[5]善か悪か、敵か味方か


 敵は、もはや敵ではなくなった。

 覚醒した力の中で、彼は剣さえ必要としない。右手で宙を払うだけで怪鳥の翼をもぎ取った。左も同様。力のうねりに巻き込まれて、周囲を固めていた獣型の魔物は粉々になる。黒い欠片がばらばらと落ち、静寂が訪れるのにそう時間はかからなかった。
「全部、倒したんだ……」
 そう零したとき、リンは確かに終わったと思った。だが、ウィリアムの様子は依然として変わらない。紫の髪、真紅の瞳、感情が抜け落ちた面差し。果てない魔力がまだそこに在る。

 やがて彼が動いた。次の矛先は、魔物を放った柱の装置だ。乱暴に殴りつけた、その拳から火花が溢れ散る。爆発。巨大なそれを壊して尚、溢れ出す力は止まらない。
「待ってよ! あのティアラって人、追いかけなきゃ」
「無駄よ、もうとっくに逃げられてる。私たちもここを離れたほうがいいかもしれない。あの柱が爆発したんだもの、いまに部屋ごと崩れるわよ」
 ジェシカの言う通り、一刻を争う事態が近づいてきていた。足元が揺らぎ空間が軋む。ウィリアムだけが暴走を続け、今度は壁に並ぶグロテスクなガラス管へと魔弾を放った。
「聞こえてないみたいね」
「伝えなくちゃ。僕が行ってくるよ」
 勝手に言い残すと、リンはそのままよろめきながら歩き出す。
「だめだよ、危ないよ!」
 ただでさえ弱っているというのに、忠告を聞き流して彼は進む。ただ暴れる仲間に、必死に近づいて。
「ウィリアム、早く外へ――」
 衝撃。
 果たして、リンを待っていたのは一撃だった。敵を殲滅したのと同じ、非情な魔の波動。小柄な身体はあっけなく吹き飛ばされて、まるで物のように落ちた。運よく積まれていた紙束に受け止められ、赤いローブは舞う資料の波に埋もれる。

「リン! 大丈夫?」
「うん。へいき、だよ」
 強がって身を起こそうとするが、うまくいかない。なんとか治癒術を働かせ、駆けよったジェシカに支えられてようやく立ち上がれた。そんな仲間の様子を気にも留めず、ウィリアムは破壊を続ける。誰の声も聞かず、誰の姿も見ず。今の彼には暴走という言葉がふさわしかった。
「これ……マズいよ! とにかくウィリアムを止めなきゃ!」
 焦りにかられてユンが駆け出す。が、無慈悲な瞳は反撃を許さない。剣を振り上げた瞬間の僅かで確かな隙を突かれた。埃を払うように自然に迫り、目の前を覆う手。ぎゅんと時間が遅くなる。
 ――やられる!

「いい加減に、しなさい!」
 まっすぐに飛んだ白い矢が、間一髪でユンを救った。清廉なる天使の力はウィリアムの頬に赤い線を刻み、纏っていたものを散らす。魔の気配がようやく消えて、藍色と紫の二色の髪が戻ってきた。

 正気に戻ったウィリアムは一度その場に崩れたが、すぐに意識を取り戻したようだった。揺れる床に手をつき、周囲を見回す。敵に囲まれていたはずなのに。
「あれ、ここは……魔物は!?」
「詳しい話は後よ! まずこの部屋から出て!」
 ぴしゃりと言い放ち、ジェシカはもうひとりの少年を連れて走っていく。目覚めたばかりで未だ事態を呑み込めないままでも凛とした背を追うしかなかった。しばらく呆然としていたユンも三人の後に続き、不気味な大部屋を後にした。

◆◇◆

 我に返ってから最初に感じたのは解放だった。あれほど燻っていた戦意が今はすっきりと鎮まっている。
「それで、魔物はどうなったんだ。あの研究者は?」
ひとつ前の部屋に戻り、ウィリアムはまず尋ねた。やっと戦える、そう思ったときに頭の中で扉が開き、そこから記憶が途切れているのだ。
「魔物は貴方が倒したのよ。全部ね」
 語るジェシカと頷くユンは、二人ともどこかずっと向こうを見ている。
「ティアラって人には逃げられちゃったけど……でも、もう魔物は出てこない」
 呟きをこぼして振り返る。同時に、扉の向こうで轟音がした。張りつめていたものがなだれ落ちる音。装置が壊れたからなのか明かりも消え、しっとりとした薄闇が辺りを包んだ。

