[4]トラスダンジュ
リンが魔物の再来に気がつく少し前。ウィリアムはというと、ただ走っていた。見つけたのはシオンの背中。次の瞬間には体が勝手に動き出し、今に至る。
「おい!」
一直線に彼を追いかけて、声をぶつけてようやく、黄金の瞳はこちらに向いた。
「どこ行くんだよ! 魔物はさっき倒したろ」
「まだだ」
返された鋭さは、戦っているときのそれだ。彼はまだ警戒を解いていない。
「わかっている、マルクだろう。奴は一度じゃ手を緩めない。またすぐ魔物を呼ぶはずだ」
彼の言葉が真実なら、と思うと拳に力が篭った。だが、その根拠は未知数だ。シオンも、マルクもついていけない事実をウィリアムのもとに置いていく。
「戦うなら構えろ、来るぞ」
禁断の箱を開けたように溢れ出す邪悪。シオンに合わせて、ウィリアムも切り替えざるを得なかった。脅威の群れは、告げようとしていた事実をも押し流してしまう。迎撃。数多い敵をものともせず、シオンはひたすらに四肢を、翼を切り捨て、魔物を魔力に変えていく。黒い霧を集め、舞うように剣を振るう。
(やっぱり、あいつは強い)
自分だって、と構え直したときだった。
「ぐわっ、く、来るなああ!」
大声に振り向くと、大柄な男が倒れている。白い地面に広がる血。鳥型の魔物が男の肉を啄んでいた。
「この! 離れろ!」
何度も蹴りつけるが、武装も魔法もない男の攻撃などたかが知れている。
「大丈夫か!」
決して大丈夫ではない。が、他に言えることがなかった。駆けだしたが、四足の魔物に阻まれる。獣の姿をした脅威は、お前の相手はこっちだ、とでも言いたげに唸る。その間にも、怒号だったものは恐れに染まり、言葉にならない悲鳴に変わっていく。
「う、う、ああああ」
――斬撃。シオンの剣が、鳥の首を落とす。一刀両断。凶器の嘴は消え去っていく。思わずウィリアムは胸を撫で下ろした。男は縋る。
「き、君! 助けてくれ、動けないんだ。こ、このままじゃ死んじまう!」
聞こえた声を、シオンは――そのままやり過ごした。
(あいつ……?)
一瞬、何が起こっているのかわからなかった。
助けを求める血まみれの男を無視して、シオンは戦闘を続けている。
「おいっ!」
呼びかけても、返答はない。何をしているんだ。今すぐにでも肩を掴んでやりたい、かといって怪我人を放置するわけにはいかなかった。
「今、安全な所へ連れて行くから」
男を背負い、ウィリアムはゆっくりと歩き出した。押しつぶされそうになりながら、なんとか魔物の気配から遠ざかり広場に出る。そこは避難所のような扱いらしく、逃げてきた人々が集っていた。じきに兵士が来るはずだ。
「ここまでくれば安全だ。じっとしてろ、ここにいれば助けが来るから」
「助かった、のか……」
「まだ魔物は残ってる。オレは戦ってくるから、無理すんなよ!」
男を置き去りにするのは気がかりだが、彼に手を差し伸べる住民の姿を見て、ウィリアムは踵を返した。討伐隊の役目は戦うことで、ここで黙っているわけにはいかない。何より、あの場に置いてきたシオンの真意が気がかりでならないのだ。
息を切らして戦場に戻ると、ちょうど、彼が魔力を回収しているところだった。敵の影は見当たらない。ずっと戦っていたのだ――ウィリアムが何をしていたかにも気づかずに。
「シオン、お前……!」
聞こえていたはずだ。魔物に対抗する力を持たない男の言葉が。助けを求める叫びが。
「なんであの人を無視したんだ! ひどい怪我だったじゃないか……!」
「何度も言わせるな。俺にはすべきことがある」
「そんなに、魔力が大事かよ」
やり場のない手が外壁を殴る。彼には彼の使命がある、ずっとそう繰り返してきた。けれど、そのために人を見捨てるなんて。爪の先が白くなるほど拳を握りしめる。
「なんでだよ。お前がそんなことする奴だって、思ってなかった」
「お前には関係ない。どうだっていいだろう」
「どうでもよくない! おかしいだろ、そんなの」
魔物は倒したとはいえ、命を救わないならば意味はない。意志はそのまま、叫びとなって出ていく。
「オレたちがすることは、……すべきことは! みんなを守ることじゃないのか!」
そう気づけたのは、オーブリで村人たちの笑顔を見たからだ。守るため。記憶のためだけに戦うよりずっと、刃に力が篭るのだ。届いてほしかった。声を荒げて、がむしゃらに問い続ける。
「賢者だかなんだか知らないけど、そいつは助けに来ないんだろ! だからその代わりにオレたちが、魔物に傷つけられて苦しむ人を救うんだ。そのためにみんな、ここにいるんじゃないのかよ」
ウィリアムが言い切ってから、静寂に気づく。反応がない。いつからか、シオンはただゆらりとこちらを見据えていた。
「な、にが」
今までに聞いたことのない、絞り出した声だった。長い前髪が乱れ、黄金の瞳は影に曇る。
「お前に……なにが解る!」
何かが通り過ぎた。と思えば、右の前腕に痛みが走る。飛び散る鮮血――斬られた?
