[4]トラスダンジュ
――ジェシカ、最近、元気ないんだよね。
そんなユンの呟きが、ふとした拍子に蘇ることがある。リンは彼女ほど察しがいいわけでもないが、ジェシカが何かしら重いものを抱えていることはわかった。オーブリで天使の話を聞いたときからだ、とユンは言っていたが、これといった実感はない。ましてや本人に聞くわけにもいかないだろう。
(きっと、僕なんかが介入できる話じゃないんだ)
リンはひとつ息を飲み込んで、少女二人のやりとりに目を向ける。沈みがちなジェシカに対して、ユンは既に動いていた。先程こっそり、一人で食堂へ行っていたのだ。
「ねえジェシカ、さっきメロンパン貰って来たんだ~、一緒に食べようよ」
「遠慮しておくわ。好きなんでしょう、ユンが食べたらいいじゃない」
「うう、そうじゃないんだってばぁ」
結局アタックは失敗し、ユンは好物を手にうなだれる。彼女がジェシカのためにとっておきのおやつを用意していた、ということは見守っていただけのリンにもわかった。いつものジェシカならきっと、ユンの気持ちを察して受け取っていたはずであることも。
(ウィリアムが戻ってくる前に、なんとかしたいな……)
四人で笑う時間は、やっぱり大切だった。少しでも助けになりたいのだ。
「僕、も――」
せめてと立ち上がったとき、ぐにゃりと視界が歪んだ。
◆◇◆
一方のウィリアムはというと、仲間たちとは異なり、基地の外でひたすらに走っていた。部屋に戻る前に、彼を惹きつけてやまないあの背中を見つけてしまったからだ。
悪い、行ってくる、と短い言葉で別れた仲間は、混乱こそしていたが非難はしなかった。ジェシカの呆れる声を背中で聞いて、さらに足を早める。三人は、これくらいの勝手をしても最後には笑って迎えてくれるのだ。どうしようもなくうきうきした。地を蹴る足に、余計に力がこもる。自分たちは四人組。三番隊の日常は、自分の帰る場所なのだ。
――そこが、お前の求める楽園か?
立ち止まる。声が聞こえた。誰もいない。鈴が鳴ったように意識が研ぎ澄まされていく。これは、鍵からの声だ。知っているはずの、けれど思い出せない声音。いつも謎を山積みしては黙ってしまう胸の鍵が、ウィリアムに疑問を投げかけている。
「楽園? 楽園って、何のことだよ!」
聞き返すが、それきり輪郭のない響きは途切れてしまう。
(まただ。この鍵はいったい、)
考えたところで結論は出ない。ただ一つわかるのは、同じ鍵の持ち主がこの先にいることだ。彼が向かった方向へ、また一歩踏み出し、駆ける。
「やっと追いついた」
ウィリアムが声をかけると、シオンはゆっくりと振り返った。不機嫌そうに眉をひそめ、前置きも飛ばして鋭く返す。
「オーブリのときの決着をつけにきた、というところか」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。なんだか気になってさ」
事実、ウィリアムは彼を見つけたら近づいてしまうのだ。遠征先でもそうだった。敗北、どころか勝負にすらならないまま終わるいつもの手合せ。あの村でやっと食い下がったのに、二人の間に魔物が割って入った――。
「あれさえなければ、オレが勝ってた可能性だってあるだろ。お前は続けたくなかったのか」
あの戦いを、あの不躾な仲裁を、彼はいったいどう思っているのだろう? ふたりを繋ぐ糸、その行先を確かめたくて、ウィリアムは尋ねた。投げ返される気はひたすらに鋭い。
「あのときの魔物。あれはあの男が、マルクが差し向けたものだろう」
思わぬ位置を抉られて、シオンの視線を追う。けれど彼が見ているものを、ウィリアムには輪郭のひとかけらでさえ捉えられなかった。
