[5]善か悪か、敵か味方か
空をうつした色の髪。汚れた頬。大きな瞳を潤ませて、彼女はちからなく座り込んだ。からっぽになった腹の虫がひっきりなしに鳴いている。
「おなか、すいた」
折れそうなからだを支えようと肩に置いた手は頼りなく小さい。ウィリアムはそこで気がついた。これは過去で、夢で、記憶なのだ。
「ごはんは、ある……?」
隣の少女――シェリーは、言ったきりうずくまって動かない。表情が見えぬまま、湿った声だけが落とされる。ウィリアムの意識を持って、少年の手は彼女の頬を拭う。
「大丈夫だ」
「でも、きょうは、おにいちゃんもおじょうさまも来ないのよ」
誰にももらえなければ、何も食べられない。そんな世界なのだと言うように少女は膝を抱えた。
「じゃあ今度はオレの番だ」
そう言って、かつてのウィリアムは立ち上がった。わざとらしく頼もしく。
「なにか食べるもの、見つけてきてやるから。それまで待ってろよ」
気づけばその日の夜。二つ目の記憶だ。ぼろぼろの街は暗闇に沈んでいて、なにより身体が重かった。一日中駆け回って、それでもまだ彼女の元へは帰れなかったのだ。
(みつからない)
幼い身体の限界は早く、前に進むのがやっとだ。からからに乾いた喉が、ひゅう、とだけ息の音をたてる。もはや立ってもいられない。それでも諦めきれなかった。
(シェ、リー)
彼女のために。これだけ待たせておいて、何もなかったと言えるだろうか。
(ぜったい、みつけ、ないと……)
そのとき。視界の端でなにかが光った。這うようにして向かうと、そこには水面があった。泥が混ざって濁った、足跡のある水たまり。
――水だ!
幼い少年は、何のためらいもなく口をつけ――。
飛び起きる。まだ窓の向こうに太陽の気配はない。かきあげた前髪は汗でぐっしょりと濡れていた。鼓動はまだ早鐘を打っている。
「なに、してたんだ、オレは」
あれは水ではなく、汚れた水たまりだ。臭いと苦さが舌に残っているようで、急いで洗い流した。
(いくら喉が渇いたからって、あんなもん飲めるのかよ)
顔を洗ったところで、ようやく目が覚めてきた。髪から水の粒を滴らせたままベッドに腰掛ける。わからない。思いきり叫ぼうとして、やめた。隣ではリンが眠っている。近くの部屋だって同じだろう。静けさに包まれた夜明け前、ウィリアムは今ひとりきりだ。いまさら夢の中に帰る気はない。そもそもあれは悪夢でなく記憶なのだ。外の空気に触れたって、逃げられるわけではない。
(どういうことなんだ)
夜に取り残されたまま、思考の海に沈む他にはなかった。
◆◇◆
空っぽの皿、椀、器。あまりにも豪華な朝食は、あっという間に消え失せた。
「ウィリアム、食べ過ぎじゃない? いくらジェシカの料理がおいしいからって」
「腹減ってたんだよ」
「そうだけど」
頷きながら、仲間たちは納得した。ジェシカは料理が得意なのだ。
(お嬢様だから、なんでも知ってるしなんでもできるのかな……)
遠征で明らかになった彼女の生い立ちが、今ではしっくりとはまり込んでくる。天使の力の持ち主として叩き込まれたであろう教養は、今でも息づいている――ただ。
何かがひっかかって、ユンは語る少女の青い目を振り返った。
胸の奥で叫んでいるのは、トラスダンジュで受け止めたジェシカの涙。根拠のない想像だけれど、ユンの思考を捕らえてはなさない。ジェシカとリンの会話が遠ざかっていく。
(ただ、期待通り天使になれなかったから、悪いと思ってる……だけなのかなあ)
ジェシカの葛藤は、あの日あの街で本当に終わったのか。いや、きっと別に理由がある。いやに醒めた直観がこころをざわつかせた。
「ねえウィリアム、ジェシカって……」
語り合う二人の目を盗んで、ユンはもう一人に声をかけた。けれど当のウィリアムは、黙り込んだまま返事がない。
「ウィリアム?」
彼は彼で考えることがあったのだ。食べている間はただ夢中になっていればよかったけれど、終わってしまえばそうもいかない。
(どういうことなんだ)
思い出した記憶が後を引いていた。ため息の後にグラスを傾ける。喉を潤す雫は透き通っている。当たり前だ。当たり前のはずだ。じゃああれは何だ? 何故自分は、泥水を舐めるような窮地に立たされていた? そもそも、何故自分とシェリーには食糧がなかった? 宿は? 家は?
