[4]トラスダンジュ
ようやく立ち止まると、そこは白い建物が立ち並ぶ、間の小さな道だった。やたら人が少ないのは、魔物が襲ってきていたからだろう。純白の街、二人分の影は絵のように馴染んだ。
「……隠さなくてもよかったのに」
本当のことしか言わないユンは、余計にそう思うだろう。彼女の目はいつだって真実を求め、見抜いている。わざわざ告げることもないかもしれない。けれど、言葉にしなくては。きっとそのために、ユンはジェシカをここに連れてきたのだから。
「逃げてきたのよ。わたし」
唇が震えてうまく話せない。それでもユンは、素直に言葉を待っていてくれた。ジェシカを受け止める黒い瞳は、揺らがない。
「わたしね、みんなが笑顔で暮らせる世界がほしかった。でもお父様は、それを望まなかったの。弱い誰かに手を貸すたびに、叱られた」
そのたびに、父は偽善だといって、あの眼をぶつけたのだ。
「高みに昇ることだけ考えればいいと言われた。それじゃあ誰も笑顔にできないのに。お父様は、私に高潔で完全な天使になってほしかったのよ。……家のために。だから天使になりさえすれば、お父様は話を聞いてくれると思ってたの。でも」
描いていた展望は、現実にはならなかった。そして父は、劣った者に接したせいだと、責めたのだ。
「わたしは、今度こそ理想の私になりたかったの。完璧で頼られて、みんなを助けられる人に。……勝手よね」
どこかで、過去を振り切るために戦っていたのかもしれない。それこそ偽善だと言われても仕方がないくらいには。目を伏せて、長い指で前髪をさらう。
「なんて、こんなこと知られたら、頼れるジェシカじゃなくなっちゃうわ」
魔法が使えて、冷静で、頼れるみんなのまとめ役。討伐隊のジェシカはそういう少女だった。けれど本当はどうだろう? 恐る恐る視線をおとす。それまで一言も口を挟まなかったユンが、ふっと笑った。
「いいよ。頼れなくても、天使じゃなくてもいい」
でも、と出かかった反論は、漆黒に押し返される。今度は、ジェシカが静まる番だった。
「言ったよね、ずっとキミの手を放さないって。みんなだってそうだ。キミにいなくなれなんて思わないよ」
どうしてそんなことが言えるの? 問いを紡ごうとした唇のふるえに、瞳のゆらぎに、声を待つことなくユンは答える。
「だって、キミのことが大好きだから」
その一言で、抱え続けていた葛藤も、固めようとしていた偽りも、瞼の裏にのこる父の眼光も――すべてが無意味になった。もはや扉を閉ざす理由などなく、抑え込んでいたものがごちゃまぜになって、わけのわからない涙が込み上げてくる。
「ごめんなさい。しばらく、動かないでもらっていいかしら」
「大丈夫だよ」
返す響きには、いつもの無邪気さや幼さが残っている。けれど今は、滲む視界の中で彼女がずっと大きく見える。その胸にすべてを預けると、まるで枝葉を広げる大樹のぬくもりに包まれているようだった。
吹き抜ける風が心地いい。顔を上げると、まっさきに微笑むユンと目があった。
この瞳が、何もかも洗い流してくれた。つくりものでない純粋が、眩しい。胸いっぱいに吸い込んだ空気は、びっくりするほど澄み渡っていた。
「行きましょうか。ケリーに会いに」
「いいの?」
「ええ。ちゃんとお話しなくちゃ。ついてきてくれる?」
「もちろん!」
照らし出される道を並んで歩くのは、戦士でも貴族でもない、単なる二人の少女だった。
思った通り、ケリーは既にリュミエーラ家の邸宅に戻っていたようだ。やさしさに欠けた、凄味のある門。あの荘厳さが、昔から嫌いだった。
「変わってないのね。ここは」
けれど、とジェシカは視線を伸ばす。ちらり。隣にはいま、大切な仲間がいる。――私は、変わった。
(でも、他の誰かに気づかれやしないかしら。お父様と鉢合わせでもしたら)
「メイドさーん!」
躊躇う間もなく、ユンが先手を打った。この少女にこう呼ばれて振り向くのは、先程会っていたケリーだけだ。思わぬ客の訪れに、召使いの娘は目を丸くする。
「――お嬢様!」
「さっきは取り乱してしまってごめんなさい。私は元気にやってるわ。そう伝えたくて」
すこし上ずった声でも、こころは届いたようだ。ケリーは穏やかに迎えてくれた。
「きっと来てくれると思ってましたわ。これを渡したくて、待っていたんですの」
両手で差し出されたのは、厚みのある本だった。古びた革の表紙にある文字は、ユンには読めないものだった。
「お嬢様が、ここで使っていた魔導書です。魔物との戦いに役立つと思って」
「ありがとう。受け取っておくわ」
慣れた相手に見せる自然な顔。ジェシカはかつてここで、魔術の腕を磨いていたのだろう。その成果が、ケリーを救った純白の矢――。
「ねえ、あの弓って、シルヴィがここで使っていた魔法なの?」
「必殺技みたいなものだったわ。といっても、戦っていたわけじゃないけど」
「魔法のお勉強か。いいなあ、教えてもらえて」
落ちることばとは逆に、ユンの目は虚空を映していた。それも一瞬のこと。微笑んで礼を返すと、ジェシカは思い切って、ケリーを正面から見つめた。
「あの、ケリー。他のみんなには、秘密にしてほしいの。家の人にも――お父様にも」
「わかりましたわ。でも、その……代わりに、お手紙を出してもいいでしょうか。私を助けてくれた、討伐隊のジェシカさんに」
