[5]善か悪か、敵か味方か
星明りが照らす道をひたすらに辿る。結界の外に出るまで、人の気配はおろか風さえ感じなかった。真夜中もとっくに過ぎている。不気味な静けさに、それでもウィリアムは足を止めない。
結界を越えると、澄んだ空気が重みを帯びた。そこは闇に沈んだ戦場。赤い瞳が視界をちらつく。いる。右手には電撃を纏った剣を携え、左手で魔方陣を結びながら様子を伺う。最初の獲物がこちらに気づいた。
(来た!)
熊によく似た魔物だった。巨体を見上げ、ウィリアムはまず紡ぐ。
「出でよ、我が身に宿りし雷の煌めき――」
詠唱の間にも、標的が腕を振り上げる。地を蹴って飛び退ると、人間の顔より大きな爪が足跡を削った。目の前に突き刺さった腕めがけて、一直線に解き放つ。
「喰らいやがれ! 最大出力、<トニトルス・ゲイル>!」
迸った雷は暴れる右腕を切り落とす。図体の割に大したことはない……そんなぬか喜びがすべてを鈍らせた。
「よっしゃ! この調子、で……?」
言いかけた声が途切れる。――いない。視界のどこにも、あの巨体がない! 思考をなんとか鎮める。意識を張り巡らせたそのとき、背後で何かが動くのを感じた。そこだ。
殴りこんできた質量を左腕で受け止める。メリメリと体内に響くいやな音。
ようやく目で捉えた魔物の体躯は、燃え上がるように赤い。じわじわと広がる痛みが集中を奪う。同じ手はもう効かない。切羽詰まったウィリアムに残された選択は、直感に身を任せるのみ。
「我求むるは紫電の刃――」
呪文を紡ぎながら剣を振るう。重い一撃を受け止め、逸らす。反撃。焦った太刀筋が敵を逃がす。その繰り返し。
「弾けろ!」
自分がなんの詠唱をしていたのか、もう覚えていなかった。苦し紛れに放った魔弾はしかし転機になる。塊がバチリと弾けて赤い目に命中した。夜がちぎれそうな悲鳴を上げ、異形は足を止める――今しかない。気を集中させて跳び上がる。
「これでどうだ!」
斬撃と雷撃は全身全霊の一撃と化し、敵をまっぷたつに切り分けた。熊のような巨体は黒い霧に還る。黒ずんだ欠片が落ちて一戦が終わった。
立ち止まると、疲れと痛みがどっと蘇る。熱をもちはじめた腕をどうにかして冷やしながら、ウィリアムは途方に暮れた。運が良かった。それだけだ。
(ひとりで戦うって、こういうことなのか)
守備を立てて支えてくれるリンがいない。的確な援護射撃で敵を攪乱するジェシカがいない。前線で背を預けられるユンがいない――単身では、あの強敵と渡り合えるわけがなかったのだ。ちぎれた灰色の雲が星明りを隠す。
そのとき、どこかで羽音がした。咄嗟に辺りを見回すと、鳥にしては大きすぎる影があった。魔物だ。気づいて真っ先に身を隠した。狩るべき相手から逃れてどうする――木の陰でこっそりとため息をつく。
(もしかして、オレって考えなし……?)
今更気づいても遅い。だが、このままたったひとりで戦い続けるのは無理がある。必死に思考をめぐらせて策を探す。ここで終わったらただの馬鹿だ。
(やっぱり、あの力がなければ)
鍵に目をやる。扉を開ける保証はない。けれど今のような戦いを続けて、無事に帰り着ける保証もないのだ。冷たい金色を握り――。
ぞわり。ふっつりと途切れた記憶が扉を遠ざける。また間違えたら、どうなる?