「そうか。でもなんで、あんな急いで逃げたんだ?」
 扉が開いたということは、いつかの力の奔流に呑まれたのだろう。その予感はしていたが、覚醒と今の状況とは結びつかなかった。何も知らないウィリアムに対し、ユンは棘を隠そうともしない。
「キミがおっきい柱を壊したからだよ! それであの部屋が崩れちゃったの! 危なかったんだからね。リン君なんて怪我しちゃうし」
 尖ったものを向けられたように、体中がすっと寒くなった。

「け、が?」
 氷の槍が背筋をなぞる。どうして。自分が? リンが? 彼女は何を言っている?
「なんだよ、それ……本当なのか!?」
 当のリンは弱々しく首を横に振っている。二人を見比べて、ジェシカはそっと目を伏せた。
「やっぱり、なにも覚えていないのね。貴方、リンを撥ね飛ばしたのよ」
「オレが、リンを……?」
 首筋を通り過ぎた槍の先が、足元に薄く張る氷を穿った。自分はきっとまだ扉の向こうにいて、闇の中を揺蕩いながら幻を見ているのだ――ざわつく胸にそう言い聞かせる。けれど、相対するユンの語り口には一寸の容赦もない。
「ウィリアムって、たまにすごい力が覚醒するよね。髪の毛がぜんぶ紫になって、目が赤くなって。とっても強くて魔物を倒して、でも何も覚えてない」
「……さっきも、そうだったんだよな」
 逃げ場のない氷上で、そこにある亀裂をまざまざと見せつけられているようだ。現実という大きな力が、彼女の言葉を否が応でも飲み込ませる。

「そうだよ。でも、魔物をやっつけても元に戻らなくて、向こうの部屋もいろいろ壊して、それでリン君も」
 薄氷は割れ、槍は胸をとらえた。切っ先から冷え切ったものがじわじわと沁みこんでくる。唇をうまく動かせないまま、かすれた声で尋ねた。
「本当、なのか」
「ちがうよ。僕が、足手まといなせいだ」
 リンのことだ、本気でそう思っているに違いない。自分を責めたところで既に起きた事実を書き換えられるわけでもないだろうに。

「ごめん。オレ、何も……覚えてなくて」
「大丈夫だよ、痛くないから。もう治したし」
「でも、こんなことになったのはオレのせいだ」
「僕のせいだよ。僕が弱かったのがいけないんだ」
 彼の慰めは何度重ねられても意味を為さない。いっそ貫いてくれればいいものを、薬は生傷にいたく沁みるのだ。
「なんで……なんで、そんなこと」
 誰にも何も聞けず、ただ食い入るように震える両手を見つめる。この手で仲間を傷つけた。かつて切り札だと頼ったはずの、扉の向こうにあるあの力で。
(助けてくれるわけじゃなかったんだ)
どんなに拳を握りしめても、震えは止まるどころか歯までがちがちと音を立てはじめた。
「オレは、いったい……?」
 独り言のような問いに、ユンがさらりと答えた。
「前あったのが『覚醒ウィリアム』だったら、さっきのは『暴走ウィリアム』だね。どうにかできればいいんだけど、本人がコントロールできないものは、どうしようもない……」
 
 照らされることを忘れた室内には、落とされた影の重さだけが残る。閉じ込められたような息苦しさがつのる。原因は、恐らくこの暗い空間だけではない。

「もう、帰りましょう。報告は後にしてゆっくり休むといいわ」
 立ち上がったジェシカは冷静に振る舞ってはいたが、それ以上のことはなにも言わなかった。言えなかった。頭の中で見つけた暖かい言葉も、いざ紡ごうとすると舌の上で乾ききって干からびてしまうのだ。
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