[6]真実のかけら
一方、ウィリアムは固まっていた。一通り見て回った村は、彼に奇妙な印象を与えていたからだ。この村に着いてから、ずっと。
違和感。
「大丈夫?」
ジェシカが心配そうにこちらを覗き込む。彼はただその場に立ち尽くしていた。ぼうっとしている場合ではないというのは、自分でもわかってはいる。それでも。
「ごめん。ちょっと」
そう返事をするのが精一杯だった。どこかで幼い少女が泣いているのが聞こえて、身が強張る。
「私、行ってくるわね」
こちらを気にかけながらも、ジェシカは自分の役目を果たしに駆け出した。彼女はそれでいい。ただ自分はそれどころではなかった。村の現実よりもずっと鋭く、深く迫ってくるものがウィリアムにはあった。
既視感。
夢か現実かもわからないほど、見慣れていた見知らぬ風景。心のそこかしこで扉ががたつく。追憶の残滓が仄かなひかりを携えて視界を照らす。そこは思い出の中。記憶に織り込まれた世界。
いま立っている村とよく似た場所で、かつてのウィリアムはシェリーと震えていたのだ。休むところがなくて。食べるものがなくて。ちょうど、すぐそこで泣いている幼子のように。
ここかもしれない。ここではないかもしれない。うるさく主張する鼓動とは裏腹に、動く唇は落ち着いていた。
「なあ、こういう村みたいなところは、他にもあるのか」
あるのだ。問わずともわかっていたが、誰かに形にしてほしかった。ジャリ、と砂を踏む音がして、背後から意外な声で答えが飛ぶ。
「スラムのことか? そんなもんどこにだってあるだろ」
整えられた真紅の長髪が、風に吹かれるまま揺れていた。
「ルビウス」
彼は名を呼ばれるとそのまま隣に立ち、息を継いで語り始める。
「光あるところに影があるのは当たり前だ。でかい街にはどこだって、あぶれた奴らの掃き溜めがある」
そこには一切の容赦もない。天才はただ事実を見据えて、やっかいな舌を躍らせる。現実によく似た残酷さが癇に障る。
「そんな言い方……!」
「事実なんだから仕方ないだろ。あのトラスダンジュにだって、そういう吹き溜まりがあった」
「……なかった」
その存在を小耳に挟むことすら。遠征で立ち寄ったあの都は影を包み込んではいたけれど、表に見えるすべては白く輝いていたはずだ。
「あったんだよ。数年前まではね」
横やりを入れたのはドロシーだ。遠い傷跡を見やるようなまなざしをしていた。
「けど、そのことを今話したってどうにもならないだろ? お喋りしてる暇があったら、さっさとやることやりな」
二人を引き離しながら、ドロシーはチラリとジェシカのほうを確かめた。ちょうど戻ってきたばかりの彼女は、きっと聞こえないふりをしている。
「お腹を空かしている子がいるみたい」
会話を気にしていない様子で、ジェシカは紙袋を取り出す。なつかしい匂いが鼻腔をかすめた。
「それって」
「宿屋で工房を借りて焼いてきたのよ。お弁当の用意も兼ねてね」
丸くて白いパン。噛みしめるほどに広がる甘み、包み込むようにやわらかな食感。暖かな味わいのする――。
「オレたち、そのパン食べたことなかったよな」
「そうね。家を離れてからあまり焼いてなかったから……。でも、どうしたの?」
彼女は不思議そうに聞き返す。飢えた子らに与えられるという特製のパンは、満たされているはずのウィリアムをも惹きつけていた。まるで大好物を見せられた気分だ。
「いや、おいしそうだなと思って」
「貴方もお腹が空いてるなら、後で何か作るわよ。でもまず、やることが終わったらね」
そう言ってジェシカは再び背を向けた。貧民街の子供たちにとって、あれは極上の一品だろう。美しく気品ある少女に手渡される、まるくてしろいご馳走。
けれど、その施しが思わせるのは、彼らの現状より自分の過去だ。
「シェリー」
無意識に呟いた名の持ち主はここにはいない。けれど、置き去りにされ、人々が苦しみ、魔物までもが襲いくる、そういう場所にいまウィリアムはいる。
力ある者に虐げられたこともあった。シェリーを一人にして悲しませたこともあった。思い起こせば起こすほど、現実に呑まれていく。あれは事実で、記憶で、絵空事ではない。
「なあ、……その、大丈夫なのか?」
いつのまにか横にいたドロシーがぶっきらぼうに声をかける。いつも遠回しに心配してくれているとは知っていたけれど、このときはそれに気づけなかった。
「調子が悪いならさっさと休みな。倒れられると迷惑だ」
「わかってる。大事なのは明日、だろ」
タバサの宣戦布告を受けたのは、他でもない自分だ。大切な人を護れなかった、無力だったあの頃とは違う。
「これ以上、傷つけさせやしない」