意識がないまま暴れて、仲間を傷つけてしまったら。知らない誰かを標的にしてしまったら。それでは魔物と同じだ。
こみ上げてくるねっとりとした水に呑まれて、ウィリアムは忘れていた。ここは敵地、すぐ傍には赤い眼。気がついたときには、黒い羽ばたきが目の前にあった。
魔物の爪が伸びるような早さで襲いくる。迫る鋭利に身が竦む――その瞬間、ウィリアムはある種の覚悟をした。
(やっぱりオレ、馬鹿だったんだ)
目を瞑った暗黒の中にぼんやりと浮かんだのは、仲間の顔だった。耳を劈く金切り声がして、そして――何も起こらない。
おそるおそる瞼を開けると、切り裂かれた魔鳥が黒い霧となり散っていくところだった。魔力を収めたのは見知った姿。銀の髪、黄金の瞳、きつく引き結んだあてやかな表情――。
「シオン?」
どうしてお前が。呟きにも似た問いは、静寂を取り戻した森によく響いた。彼は答えない。息を整えながらぼんやりと思い出す。半ば確信していたが、この目でとらえたのは初めてだった。彼は本当に夜の魔物を倒していたのだ。
(こんな手ごわいのと戦ってまで、魔力を集めている……)
何のために。胸の奥に固まっていた謎が、今そこにいる彼にふれて融けだす。
「待てよ!」
捕まえた彼は相変わらず無愛想な顔をしていて、ウィリアムはまず放置されなかったことに安堵した。
「お前、いつかもオレのこと無視しただろ」
勢いだけの問いに、シオンは目で答えた。あからさまにうんざりしている。だがそんなことで諦めるウィリアムではない。このままいつものやりとりに入るかと思われたが、しかし歪な咆哮がすべてを塗り替えた。
存在感、敵意、気配――赤い眼光があちらこちらで光る。数体の魔物が二人を取り囲んでいた。
「なあ、これ……なんとかしなきゃいけないんじゃ」
「だろうな」
お世辞にも万全とはいえない状況、けれど背中合わせにいるのは。唇が笑みを描く――やってやる。
振り絞った力で剣に火花を纏わせる。狙うは四つ足の魔物。気合のこもった刃は、残念ながら空を切る。
「避けるんじゃねえよ、全く!」
距離を詰めながら次の手立てを考える。ただ、ウィリアムの視野は狭い。敵は一体だけではないのだ。先刻とよく似た漆黒の熊が死角から迫っていた。目を醒ますような声が飛ぶ。
「後ろだ!」
振り返ってみたものは、狂気と殺意、そして暴力。無理のある体制のまま、右手の剣はやたらゆっくりと弧を描く。
――やられる!
時を引き戻すように、黒い影が躍り出た。間に入ったシオンが魔物の躰を斬りつけたのだ。入れ違いになって、尖った爪がその脚に深々と突き刺さる。
「消えろ」
押し殺した声と同時に、熊の魔物はバラバラに切り刻まれた。地に降り立つと、傷口から溢れた血が赤い跡を残す。あるはずの痛みも意に介さず、シオンは次の魔物に向き直った。
間に彼がいなかったら、あの爪が貫いていたのは。いやな想像が頭の隅をよぎる。
「よそ見をするな、お前の敵はそっちだ」
主張してくる左腕の熱に耐えながら、忠告に従って敵と対峙する。その間にもシオンは着々と黒い霧を集めていた。背中でわかる彼の強さが、ウィリアムを踏み込ませる。
「そこだ!」
翳した抜身の剣が、最後のターゲットを消し去った。
「終わった……」
ウィリアムは脱力した。座り込むと、腰から下が地面に張り付いてもう動けない。沈んでいく身体を樹に預け、ぼんやりとシオンを見やる。
彼は淡々と、けれど乱暴に左脚の傷を血止めしていた。初めて見る手負いの姿。胸の奥がちくりとざわつく。彼一人ならばうまくやっていただろうに……。考えるより先に問いが飛び出た。
「その傷、大丈夫なのか?」
「大した問題じゃない」
痛むのか、平気なのか。こちらを責めるつもりはないのか。シオンの答えはウィリアムの知りたかったことをすべて放り投げていた。
「そう、か」
何度聞いてもきっと返事は変わらない。吐き出したため息の代わりに澄んだ空気を吸い込む。いつのまに雲が晴れたのか、自分の鼓動だけがクリアに聞こえていた。
「なあ」
漆黒の空に点々と瞬く光。静寂を盗むように、二人だけがここで息をしている。なぜだかそれがとても特別な時間に思えて、ウィリアムはどこかに今を繋ぎとめる材料を探した。
「その、ありがとうな。助けてくれて」
「お前は本当に何もわかっていないな」
斬り返した刃の先が首筋にふれる、そんな錯覚に夜が凍りつく。
――何がわかる。