「なに、って」
傷は浅い。だがそれは問題ではない。目の前の少年が突きつけた行動全てが、ウィリアムの頭蓋を揺さぶっていた。いま、自分は何を言われた?
――なにがわかる?
わかっていないのは、どっちだ。シオンのしたことはつまり、民間人を見殺しにしたということだ。ウィリアムがいなければ、あの商人はどうなっていた? 想像したくもない。煮えたぎる感情で、腹の奥が熱い。
「だからって、戦えない人たちを、放っておいていいわけが――」
「お前は、命の重さが均等だとでも思っているのか」
返しの一撃を刺しこまれ、開いた瞳孔は固まる。乾ききった喉からは、否定の一つも出なかった。
「だとしたら、とんだ勘違いだ」
じわりじわり。黒くて重いものが、切っ先から染み込んでくる。
「俺には、ある。為すべきことが」
断ち切った響きは、自分に言い聞かせるようだった。黙り込むウィリアムに惜しげもなく背を向け、何処とも知れぬ方向へとシオンは消えて行ってしまう。追えなかった。彼の瞳を隠す影が纏わりついて、足が一歩も動かない。
白い地面に残る血の痕は、赤く冷たく乾いていた。
「おい!」
一直線に彼を追いかけて、声をぶつけてようやく、黄金の瞳はこちらに向いた。
「どこ行くんだよ! 魔物はさっき倒したろ」
「まだだ」
返された鋭さは、戦っているときのそれだ。彼はまだ警戒を解いていない。
「わかっている、マルクだろう。奴は一度じゃ手を緩めない。またすぐ魔物を呼ぶはずだ」
彼の言葉が真実なら、と思うと拳に力が篭った。だが、その根拠は未知数だ。シオンも、マルクもついていけない事実をウィリアムのもとに置いていく。
「戦うなら構えろ、来るぞ」
禁断の箱を開けたように溢れ出す邪悪。シオンに合わせて、ウィリアムも切り替えざるを得なかった。脅威の群れは、告げようとしていた事実をも押し流してしまう。迎撃。数多い敵をものともせず、シオンはひたすらに四肢を、翼を切り捨て、魔物を魔力に変えていく。黒い霧を集め、舞うように剣を振るう。
(やっぱり、あいつは強い)
自分だって、と構え直したときだった。
「ぐわっ、く、来るなああ!」
大声に振り向くと、大柄な男が倒れている。白い地面に広がる血。鳥型の魔物が男の肉を啄んでいた。
「この! 離れろ!」
何度も蹴りつけるが、武装も魔法もない男の攻撃などたかが知れている。
「大丈夫か!」
決して大丈夫ではない。が、他に言えることがなかった。駆けだしたが、四足の魔物に阻まれる。獣の姿をした脅威は、お前の相手はこっちだ、とでも言いたげに唸る。その間にも、怒号だったものは恐れに染まり、言葉にならない悲鳴に変わっていく。
「う、う、ああああ」
――斬撃。シオンの剣が、鳥の首を落とす。一刀両断。凶器の嘴は消え去っていく。思わずウィリアムは胸を撫で下ろした。男は縋る。
「き、君! 助けてくれ、動けないんだ。こ、このままじゃ死んじまう!」
聞こえた声を、シオンは――そのままやり過ごした。
(あいつ……?)