(オレに何がわかるっていうんだ)
似たようなことを言われたばかりだ。まっすぐに刻まれた傷跡がはっきりと目に浮かぶ。シオンが向けてきた、確かな拒絶の刃。自分のことすら理解できないのだから、誰かとわかりあうことなど到底――。
「だああああ、もう! わからねえ!」
「うわっ!?」
目の前で叫ばれ、ユンは飛び上がった。集めてしまった視線を、なんでもないと振りほどく。跳ねた帽子を押さえながら、黒髪の少女だけが食らいついた。
「びっくりした。珍しく考え込んでるんだね」
「おいおい、珍しくってなんだよ」
脱力するウィリアムをよそに、ユンは顎に手をあてる。
「記憶のこと? それとも、またシオンと何かあった、とか?」
図星だ。わざわざ送る気にもなれなかった肯定は、ため息になって漏れ出ていった。
「オレ、どうすればいいんだろう。オレのこともあいつのことも、全部わからなくなってきたんだ」
弱気な様子にも、ユンはいつものままだ。それが当然だと真実を突きつける。
「キミのことは、もう考えたってわかることじゃないよ。けど銀の欠片さえあれば思い出せるんだ。問題は、どうしようもないあいつのことでしょ」
「そうだけど」
いつからか、どうしてかユンはシオンに厳しく、まるで敵の話をしているようにさえ見えてくる。漆黒の目を覆う透明な膜に阻まれて、つい俯いてしまう。ユンは容赦なく続ける。
「あいつを、どうしたいの?」
ぱちん。はじけたように靄が晴れた。そう、言いたくて、言えなかったことがいくつもあった。瞼の裏に浮かぶ姿は、いつだってはっきりとした輪郭をもって答えてくる。
「近づきたいんだと、思う。もっと」
もっと彼と渡り合える実力があれば。あるいは、全身でぶつかる以外に手段があれば。
(わかりあえるかもしれない。諦めたくない。けど)
使命のためなら、彼はどんなものでも容易く犠牲にする。シオンの思惑は自分や仲間たちとは違うのだ。その証拠に、何度手を伸ばしても、ウィリアムの想いが彼の内側に届くことはない。
「どうすればいいんだ」
「あいつ、キミが思うほど難しいヒトじゃないと思うんだけどな」
目を丸くする。理由を聞いてみても、今はいいやと躱された。こちらとしては、それではよくないのに!