白い街で訊いた声が、頭の中で響きつづけていた。そう、彼は使命のためなら誰を見捨てても構わないのだ。あの日と同じ熱が胸から零れて胃を満たした。
「わかんねえよ。でもオレは傷つけたくない。誰かを守って、助ける強さを目指したいんだ。だから」
仲間が自分にしてくれたように。眼前の少年が自分を庇ったときのように――。
「よりによって、お前がそれを言うのか。何も知らないお前が」
続きを待たず、シオンは絞り出すような声で会話にとどめを刺した。
「弱きものは、強く価値あるもののために消費される。そうであるべきだ」
伸ばした手で結ぼうとした糸はあっけなく断ち切られて行き場を失う。ウィリアムの未来を照らす光は、彼の道にはない。ひんやりとした重いものが五臓六腑を満たし、切り口からどろりと流れ出す。
「どうしてだよ……どうしてそんな、寂しいこと!」
痛みを忘れて立ち上がると、乱暴にその肩を掴む。無理やりに合わせた視線がそれぞれの鍵穴に届くことはなかった。
「同じことを何度も言わせるなと何度言わせるつもりだ」
彼の言葉は、いつもどこか剣に似ている。魔物を捌く切っ先のように鋭く、それでいて一寸の錆びもない。ならばその柄を握るのは何だというのか。
「なんなんだよ、お前の『すべきこと』って。どうしたら、そこまで冷たくなれるんだ」
返事はない。あるはずがない。そんなことはとうに知っている。それでも惹きつけられていく気持ちが言葉を紡がせた。
「お前は、それで誰かを傷つけても痛くないのか? それが仲間や、大切な誰かでも」
ぐるぐるとまわる思考の底から、氷の棘は消えなかった――だからこそ、こんなところまで来てしまったのだ。
渾身の叫びは見えない鎖に阻まれる。突き放されると、それだけでもう立ち上がれなくなった。そのままシオンは背を向けて、ただ一言の答えを落とす。
「俺は、もう誰にも縋らない」
そのときシオンは一度だけ、馴染みのない顔で振り向いた。まるでウィリアムの知らないもの、例えば消える寸前の炎がゆらめくのをじっと見つめているような白いかんばせ。視線だけをのこす黄金の瞳は溶けてしまいそうだった。
あんな揺れた表情をされると、もう放ってはおけない。彼を追いかけようとしたが、限界のほうが早かった。膝から崩れ落ちる。ほどけかけた結び目は、指のあいだをすりぬけていく。ほどなくしてまた、ウィリアムはひとりきりになった。
(じゃあなんで、オレを助けたんだ)
知れば知るほど、聞きたいことが増えていく。彼は本当に自分と違うのか。血に染まった脚は痛まないのか。どうしてそんな顔をするのか。
(あいつは、ひとりで戦っても平気なのか……)
一番確かめたかったのはきっとこれだ。いつか言いかけた問いを今更になって思い出す。
(オレがもっと強かったら、教えてくれたのか)
いつまで経っても彼には及ばない。玉鋼のようなあのしなやかさに、一晩で二度も助けられたのは事実。そしてそれに報いることを、ウィリアムは何もしていない。
――あいつを、どうしたいの?
ふとユンの声が蘇る。雲が晴れた空に告げることはもう決まっていた。
(仲間になりたいんだ)
ひとつひとつの光は弱いが、すべてを結び合わせれば暗闇に道を浮かび上がらせることだって容易い。たとえば、二人で見上げた星のように。
(オレはまだ、そこまで出来た奴じゃないけど。でも)
シオンは強い。ウィリアムと違って光なき道だってひとりで歩んでいけるのだろう。けれど、それでいいのか。喉が渇いたような瞳のきらめきが目に焼き付いて離れなかった。
いつまで取り残されていただろうか。星を探そうと宙を仰ぐと、空の端はもう明るみ始めていた。
(そろそろ戻らないと、心配かけるよな)
頭ではわかっていても、根が生えたように身体が動かない。みるみるうちに夜は空け、 木々の間に朝日が差し込む。世界が照らされる。
そこで、ウィリアムは地面に散らばっているものたちに気づいた。魔物の核。シオンが置き去りにしていった戦果。朝の光を受けて、ある一点が輝く――銀の欠片だ。息を呑んだ。無我夢中で手を伸ばし、掴んだ希望を強く握りしめる。
すべては無駄にはならないのだ。
結界を越えると、澄んだ空気が重みを帯びた。そこは闇に沈んだ戦場。赤い瞳が視界をちらつく。いる。右手には電撃を纏った剣を携え、左手で魔方陣を結びながら様子を伺う。最初の獲物がこちらに気づいた。
(来た!)
