[4]トラスダンジュ
ジェシカはひたすらに、知り尽くした道を疾走していた。
一生分走った。そんな気がした。いつもより身体が重いのは、髪がほどけていたから? 胸が痛いのは、乾いた空気のせい? どっちも、ちがう。
からだを突き動かしていた感情の糸が切れ、力が余ってよろめく。自然と足が止まると、ジェシカは人気のない街のはずれにいた。嗚呼、もうなにもない。白い街の端にある、黒く汚れた掃き溜めのようなところ。かつて通い詰めていた、懐かしい場所だったのに。
――いつまで偽善を続けるつもりだ?
蘇る、低い声。
(だから、知られたくなかった、のよ……)
ここで生きていたこと。一身に背負った期待を、裏切ったこと。討伐隊に行かなくても、戦う力を持ち得ていたことも。天使の地位があれば、もっと多くの人を救えたかもしれない立場にいたこと。
あの矢を使うつもりはなかった。けれど誰かを助けるため、咄嗟に縋った手段はそれだった。父の厳しい目が、まだこっちを見ている。結局自分は、白い屋敷で暮らすシルヴィのままなのだ。
「聞いてたぜ、おじょーさま」
振ってくる声に、胸が止まった。ぎゅんと引き寄せた視界の中心で、あのふざけた男が笑っている。
「盗み聞きは得意でね。父親の面子を守るために家を出て地位も捨てたなんて。いい娘サンだこと」
訊かれてもいないのに、べらべらと喋り出すマルク。剥き出しの歯が不気味に光る。ふつふつとこみ上げてくる黒く湿った感情を抑えつけ、ジェシカはただ男をねめつける。
(私はジェシカ。人々のために魔物を倒す、討伐隊の一員よ!)
民を守るのがジェシカの正義だった。例えこの街が、かつて自分を追い出した故郷であっても。そして、自分の正体を知られていようがいまいが、この男が敵であることには変わらないのだ。
「魔物を呼び出したのはあなたね」
「ご名答。こいつを使えば、圧縮した魔物たちを持ち運べるのさ。姐さんの新発明、特別に頂いたわけよ」
キューブ状の魔を見せつけながら、ふざけた態度も崩さない。そしてマルクは悪意を振りまくことも忘れない。
「にしても、金持ちの娘が討伐隊で暮らしながら魔物退治ねえ。さぞかし評判だろうぜ、偽善者だって」
「そ、れは」
突きつけられた言葉が、地面を泥沼に変えた。沈んでいく錯覚が、リアルに身体を飲み込みかける。固まるジェシカを見て取り、悪党はぱきりと首の骨を鳴らす。
「少し遊ぼうぜ。賢者は来ないし、ヒラメキも観れなかったし、このままじゃつまんないんだ」
「ならとっとと消えろ」
芯のある声が、せかいを唐突に切り裂いた。火花の如くマルクは振り向く。そこにいたのは、逆光を照り返す剣を携えたシオンだった。まっすぐに見据える黄金の瞳に、いつかのような動揺の色はない。
「おやぁ? シオンの坊や、やる気かい? もう怖がってくれないんだな、寂しい」
わざとらしい口ぶりで、マルクは歪んだ笑みを描く。対するシオンは害意を寄せ付けない。
「口が軽いのは相変わらずだな。手口も目的も明かして、まだ喋り足りないか?」
「厳しいねえ。もしかしてご機嫌ナナメ?」
「そうだな、斜めを通り越して一回転したところだ。マルク、ここにお前の望むものはない。これ以上魔物を暴れさせるようなら、容赦はしない」
向けられた切っ先に、睨んでくる目に、マルクはうっとりと見入った。
「そんなこと言われたら、逆にやっちまいたくなるよなぁ」
「やってみればいい。力の無駄遣いになるだけだろうが」
行動が、そのまま挑発への返事となった。解放の呪文を唱えると共に、放り投げた立方体は暗黒へと変貌する。翼の魔物が三体と、巨大な人型の魔物。ジェシカが身構え、マルクが得意げに首を回したときには、
「それだけか」
もう終わっていた。一閃が全てを切り裂いたのだ。魔力を回収し、一人となった敵を見上げるシオンの目はどこまでも鋭い。
「まだやるのか?」
じりじりと、向けた視線の意図が読めない。煌めきを残す刃はマルクを捕えている。
「やめとくか」
「それは残念だ」
またな、と言い残して、マルクの姿は消えていく。シオンは黙ったままだ。ジェシカはひとり、置いて行かれた気になっていた。ここでことばを交わす理由はない。けれど、だからといって、この静寂からどう去っていけばいい?
