは相変わらず枷に自由を奪われている。といっても、枷を繋ぎとめている紐の長さには部屋を歩き回るほどの余裕があった。
(腕と脚をそれぞれぶった斬れば、この邪魔な枷を外せる気はしなくもないけど)
 することもないので、クロエはとりあえず脱出の算段を立ててみた。脚ごと枷を切り離して、あとは再生する身体に任せれば拘束を外すことは可能であろう。しかし問題はその先だ。
(痛いのは嫌だし、部屋を出たところで巡回兵に見つかるのがオチか)
手の届く範囲に凶器が見つからず、この作戦は没に終わった。枷を外せない以上、脱走計画は立てられそうもない。
 クロエはため息をついた。考え事はもううんざりだ。しかし、話し相手はおらず、すべきことは欠片もない。
何を隠そう、暇なのだ。

 こういうとき、クロエはサキの部屋を散策することが常になっていた。以前はサキの研究資料を発見した。こんな重要なものをよく床に置いておけるな、と驚いたものだ。そもそもここは散らかりすぎている。刃物の類が放置されていないのは奇跡だろう。
 部屋の奥、台所の反対側へ向かうと、そこには書斎らしき一角がある。整頓されていない本棚の立ち並ぶ場所に目をやった。クロエは本が好きだ。暇潰しにちょうどいいものがないかと足を向ける。そのとき、場にふさわしくない古びた紙を見つけた。手に取って、目を通す。
「帝国政府司令部、タクトより……?」
 それはサキ宛の手紙だった。

 ――捨て駒の化け物共を従えたくらいで、帝国の礎になれるなどと思わないことだ。お前が異形でなく俺の妹だというなら、兄の執務の邪魔をするな。お前からの手紙を開くことはもうないだろう。

「おかえり、サキ」
 不死者が出迎えても、帰ってきた研究者は返事をしない。いつものことだ。
「今日は、こんなものを見つけたぞ」
 指先でつまんで手紙をぶらさげる。紙の正体に気がついたサキは、遠くからでもわかるほど目を見開いた。
「読んだ、のか」
「ざっと読んだ。あんた、兄さんがいたんだな」
 サキにきょうだいの一人や二人、いてもおかしくはない。クロエがわざわざ手紙をとっておいてまで彼女を問い詰めるのは、その差出人がただの兄ではないからだ。問題の署名は。
「タクトといえば、このグラン帝国のお偉いさんじゃないか」
「だからどうした」
 青い触手が伸びてきて、クロエから手紙を奪い取る。サキはたった一枚の紙を感慨深げに掴み、目を通しているようだった。追い打ちのようにクロエは踏み込む。

「あんた、そんな大物の妹だったなら、なんでこんなところで軍人の研究員なんかやってんだ」
 指導者の威光を浴びて、もっとふさわしい場所で生きていくことができたのではないか――。クロエは己の意図を声と語調に滲ませた。察しのいいサキが気づかないはずはない。
「私は、兄の影で生きるほどの力を持たなかった」
 サキはまるで独り言のように語り始めた。
「兄は、……タクトは、大いなる才能を持った人間だ」
 年の離れた兄は、幼少期から格の違う存在だったらしい。その多岐にわたる才能を生かし、若くして帝国の上層部に抜擢された。
「私は、兄のような成果を残せと言われ続けてきた。けれど昔から、私には研究しかなかった。己の知識や経験を磨いて、上層部に辿り着けるよう努力もした」
 国への尽力が一族の使命だ。サキは語った。その通りにタクトは国を導く立場になった。
「だが――未だに私はただの研究者だ。あの男には、届かない」
 沈黙の帳が降りて、しばらく二人の時間を止めていた。曇天のように澱む薄闇を纏い、静寂を破ったのは不死者の方だった。

「なあ、あんたが一生懸命研究をしてるのって――」
 帝国への貢献によって、兄に認められるためではないのか。
 口まで出かかった問いは、しかしそこで霧散した。見えない湿った波のようなものが、つまりはサキの醸し出す空気がクロエを止めたのだ。視線を床に落とし、サキの目はそれでも不思議に燃えていた。
「こんなもの」
 サキは押し殺した声で吐き捨てると、兄からの手紙をその場で八つ裂きにした。
 古い便箋がただの紙切れになり、紙屑になっていく。その一部始終を見ていたクロエは、胸の奥底が冷えていくのを感じた。背筋が凍って動けない。
(さっきの質問を口に出していたら、おれはどうなっていただろう)
 いまや文字ひとつ読めないほどばらばらになった手紙は、言葉を間違えた自分の姿そのものだ。

 誰にだって、暴いてはならない本心がある。サキにとって兄の存在は、心の奥に隠した秘密の鍵なのだ。そして扉の向こうに、兄への想いがある。
自分はあやまちを犯した。分け入りすぎたのだ。クロエは自覚したが、もう遅い。重々しい空気の中で口を開くのには、それなりの努力を要した。
「この話は終わりにしよう。悪かった、サキ」
「……気にするな。これから、気を付ければいいことだ」
 告げられた言葉に、煙草に火をつけようとした手がそのまま止まった。もう二度と、彼女の内側を覗くな、と。そういうことなのだ。境界線を荒らした足で後ずさり、クロエは深く息をついた。
(本当に……悪かったよ)
 声に出せない謝罪を重ねる。自分を許してくれたとき、サキの声は震えていたのだ。
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