熊によく似た魔物だった。巨体を見上げ、ウィリアムはまず紡ぐ。
「出でよ、我が身に宿りし雷の煌めき――」
詠唱の間にも、標的が腕を振り上げる。地を蹴って飛び退ると、人間の顔より大きな爪が足跡を削った。目の前に突き刺さった腕めがけて、一直線に解き放つ。
「喰らいやがれ! 最大出力、<トニトルス・ゲイル>!」
迸った雷は暴れる右腕を切り落とす。図体の割に大したことはない……そんなぬか喜びがすべてを鈍らせた。
「よっしゃ! この調子、で……?」
言いかけた声が途切れる。――いない。視界のどこにも、あの巨体がない! 思考をなんとか鎮める。意識を張り巡らせたそのとき、背後で何かが動くのを感じた。そこだ。
殴りこんできた質量を左腕で受け止める。メリメリと体内に響くいやな音。
ようやく目で捉えた魔物の体躯は、燃え上がるように赤い。じわじわと広がる痛みが集中を奪う。同じ手はもう効かない。切羽詰まったウィリアムに残された選択は、直感に身を任せるのみ。
「我求むるは紫電の刃――」
呪文を紡ぎながら剣を振るう。重い一撃を受け止め、逸らす。反撃。焦った太刀筋が敵を逃がす。その繰り返し。
「弾けろ!」
自分がなんの詠唱をしていたのか、もう覚えていなかった。苦し紛れに放った魔弾はしかし転機になる。塊がバチリと弾けて赤い目に命中した。夜がちぎれそうな悲鳴を上げ、異形は足を止める――今しかない。気を集中させて跳び上がる。
「これでどうだ!」
斬撃と雷撃は全身全霊の一撃と化し、敵をまっぷたつに切り分けた。熊のような巨体は黒い霧に還る。黒ずんだ欠片が落ちて一戦が終わった。
立ち止まると、疲れと痛みがどっと蘇る。熱をもちはじめた腕をどうにかして冷やしながら、ウィリアムは途方に暮れた。運が良かった。それだけだ。
(ひとりで戦うって、こういうことなのか)
守備を立てて支えてくれるリンがいない。的確な援護射撃で敵を攪乱するジェシカがいない。前線で背を預けられるユンがいない――単身では、あの強敵と渡り合えるわけがなかったのだ。ちぎれた灰色の雲が星明りを隠す。
そのとき、どこかで羽音がした。咄嗟に辺りを見回すと、鳥にしては大きすぎる影があった。魔物だ。気づいて真っ先に身を隠した。狩るべき相手から逃れてどうする――木の陰でこっそりとため息をつく。
(もしかして、オレって考えなし……?)
今更気づいても遅い。だが、このままたったひとりで戦い続けるのは無理がある。必死に思考をめぐらせて策を探す。ここで終わったらただの馬鹿だ。
(やっぱり、あの力がなければ)
鍵に目をやる。扉を開ける保証はない。けれど今のような戦いを続けて、無事に帰り着ける保証もないのだ。冷たい金色を握り――。
ぞわり。ふっつりと途切れた記憶が扉を遠ざける。また間違えたら、どうなる?