「そういえば、シュウさんが呼んでたよ」
思いがけず、立ち上がることを余儀なくされた。彼が呼んでいるとあれば、三番隊に対する連絡で間違いないだろう。それも、きっと重大な。
「じゃあオレが行かなきゃだな。ジェシカ、料理おいしかったぜ。ありがとう」
「どういたしまして」
ふわりと咲いた笑顔に、心が暖かくなった。彼女が腕を奮って作った品々は、それはもうたまらなく美味しかったのだ。それこそ、永遠に覚えていたいほど。
「ボクも行くよ。ごちそうさまでした!」
「また作るわね」
「いってらっしゃい」
変わらないやりとりに思わず目を細める。立ち込めた霧の中でも前に進める理由があるとしたら、それはきっと傍にいてくれる仲間たちなのだろう。
「おなか、すいた」
折れそうなからだを支えようと肩に置いた手は頼りなく小さい。ウィリアムはそこで気がついた。これは過去で、夢で、記憶なのだ。
「ごはんは、ある……?」
隣の少女――シェリーは、言ったきりうずくまって動かない。表情が見えぬまま、湿った声だけが落とされる。ウィリアムの意識を持って、少年の手は彼女の頬を拭う。
「大丈夫だ」
「でも、きょうは、おにいちゃんもおじょうさまも来ないのよ」
誰にももらえなければ、何も食べられない。そんな世界なのだと言うように少女は膝を抱えた。
「じゃあ今度はオレの番だ」
そう言って、かつてのウィリアムは立ち上がった。わざとらしく頼もしく。
「なにか食べるもの、見つけてきてやるから。それまで待ってろよ」
気づけばその日の夜。二つ目の記憶だ。ぼろぼろの街は暗闇に沈んでいて、なにより身体が重かった。一日中駆け回って、それでもまだ彼女の元へは帰れなかったのだ。
(みつからない)
幼い身体の限界は早く、前に進むのがやっとだ。からからに乾いた喉が、ひゅう、とだけ息の音をたてる。もはや立ってもいられない。それでも諦めきれなかった。
(シェ、リー)
彼女のために。これだけ待たせておいて、何もなかったと言えるだろうか。
(ぜったい、みつけ、ないと……)
そのとき。視界の端でなにかが光った。這うようにして向かうと、そこには水面があった。泥が混ざって濁った、足跡のある水たまり。
――水だ!
幼い少年は、何のためらいもなく口をつけ――。
飛び起きる。まだ窓の向こうに太陽の気配はない。かきあげた前髪は汗でぐっしょりと濡れていた。鼓動はまだ早鐘を打っている。
「なに、してたんだ、オレは」
あれは水ではなく、汚れた水たまりだ。臭いと苦さが舌に残っているようで、急いで洗い流した。
(いくら喉が渇いたからって、あんなもん飲めるのかよ)
顔を洗ったところで、ようやく目が覚めてきた。髪から水の粒を滴らせたままベッドに腰掛ける。わからない。思いきり叫ぼうとして、やめた。隣ではリンが眠っている。近くの部屋だって同じだろう。静けさに包まれた夜明け前、ウィリアムは今ひとりきりだ。いまさら夢の中に帰る気はない。そもそもあれは悪夢でなく記憶なのだ。外の空気に触れたって、逃げられるわけではない。
(どういうことなんだ)
夜に取り残されたまま、思考の海に沈む他にはなかった。
◆◇◆
空っぽの皿、椀、器。あまりにも豪華な朝食は、あっという間に消え失せた。
「ウィリアム、食べ過ぎじゃない? いくらジェシカの料理がおいしいからって」
「腹減ってたんだよ」
「そうだけど」
頷きながら、仲間たちは納得した。ジェシカは料理が得意なのだ。
(お嬢様だから、なんでも知ってるしなんでもできるのかな……)
遠征で明らかになった彼女の生い立ちが、今ではしっくりとはまり込んでくる。天使の力の持ち主として叩き込まれたであろう教養は、今でも息づいている――ただ。
何かがひっかかって、ユンは語る少女の青い目を振り返った。
胸の奥で叫んでいるのは、トラスダンジュで受け止めたジェシカの涙。根拠のない想像だけれど、ユンの思考を捕らえてはなさない。ジェシカとリンの会話が遠ざかっていく。
(ただ、期待通り天使になれなかったから、悪いと思ってる……だけなのかなあ)
ジェシカの葛藤は、あの日あの街で本当に終わったのか。いや、きっと別に理由がある。いやに醒めた直観がこころをざわつかせた。
「ねえウィリアム、ジェシカって……」
語り合う二人の目を盗んで、ユンはもう一人に声をかけた。けれど当のウィリアムは、黙り込んだまま返事がない。
「ウィリアム?」
彼は彼で考えることがあったのだ。食べている間はただ夢中になっていればよかったけれど、終わってしまえばそうもいかない。
(どういうことなんだ)
思い出した記憶が後を引いていた。ため息の後にグラスを傾ける。喉を潤す雫は透き通っている。当たり前だ。当たり前のはずだ。じゃああれは何だ? 何故自分は、泥水を舐めるような窮地に立たされていた? そもそも、何故自分とシェリーには食糧がなかった? 宿は? 家は?