「ええ、是非。待ってるわ、ケリー」
頬をピンク色にして返したまなざしに、彼女の本当のうつくしさがあった。
「……隠さなくてもよかったのに」
本当のことしか言わないユンは、余計にそう思うだろう。彼女の目はいつだって真実を求め、見抜いている。わざわざ告げることもないかもしれない。けれど、言葉にしなくては。きっとそのために、ユンはジェシカをここに連れてきたのだから。
「逃げてきたのよ。わたし」
唇が震えてうまく話せない。それでもユンは、素直に言葉を待っていてくれた。ジェシカを受け止める黒い瞳は、揺らがない。
「わたしね、みんなが笑顔で暮らせる世界がほしかった。でもお父様は、それを望まなかったの。弱い誰かに手を貸すたびに、叱られた」
そのたびに、父は偽善だといって、あの眼をぶつけたのだ。
「高みに昇ることだけ考えればいいと言われた。それじゃあ誰も笑顔にできないのに。お父様は、私に高潔で完全な天使になってほしかったのよ。……家のために。だから天使になりさえすれば、お父様は話を聞いてくれると思ってたの。でも」
描いていた展望は、現実にはならなかった。そして父は、劣った者に接したせいだと、責めたのだ。
「わたしは、今度こそ理想の私になりたかったの。完璧で頼られて、みんなを助けられる人に。……勝手よね」
どこかで、過去を振り切るために戦っていたのかもしれない。それこそ偽善だと言われても仕方がないくらいには。目を伏せて、長い指で前髪をさらう。
「なんて、こんなこと知られたら、頼れるジェシカじゃなくなっちゃうわ」
魔法が使えて、冷静で、頼れるみんなのまとめ役。討伐隊のジェシカはそういう少女だった。けれど本当はどうだろう? 恐る恐る視線をおとす。それまで一言も口を挟まなかったユンが、ふっと笑った。
「いいよ。頼れなくても、天使じゃなくてもいい」
でも、と出かかった反論は、漆黒に押し返される。今度は、ジェシカが静まる番だった。
「言ったよね、ずっとキミの手を放さないって。みんなだってそうだ。キミにいなくなれなんて思わないよ」
どうしてそんなことが言えるの? 問いを紡ごうとした唇のふるえに、瞳のゆらぎに、声を待つことなくユンは答える。
「だって、キミのことが大好きだから」
その一言で、抱え続けていた葛藤も、固めようとしていた偽りも、瞼の裏にのこる父の眼光も――すべてが無意味になった。もはや扉を閉ざす理由などなく、抑え込んでいたものがごちゃまぜになって、わけのわからない涙が込み上げてくる。
「ごめんなさい。しばらく、動かないでもらっていいかしら」
「大丈夫だよ」
返す響きには、いつもの無邪気さや幼さが残っている。けれど今は、滲む視界の中で彼女がずっと大きく見える。その胸にすべてを預けると、まるで枝葉を広げる大樹のぬくもりに包まれているようだった。
吹き抜ける風が心地いい。顔を上げると、まっさきに微笑むユンと目があった。
この瞳が、何もかも洗い流してくれた。つくりものでない純粋が、眩しい。胸いっぱいに吸い込んだ空気は、びっくりするほど澄み渡っていた。
「行きましょうか。ケリーに会いに」
「いいの?」
「ええ。ちゃんとお話しなくちゃ。ついてきてくれる?」
「もちろん!」
照らし出される道を並んで歩くのは、戦士でも貴族でもない、単なる二人の少女だった。
思った通り、ケリーは既にリュミエーラ家の邸宅に戻っていたようだ。やさしさに欠けた、凄味のある門。あの荘厳さが、昔から嫌いだった。
「変わってないのね。ここは」
けれど、とジェシカは視線を伸ばす。ちらり。隣にはいま、大切な仲間がいる。――私は、変わった。
(でも、他の誰かに気づかれやしないかしら。お父様と鉢合わせでもしたら)
「メイドさーん!」
躊躇う間もなく、ユンが先手を打った。この少女にこう呼ばれて振り向くのは、先程会っていたケリーだけだ。思わぬ客の訪れに、召使いの娘は目を丸くする。
「――お嬢様!」
「さっきは取り乱してしまってごめんなさい。私は元気にやってるわ。そう伝えたくて」
すこし上ずった声でも、こころは届いたようだ。ケリーは穏やかに迎えてくれた。
「きっと来てくれると思ってましたわ。これを渡したくて、待っていたんですの」
両手で差し出されたのは、厚みのある本だった。古びた革の表紙にある文字は、ユンには読めないものだった。
「お嬢様が、ここで使っていた魔導書です。魔物との戦いに役立つと思って」
「ありがとう。受け取っておくわ」
慣れた相手に見せる自然な顔。ジェシカはかつてここで、魔術の腕を磨いていたのだろう。その成果が、ケリーを救った純白の矢――。
「ねえ、あの弓って、シルヴィがここで使っていた魔法なの?」
「必殺技みたいなものだったわ。といっても、戦っていたわけじゃないけど」
「魔法のお勉強か。いいなあ、教えてもらえて」
落ちることばとは逆に、ユンの目は虚空を映していた。それも一瞬のこと。微笑んで礼を返すと、ジェシカは思い切って、ケリーを正面から見つめた。
「あの、ケリー。他のみんなには、秘密にしてほしいの。家の人にも――お父様にも」
「わかりましたわ。でも、その……代わりに、お手紙を出してもいいでしょうか。私を助けてくれた、討伐隊のジェシカさんに」
「ええ、是非。待ってるわ、ケリー」
頬をピンク色にして返したまなざしに、彼女の本当のうつくしさがあった。