意識がないまま暴れて、仲間を傷つけてしまったら。知らない誰かを標的にしてしまったら。それでは魔物と同じだ。
こみ上げてくるねっとりとした水に呑まれて、ウィリアムは忘れていた。ここは敵地、すぐ傍には赤い眼。気がついたときには、黒い羽ばたきが目の前にあった。
魔物の爪が伸びるような早さで襲いくる。迫る鋭利に身が竦む――その瞬間、ウィリアムはある種の覚悟をした。
(やっぱりオレ、馬鹿だったんだ)
目を瞑った暗黒の中にぼんやりと浮かんだのは、仲間の顔だった。耳を劈く金切り声がして、そして――何も起こらない。
おそるおそる瞼を開けると、切り裂かれた魔鳥が黒い霧となり散っていくところだった。魔力を収めたのは見知った姿。銀の髪、黄金の瞳、きつく引き結んだあてやかな表情――。
「シオン?」
どうしてお前が。呟きにも似た問いは、静寂を取り戻した森によく響いた。彼は答えない。息を整えながらぼんやりと思い出す。半ば確信していたが、この目でとらえたのは初めてだった。彼は本当に夜の魔物を倒していたのだ。
(こんな手ごわいのと戦ってまで、魔力を集めている……)
何のために。胸の奥に固まっていた謎が、今そこにいる彼にふれて融けだす。
「待てよ!」
捕まえた彼は相変わらず無愛想な顔をしていて、ウィリアムはまず放置されなかったことに安堵した。
「お前、いつかもオレのこと無視しただろ」
勢いだけの問いに、シオンは目で答えた。あからさまにうんざりしている。だがそんなことで諦めるウィリアムではない。このままいつものやりとりに入るかと思われたが、しかし歪な咆哮がすべてを塗り替えた。
存在感、敵意、気配――赤い眼光があちらこちらで光る。数体の魔物が二人を取り囲んでいた。
「なあ、これ……なんとかしなきゃいけないんじゃ」
「だろうな」
お世辞にも万全とはいえない状況、けれど背中合わせにいるのは。唇が笑みを描く――やってやる。
振り絞った力で剣に火花を纏わせる。狙うは四つ足の魔物。気合のこもった刃は、残念ながら空を切る。
「避けるんじゃねえよ、全く!」
距離を詰めながら次の手立てを考える。ただ、ウィリアムの視野は狭い。敵は一体だけではないのだ。先刻とよく似た漆黒の熊が死角から迫っていた。目を醒ますような声が飛ぶ。
「後ろだ!」
振り返ってみたものは、狂気と殺意、そして暴力。無理のある体制のまま、右手の剣はやたらゆっくりと弧を描く。
――やられる!
時を引き戻すように、黒い影が躍り出た。間に入ったシオンが魔物の躰を斬りつけたのだ。入れ違いになって、尖った爪がその脚に深々と突き刺さる。
「消えろ」
押し殺した声と同時に、熊の魔物はバラバラに切り刻まれた。地に降り立つと、傷口から溢れた血が赤い跡を残す。あるはずの痛みも意に介さず、シオンは次の魔物に向き直った。
間に彼がいなかったら、あの爪が貫いていたのは。いやな想像が頭の隅をよぎる。
「よそ見をするな、お前の敵はそっちだ」
主張してくる左腕の熱に耐えながら、忠告に従って敵と対峙する。その間にもシオンは着々と黒い霧を集めていた。背中でわかる彼の強さが、ウィリアムを踏み込ませる。
「そこだ!」
翳した抜身の剣が、最後のターゲットを消し去った。
「終わった……」
ウィリアムは脱力した。座り込むと、腰から下が地面に張り付いてもう動けない。沈んでいく身体を樹に預け、ぼんやりとシオンを見やる。
彼は淡々と、けれど乱暴に左脚の傷を血止めしていた。初めて見る手負いの姿。胸の奥がちくりとざわつく。彼一人ならばうまくやっていただろうに……。考えるより先に問いが飛び出た。
「その傷、大丈夫なのか?」
「大した問題じゃない」
痛むのか、平気なのか。こちらを責めるつもりはないのか。シオンの答えはウィリアムの知りたかったことをすべて放り投げていた。
「そう、か」
何度聞いてもきっと返事は変わらない。吐き出したため息の代わりに澄んだ空気を吸い込む。いつのまに雲が晴れたのか、自分の鼓動だけがクリアに聞こえていた。
「なあ」
漆黒の空に点々と瞬く光。静寂を盗むように、二人だけがここで息をしている。なぜだかそれがとても特別な時間に思えて、ウィリアムはどこかに今を繋ぎとめる材料を探した。
「その、ありがとうな。助けてくれて」