(オレに何がわかるっていうんだ)
似たようなことを言われたばかりだ。まっすぐに刻まれた傷跡がはっきりと目に浮かぶ。シオンが向けてきた、確かな拒絶の刃。自分のことすら理解できないのだから、誰かとわかりあうことなど到底――。
「だああああ、もう! わからねえ!」
「うわっ!?」
目の前で叫ばれ、ユンは飛び上がった。集めてしまった視線を、なんでもないと振りほどく。跳ねた帽子を押さえながら、黒髪の少女だけが食らいついた。
「びっくりした。珍しく考え込んでるんだね」
「おいおい、珍しくってなんだよ」
脱力するウィリアムをよそに、ユンは顎に手をあてる。
「記憶のこと? それとも、またシオンと何かあった、とか?」
図星だ。わざわざ送る気にもなれなかった肯定は、ため息になって漏れ出ていった。
「オレ、どうすればいいんだろう。オレのこともあいつのことも、全部わからなくなってきたんだ」
弱気な様子にも、ユンはいつものままだ。それが当然だと真実を突きつける。
「キミのことは、もう考えたってわかることじゃないよ。けど銀の欠片さえあれば思い出せるんだ。問題は、どうしようもないあいつのことでしょ」
「そうだけど」
いつからか、どうしてかユンはシオンに厳しく、まるで敵の話をしているようにさえ見えてくる。漆黒の目を覆う透明な膜に阻まれて、つい俯いてしまう。ユンは容赦なく続ける。
「あいつを、どうしたいの?」
ぱちん。はじけたように靄が晴れた。そう、言いたくて、言えなかったことがいくつもあった。瞼の裏に浮かぶ姿は、いつだってはっきりとした輪郭をもって答えてくる。
「近づきたいんだと、思う。もっと」
もっと彼と渡り合える実力があれば。あるいは、全身でぶつかる以外に手段があれば。
(わかりあえるかもしれない。諦めたくない。けど)
使命のためなら、彼はどんなものでも容易く犠牲にする。シオンの思惑は自分や仲間たちとは違うのだ。その証拠に、何度手を伸ばしても、ウィリアムの想いが彼の内側に届くことはない。
「どうすればいいんだ」
「あいつ、キミが思うほど難しいヒトじゃないと思うんだけどな」
目を丸くする。理由を聞いてみても、今はいいやと躱された。こちらとしては、それではよくないのに!
「そういえば、シュウさんが呼んでたよ」
思いがけず、立ち上がることを余儀なくされた。彼が呼んでいるとあれば、三番隊に対する連絡で間違いないだろう。それも、きっと重大な。
「じゃあオレが行かなきゃだな。ジェシカ、料理おいしかったぜ。ありがとう」
「どういたしまして」
ふわりと咲いた笑顔に、心が暖かくなった。彼女が腕を奮って作った品々は、それはもうたまらなく美味しかったのだ。それこそ、永遠に覚えていたいほど。
「ボクも行くよ。ごちそうさまでした!」
「また作るわね」
「いってらっしゃい」
変わらないやりとりに思わず目を細める。立ち込めた霧の中でも前に進める理由があるとしたら、それはきっと傍にいてくれる仲間たちなのだろう。