「ジェシカ!」
現実は、黒髪の少女が連れてきた。ぱたぱたと揺れる胸元のリボン。あのユンが、迷うことなくここに来た。大切な人のもとに、まっすぐに辿りついたのだった。
「こっちだよ」
ユンは何のためらいもなくジェシカの手を握った。壊さないように優しく、そして強く。シオンが残す苦い空間から彼女を引き剥がして、白い街へと駆けていく。捨てた故郷へと、シルヴィを連れ戻しに。
「ちょっと待って、ユン、はなして」
「いやだ。ボクはキミをずっとはなさない」
ざわめきの残る通りを抜けて闇雲に歩く。どうして表情を見せてくれないのだろう。帽子を飾るピンクのリボンが、視界で繰り返し跳ねていた。
風景が流れていく間、合間を縫ってことばが届く。
「ジェシカは偽善者じゃない」
ふたりにしか聞こえないように、忍ばせたひとこと。やわらかな声は、閉ざした扉を開きかける。抑え込みながらわけを聞こうとした、その問いも先取りされる。
「さっき。偽善だと言われたときが、一番つらそうだったよ」
いつから見ていたのだろうか、マルクとのやりとりを彼女は聞いていたのだ。そして零れたひとかけらから、染み込ませたようにすべてを読みこんでしまう。きっと、吸い込まれるほどの深みを湛えたあの瞳で。けれど、どうしてか、もうわずかな恐怖すら感じなかった。
一生分走った。そんな気がした。いつもより身体が重いのは、髪がほどけていたから? 胸が痛いのは、乾いた空気のせい? どっちも、ちがう。
からだを突き動かしていた感情の糸が切れ、力が余ってよろめく。自然と足が止まると、ジェシカは人気のない街のはずれにいた。嗚呼、もうなにもない。白い街の端にある、黒く汚れた掃き溜めのようなところ。かつて通い詰めていた、懐かしい場所だったのに。
――いつまで偽善を続けるつもりだ?
蘇る、低い声。
(だから、知られたくなかった、のよ……)
ここで生きていたこと。一身に背負った期待を、裏切ったこと。討伐隊に行かなくても、戦う力を持ち得ていたことも。天使の地位があれば、もっと多くの人を救えたかもしれない立場にいたこと。
あの矢を使うつもりはなかった。けれど誰かを助けるため、咄嗟に縋った手段はそれだった。父の厳しい目が、まだこっちを見ている。結局自分は、白い屋敷で暮らすシルヴィのままなのだ。
「聞いてたぜ、おじょーさま」
振ってくる声に、胸が止まった。ぎゅんと引き寄せた視界の中心で、あのふざけた男が笑っている。
「盗み聞きは得意でね。父親の面子を守るために家を出て地位も捨てたなんて。いい娘サンだこと」
訊かれてもいないのに、べらべらと喋り出すマルク。剥き出しの歯が不気味に光る。ふつふつとこみ上げてくる黒く湿った感情を抑えつけ、ジェシカはただ男をねめつける。
(私はジェシカ。人々のために魔物を倒す、討伐隊の一員よ!)