一瞬、何が起こっているのかわからなかった。
助けを求める血まみれの男を無視して、シオンは戦闘を続けている。
「おいっ!」
呼びかけても、返答はない。何をしているんだ。今すぐにでも肩を掴んでやりたい、かといって怪我人を放置するわけにはいかなかった。
「今、安全な所へ連れて行くから」
男を背負い、ウィリアムはゆっくりと歩き出した。押しつぶされそうになりながら、なんとか魔物の気配から遠ざかり広場に出る。そこは避難所のような扱いらしく、逃げてきた人々が集っていた。じきに兵士が来るはずだ。
「ここまでくれば安全だ。じっとしてろ、ここにいれば助けが来るから」
「助かった、のか……」
「まだ魔物は残ってる。オレは戦ってくるから、無理すんなよ!」
男を置き去りにするのは気がかりだが、彼に手を差し伸べる住民の姿を見て、ウィリアムは踵を返した。討伐隊の役目は戦うことで、ここで黙っているわけにはいかない。何より、あの場に置いてきたシオンの真意が気がかりでならないのだ。
息を切らして戦場に戻ると、ちょうど、彼が魔力を回収しているところだった。敵の影は見当たらない。ずっと戦っていたのだ――ウィリアムが何をしていたかにも気づかずに。
「シオン、お前……!」
聞こえていたはずだ。魔物に対抗する力を持たない男の言葉が。助けを求める叫びが。
「なんであの人を無視したんだ! ひどい怪我だったじゃないか……!」
「何度も言わせるな。俺にはすべきことがある」
「そんなに、魔力が大事かよ」
やり場のない手が外壁を殴る。彼には彼の使命がある、ずっとそう繰り返してきた。けれど、そのために人を見捨てるなんて。爪の先が白くなるほど拳を握りしめる。
「なんでだよ。お前がそんなことする奴だって、思ってなかった」
「お前には関係ない。どうだっていいだろう」
「どうでもよくない! おかしいだろ、そんなの」
魔物は倒したとはいえ、命を救わないならば意味はない。意志はそのまま、叫びとなって出ていく。
「オレたちがすることは、……すべきことは! みんなを守ることじゃないのか!」
そう気づけたのは、オーブリで村人たちの笑顔を見たからだ。守るため。記憶のためだけに戦うよりずっと、刃に力が篭るのだ。届いてほしかった。声を荒げて、がむしゃらに問い続ける。
「賢者だかなんだか知らないけど、そいつは助けに来ないんだろ! だからその代わりにオレたちが、魔物に傷つけられて苦しむ人を救うんだ。そのためにみんな、ここにいるんじゃないのかよ」
ウィリアムが言い切ってから、静寂に気づく。反応がない。いつからか、シオンはただゆらりとこちらを見据えていた。
「な、にが」
今までに聞いたことのない、絞り出した声だった。長い前髪が乱れ、黄金の瞳は影に曇る。
「お前に……なにが解る!」
何かが通り過ぎた。と思えば、右の前腕に痛みが走る。飛び散る鮮血――斬られた?
「なに、って」
傷は浅い。だがそれは問題ではない。目の前の少年が突きつけた行動全てが、ウィリアムの頭蓋を揺さぶっていた。いま、自分は何を言われた?
――なにがわかる?
わかっていないのは、どっちだ。シオンのしたことはつまり、民間人を見殺しにしたということだ。ウィリアムがいなければ、あの商人はどうなっていた? 想像したくもない。煮えたぎる感情で、腹の奥が熱い。
「だからって、戦えない人たちを、放っておいていいわけが――」
「お前は、命の重さが均等だとでも思っているのか」
返しの一撃を刺しこまれ、開いた瞳孔は固まる。乾ききった喉からは、否定の一つも出なかった。
「だとしたら、とんだ勘違いだ」
じわりじわり。黒くて重いものが、切っ先から染み込んでくる。
「俺には、ある。為すべきことが」
断ち切った響きは、自分に言い聞かせるようだった。黙り込むウィリアムに惜しげもなく背を向け、何処とも知れぬ方向へとシオンは消えて行ってしまう。追えなかった。彼の瞳を隠す影が纏わりついて、足が一歩も動かない。
白い地面に残る血の痕は、赤く冷たく乾いていた。