「お前は本当に何もわかっていないな」
斬り返した刃の先が首筋にふれる、そんな錯覚に夜が凍りつく。
――何がわかる。
白い街で訊いた声が、頭の中で響きつづけていた。そう、彼は使命のためなら誰を見捨てても構わないのだ。あの日と同じ熱が胸から零れて胃を満たした。
「わかんねえよ。でもオレは傷つけたくない。誰かを守って、助ける強さを目指したいんだ。だから」
仲間が自分にしてくれたように。眼前の少年が自分を庇ったときのように――。
「よりによって、お前がそれを言うのか。何も知らないお前が」
続きを待たず、シオンは絞り出すような声で会話にとどめを刺した。
「弱きものは、強く価値あるもののために消費される。そうであるべきだ」
伸ばした手で結ぼうとした糸はあっけなく断ち切られて行き場を失う。ウィリアムの未来を照らす光は、彼の道にはない。ひんやりとした重いものが五臓六腑を満たし、切り口からどろりと流れ出す。
「どうしてだよ……どうしてそんな、寂しいこと!」
痛みを忘れて立ち上がると、乱暴にその肩を掴む。無理やりに合わせた視線がそれぞれの鍵穴に届くことはなかった。
「同じことを何度も言わせるなと何度言わせるつもりだ」
彼の言葉は、いつもどこか剣に似ている。魔物を捌く切っ先のように鋭く、それでいて一寸の錆びもない。ならばその柄を握るのは何だというのか。
「なんなんだよ、お前の『すべきこと』って。どうしたら、そこまで冷たくなれるんだ」
返事はない。あるはずがない。そんなことはとうに知っている。それでも惹きつけられていく気持ちが言葉を紡がせた。
「お前は、それで誰かを傷つけても痛くないのか? それが仲間や、大切な誰かでも」
ぐるぐるとまわる思考の底から、氷の棘は消えなかった――だからこそ、こんなところまで来てしまったのだ。
渾身の叫びは見えない鎖に阻まれる。突き放されると、それだけでもう立ち上がれなくなった。そのままシオンは背を向けて、ただ一言の答えを落とす。
「俺は、もう誰にも縋らない」
そのときシオンは一度だけ、馴染みのない顔で振り向いた。まるでウィリアムの知らないもの、例えば消える寸前の炎がゆらめくのをじっと見つめているような白いかんばせ。視線だけをのこす黄金の瞳は溶けてしまいそうだった。
あんな揺れた表情をされると、もう放ってはおけない。彼を追いかけようとしたが、限界のほうが早かった。膝から崩れ落ちる。ほどけかけた結び目は、指のあいだをすりぬけていく。ほどなくしてまた、ウィリアムはひとりきりになった。
(じゃあなんで、オレを助けたんだ)
知れば知るほど、聞きたいことが増えていく。彼は本当に自分と違うのか。血に染まった脚は痛まないのか。どうしてそんな顔をするのか。
(あいつは、ひとりで戦っても平気なのか……)
一番確かめたかったのはきっとこれだ。いつか言いかけた問いを今更になって思い出す。
(オレがもっと強かったら、教えてくれたのか)
いつまで経っても彼には及ばない。玉鋼のようなあのしなやかさに、一晩で二度も助けられたのは事実。そしてそれに報いることを、ウィリアムは何もしていない。
――あいつを、どうしたいの?
ふとユンの声が蘇る。雲が晴れた空に告げることはもう決まっていた。
(仲間になりたいんだ)
ひとつひとつの光は弱いが、すべてを結び合わせれば暗闇に道を浮かび上がらせることだって容易い。たとえば、二人で見上げた星のように。
(オレはまだ、そこまで出来た奴じゃないけど。でも)
シオンは強い。ウィリアムと違って光なき道だってひとりで歩んでいけるのだろう。けれど、それでいいのか。喉が渇いたような瞳のきらめきが目に焼き付いて離れなかった。
いつまで取り残されていただろうか。星を探そうと宙を仰ぐと、空の端はもう明るみ始めていた。
(そろそろ戻らないと、心配かけるよな)
頭ではわかっていても、根が生えたように身体が動かない。みるみるうちに夜は空け、 木々の間に朝日が差し込む。世界が照らされる。
そこで、ウィリアムは地面に散らばっているものたちに気づいた。魔物の核。シオンが置き去りにしていった戦果。朝の光を受けて、ある一点が輝く――銀の欠片だ。息を呑んだ。無我夢中で手を伸ばし、掴んだ希望を強く握りしめる。
すべては無駄にはならないのだ。