民を守るのがジェシカの正義だった。例えこの街が、かつて自分を追い出した故郷であっても。そして、自分の正体を知られていようがいまいが、この男が敵であることには変わらないのだ。
「魔物を呼び出したのはあなたね」
「ご名答。こいつを使えば、圧縮した魔物たちを持ち運べるのさ。姐さんの新発明、特別に頂いたわけよ」
キューブ状の魔を見せつけながら、ふざけた態度も崩さない。そしてマルクは悪意を振りまくことも忘れない。
「にしても、金持ちの娘が討伐隊で暮らしながら魔物退治ねえ。さぞかし評判だろうぜ、偽善者だって」
「そ、れは」
突きつけられた言葉が、地面を泥沼に変えた。沈んでいく錯覚が、リアルに身体を飲み込みかける。固まるジェシカを見て取り、悪党はぱきりと首の骨を鳴らす。
「少し遊ぼうぜ。賢者は来ないし、ヒラメキも観れなかったし、このままじゃつまんないんだ」
「ならとっとと消えろ」
芯のある声が、せかいを唐突に切り裂いた。火花の如くマルクは振り向く。そこにいたのは、逆光を照り返す剣を携えたシオンだった。まっすぐに見据える黄金の瞳に、いつかのような動揺の色はない。
「おやぁ? シオンの坊や、やる気かい? もう怖がってくれないんだな、寂しい」
わざとらしい口ぶりで、マルクは歪んだ笑みを描く。対するシオンは害意を寄せ付けない。
「口が軽いのは相変わらずだな。手口も目的も明かして、まだ喋り足りないか?」
「厳しいねえ。もしかしてご機嫌ナナメ?」
「そうだな、斜めを通り越して一回転したところだ。マルク、ここにお前の望むものはない。これ以上魔物を暴れさせるようなら、容赦はしない」
向けられた切っ先に、睨んでくる目に、マルクはうっとりと見入った。
「そんなこと言われたら、逆にやっちまいたくなるよなぁ」
「やってみればいい。力の無駄遣いになるだけだろうが」
行動が、そのまま挑発への返事となった。解放の呪文を唱えると共に、放り投げた立方体は暗黒へと変貌する。翼の魔物が三体と、巨大な人型の魔物。ジェシカが身構え、マルクが得意げに首を回したときには、
「それだけか」
もう終わっていた。一閃が全てを切り裂いたのだ。魔力を回収し、一人となった敵を見上げるシオンの目はどこまでも鋭い。
「まだやるのか?」
じりじりと、向けた視線の意図が読めない。煌めきを残す刃はマルクを捕えている。
「やめとくか」
「それは残念だ」
またな、と言い残して、マルクの姿は消えていく。シオンは黙ったままだ。ジェシカはひとり、置いて行かれた気になっていた。ここでことばを交わす理由はない。けれど、だからといって、この静寂からどう去っていけばいい?
「ジェシカ!」
現実は、黒髪の少女が連れてきた。ぱたぱたと揺れる胸元のリボン。あのユンが、迷うことなくここに来た。大切な人のもとに、まっすぐに辿りついたのだった。
「こっちだよ」
ユンは何のためらいもなくジェシカの手を握った。壊さないように優しく、そして強く。シオンが残す苦い空間から彼女を引き剥がして、白い街へと駆けていく。捨てた故郷へと、シルヴィを連れ戻しに。
「ちょっと待って、ユン、はなして」
「いやだ。ボクはキミをずっとはなさない」
ざわめきの残る通りを抜けて闇雲に歩く。どうして表情を見せてくれないのだろう。帽子を飾るピンクのリボンが、視界で繰り返し跳ねていた。
風景が流れていく間、合間を縫ってことばが届く。
「ジェシカは偽善者じゃない」
ふたりにしか聞こえないように、忍ばせたひとこと。やわらかな声は、閉ざした扉を開きかける。抑え込みながらわけを聞こうとした、その問いも先取りされる。
「さっき。偽善だと言われたときが、一番つらそうだったよ」
いつから見ていたのだろうか、マルクとのやりとりを彼女は聞いていたのだ。そして零れたひとかけらから、染み込ませたようにすべてを読みこんでしまう。きっと、吸い込まれるほどの深みを湛えたあの瞳で。けれど、どうしてか、もうわずかな恐怖すら感じなかった。