[5]善か悪か、敵か味方か

 響いたのは罵声だった。落ちてきたのは暴力だった。そしてこれは夢だった。夢とは即ち、ウィリアムのなくした記憶だった。
「何か言ってみろや!」
 恰幅のいい男が二人、声を荒げる。視界の端でシェリーが震えている。痛みがからだじゅうを軋ませる。かつての彼には剣も魔法もなかった。ただ肉を引き裂く痛みに呻くしかできない。男は硬い革の靴で少年を何度も踏みつける。
 彼らの裾に敷き詰められた薄い飾り布が、霞む視界をひらひらしていた。毎日ごはんをたらふく食べている、別の世界のひと。ああ、また、かかとが降りてくる。
「やめて! ひどいことしないで!」
 痛みがやってくると思ったとき、シェリーの金切り声が路地裏に響いた。
「あ?」
 ぎろり。暴漢がか弱い少女に、人を殺してしまえそうなほどの視線を向ける。青い瞳にじわじわと浮かぶ涙にも構わずそのまま手を伸ばし――。
「待て」

 さんざん弄ばれた傷は死ぬほど痛かったけれど、身体が勝手に動いていた。必死に立ち上がって、男の足に食らいつく。
「シェリーには、手を、だすな!」
「なんだと? この……生意気な!」
 指輪だらけの手がぼろぼろの布を捨てるように、子供の首根っこを掴んで投げ飛ばす。石の地面に叩きつけられ、ウィリアムは潰れるような声をあげた。男は唾を吐く。
「野垂れ死にするしかないくせによ」
「痛い目見ないとわからないんだろうぜ」
 シェリーがびくりと身震いする。片割れがナイフを取り出す。刃が鈍く光る。かたく目を瞑る。

 そのとき、鼓膜に新しい足音が飛び込んできた。男たちの手が止まる。
「あなたたち――」
 輝く銀の髪、まっすぐな青い瞳。ウィリアムとそう変わらない年の、身なりのいい少女がそこにいた。暴力を巻き散らす男二人を真っ向から睨みつけ、彼らに引けを取らない迫力で叫ぶ。

「何をしているの!」
 声の主は、光の弓を構えたジェシカだった。――ジェシカ?

(ちがう……そんなはずない)
 討伐隊の戦友が、どうして記憶の夢にいる? それに彼女の言葉を受けてへらへらと笑うのは、豪奢な男たちではなくあの仇敵・マルクだ。
「おいおい、なんでこんなとこまで追っかけてこれたんだよ」
「うちには勘のいい子がいるのよ。仲間は返してもらうわ」
 白い矢を放ちながら言い返して、少女は長い睫毛で不敵な笑みを浮かべる。惑わされることなく身を捻る軽薄な男。
「へえ、そりゃまたすごいことで」
「そうなの。わかっちゃうんだよね、こういうの!」
 答えたのはユンだった。振り回した剣から光が溢れ出る。閃光は敵の目を眩ませ、そして混濁する意識をも覚醒させた。
 ――ここは、現実だ!

 気づくと、ウィリアムは土の上に寝かせられていた。荒地のどこかにある洞穴のようだった。でも何故自分が、そして仲間がこんなところに?
「なんだよこれ、どうなってるんだ!」
起き上がろうとして気づく。体が動かない。必死に首を動かして見てみると、四肢がそれぞれ怪しげな柱に縄で縛られていた。
「大丈夫?」
 光の剣が作った隙を縫い、リンは囚われの仲間へと駆け寄る。見たところ大きな怪我をしている様子はないが、だからといって彼を放っておくことはできない。
「じっとしてて、今助けるから」
 ウィリアムを捕らえた仕掛けは、祭壇のようにも見えてとても不気味だった。冷たい足元には、彼を中心に巨大な魔法陣。硬い結び目に苦戦しながら、その異常さに眉を顰める。
(この大がかりな魔法は、いったい……?)

 魔力が練られる気配がする。視界を取り戻したマルクが指で印を結んでいた。
「余計なことすんなよ! 眩しくて目がやられちまうところだった」
「ずっとこんな暗いところにいたら、もちろん眩しいでしょうね」
 ジェシカは涼しい顔で皮肉を飛ばしながらも足を狙って連撃を浴びせている。男は器用なステップで輝く矢を躱し、身体を翻して魔弾を放つ。着地した足元をさらに掬おうと、ユンの剣が宙を薙いだ。

「うろちょろしないでよ、もう!」
 実体のない凶器が飛び交う。手加減のない応酬は、まるで薄暗いステージでダンスを踊っているようにも見えた。手元に意識を戻すと、ようやく最後の縄が地面に落ちた。
「これで全部ほどけたよ、起きられる?」
「さんきゅ、平気だ」

 自由になるや否や、ウィリアムは一気に立ち上がる。思った以上に身体が動いた。岩壁に立てかけてあった剣を迷わず手に取り、息をするくらい自然に力を込める。
「オレにも一発、返させろ!」
 跳び上がって、勢いのまま振り下ろす。今までの何ともちがう手ごたえ。――切っ先が標的をとらえた。肩口から鮮やかな赤が溢れ出て、ようやく敵の動きが止まる。
「なるほど、そんな力が」
 飛び散る血をものともせず、手負いの男は嬉しそうに指を鳴らした。目をぎらつかせて口の端だけをにっと持ち上げる、あの歪な笑い。見極めるかのように、権を握った少年を頭から足までじっくりと眺める。
 その仕草はこちらにとっては逆に警戒するくらい大きな隙だった。徐々に近づいてきていたジェシカが、逃げ場のない至近距離で弓を引く。

「おとなしく投降しなさい。貴方には聞きたいことが山ほどあるの」
 魔法の弦がぎりぎりと軋み、首筋に矢が食い込む。それでもマルクは表情を崩さない。
「ごめんよォ、お断り。ここで捕まるわけには――い、か、な、い、ん、だ、よ」
 語調にあわせて人差し指を振り、余裕を押し付けるようにちゃらけてみせる。束の間、笑う男の輪郭がぶれて、宙に溶けていく。
「なんてったって、これからもっともっと楽しくなるんだから」
 言い終わると、マルクはいやな響きだけを残して消えていってしまった。待ちなさい、と伸ばしたジェシカの細い指は、むなしく空を切った。
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