この地こそは。ウィリアムは自然に、でも痛いほどに強く、拳を握りしめた。
違和感。
「大丈夫?」
ジェシカが心配そうにこちらを覗き込む。彼はただその場に立ち尽くしていた。ぼうっとしている場合ではないというのは、自分でもわかってはいる。それでも。
「ごめん。ちょっと」
そう返事をするのが精一杯だった。どこかで幼い少女が泣いているのが聞こえて、身が強張る。
「私、行ってくるわね」
こちらを気にかけながらも、ジェシカは自分の役目を果たしに駆け出した。彼女はそれでいい。ただ自分はそれどころではなかった。村の現実よりもずっと鋭く、深く迫ってくるものがウィリアムにはあった。
既視感。
夢か現実かもわからないほど、見慣れていた見知らぬ風景。心のそこかしこで扉ががたつく。追憶の残滓が仄かなひかりを携えて視界を照らす。そこは思い出の中。記憶に織り込まれた世界。
いま立っている村とよく似た場所で、かつてのウィリアムはシェリーと震えていたのだ。休むところがなくて。食べるものがなくて。ちょうど、すぐそこで泣いている幼子のように。
ここかもしれない。ここではないかもしれない。うるさく主張する鼓動とは裏腹に、動く唇は落ち着いていた。
「なあ、こういう村みたいなところは、他にもあるのか」
あるのだ。問わずともわかっていたが、誰かに形にしてほしかった。ジャリ、と砂を踏む音がして、背後から意外な声で答えが飛ぶ。
「スラムのことか? そんなもんどこにだってあるだろ」
整えられた真紅の長髪が、風に吹かれるまま揺れていた。
「ルビウス」
彼は名を呼ばれるとそのまま隣に立ち、息を継いで語り始める。
「光あるところに影があるのは当たり前だ。でかい街にはどこだって、あぶれた奴らの掃き溜めがある」
そこには一切の容赦もない。天才はただ事実を見据えて、やっかいな舌を躍らせる。現実によく似た残酷さが癇に障る。
「そんな言い方……!」
「事実なんだから仕方ないだろ。あのトラスダンジュにだって、そういう吹き溜まりがあった」
「……なかった」
その存在を小耳に挟むことすら。遠征で立ち寄ったあの都は影を包み込んではいたけれど、表に見えるすべては白く輝いていたはずだ。
「あったんだよ。数年前まではね」
横やりを入れたのはドロシーだ。遠い傷跡を見やるようなまなざしをしていた。
「けど、そのことを今話したってどうにもならないだろ? お喋りしてる暇があったら、さっさとやることやりな」
二人を引き離しながら、ドロシーはチラリとジェシカのほうを確かめた。ちょうど戻ってきたばかりの彼女は、きっと聞こえないふりをしている。
「お腹を空かしている子がいるみたい」
会話を気にしていない様子で、ジェシカは紙袋を取り出す。なつかしい匂いが鼻腔をかすめた。
「それって」
「宿屋で工房を借りて焼いてきたのよ。お弁当の用意も兼ねてね」
丸くて白いパン。噛みしめるほどに広がる甘み、包み込むようにやわらかな食感。暖かな味わいのする――。
「オレたち、そのパン食べたことなかったよな」
「そうね。家を離れてからあまり焼いてなかったから……。でも、どうしたの?」
彼女は不思議そうに聞き返す。飢えた子らに与えられるという特製のパンは、満たされているはずのウィリアムをも惹きつけていた。まるで大好物を見せられた気分だ。
「いや、おいしそうだなと思って」
「貴方もお腹が空いてるなら、後で何か作るわよ。でもまず、やることが終わったらね」
そう言ってジェシカは再び背を向けた。貧民街の子供たちにとって、あれは極上の一品だろう。美しく気品ある少女に手渡される、まるくてしろいご馳走。
けれど、その施しが思わせるのは、彼らの現状より自分の過去だ。
「シェリー」
無意識に呟いた名の持ち主はここにはいない。けれど、置き去りにされ、人々が苦しみ、魔物までもが襲いくる、そういう場所にいまウィリアムはいる。
力ある者に虐げられたこともあった。シェリーを一人にして悲しませたこともあった。思い起こせば起こすほど、現実に呑まれていく。あれは事実で、記憶で、絵空事ではない。
「なあ、……その、大丈夫なのか?」
いつのまにか横にいたドロシーがぶっきらぼうに声をかける。いつも遠回しに心配してくれているとは知っていたけれど、このときはそれに気づけなかった。
「調子が悪いならさっさと休みな。倒れられると迷惑だ」
「わかってる。大事なのは明日、だろ」
タバサの宣戦布告を受けたのは、他でもない自分だ。大切な人を護れなかった、無力だったあの頃とは違う。
「これ以上、傷つけさせやしない」
この地こそは。ウィリアムは自然に、でも痛いほどに強く、拳を握りしめた。