「気配でわかる。術書の件も関わっているかもしれない」
そうか。静かに答えて、ウィリアムは腰の剣からそっと手を離す。今ここで彼と、あの続きをすることはできない。彼の目の遠さと深さに、言葉もなく悟った。
けれど、だからといって、この邂逅を無意味にする気は毛頭なかった。ただでさえ知りたいことは増え続けるばかりなのだ。
「なあ、この鍵、お前にも喋ったりするのか?」
「鍵が、喋る?」
怪訝な返事はつまり、心当たりがないと示していた。
「オレだけ、なのか。さっきも、オレの考えの中に割り込んできて。まるで、頭の中に話しかけてくるみたいな……」
ウィリアムの説明を聞きながら、シオンはなにやら考え込んでいた。長い睫毛が瞬きに合わせて上下する。
「なあ、お前にもわからないのか?」
しびれを切らしたウィリアムの問いかけに、シオンはうんざりして首を振った。そもそも、と、余地を与えない言葉を彼は迷いなく選ぶ。
「本来の鍵の持ち主は、俺でもお前でもない」
ならば由来はどこなのか。ウィリアムが継ぎかけた疑問をシオンは既に読んでいて、叩き落とす追い打ちを重ねた。
「まずお前が、どうやってこの鍵を手に入れたのか。話はそこからだ」
もっともだ。納得したからこそ、ウィリアムは進めなかった。わからない。覚えていない。そんなこと、言ってどうなる。だが他に、言うべき事実など見当たらない。
沈黙を返事ととって、黄金の瞳は逸れた。やわらかな棘で撫ぜるような声が、すべてを断ち切ろうとする。
「もう、いいだろう。お前が何も言わないなら、鍵の話は終わりだ。そうなればもう俺に用はないはずだ」
――また、これか。濁った感情が胸に湧いた。心の端が焦げている。
「違う!」
がさついた声が飛び出た。こちらを見据える黄金、彼の鋭い目の照準はこれでもかと引き絞られる。貫かれて、一瞬、怯んだ。
「いや、その、さ」
鍵だけではない。ない、のだ。ただ、その背を追いかけてしまう。形を持たない理由だけが、ふたりの空間を引き留めようとしていた。
「鍵とか、鍵だけじゃ、なくて。お前だよ。もっと聞きたいこととか、やりたいこととか、あるんだ」
いざ向き合ってみると、絶壁の前に、何を言えばいいのかわからない。浮かぶまま必死に言葉を繋げたが、とってつけた会話はすぐに潰えた。
「なあ、聞いてるのか?」
彼は返事をするどころか、こちらに耳を傾けてすらいない。まるで、心ここにあらず、とでもいえばいいか。見慣れない態度は寒い気持ちを煽り、ウィリアムを不躾にした。
「おい、大丈夫か? どこか痛いのか」
「関係ないと言ったはずだ。もうお前には、俺に用はないだろ。基地に戻れ」
遠ざけようとする仕草を、ぐいと近づいて突き返してやる。今まで見ないようにしていたものが、無視できないほど強くひっかかっていた。
自分には三番隊がある。笑って迎えてもらえる居場所がある。けれど、それはチームという枠組みがあってこそ。彼には、あるのか。帰る場所が。
(関係なくなんか、ない)
覚えてはいない。けれどウィリアムは、失われた過去のどこかで、彼との繋がりを諦めきれなかった。だって、だから、同じ鍵を握っているんじゃないのか。互いの目が、揺れる鍵が、とにかくなにかが煌めいた。
「やっぱりオレ、お前と――」
噛みついて、気がついた。今、とても大事なことを言おうとしている。いつのまにか目が合っていて、黄金の瞳に吸い込まれるようだ。この一瞬、すべての音が止まった。続けようと、薄く息を吸い込んで――。
「ウィリアム! ここにいるの!?」
遮られる。高く澄んだ声はユンのものだ。近づく足音が、高鳴っていた鼓動を掻き消す。
「聞こえてるなら来て! リン君が、倒れちゃったの!」
そんなユンの呟きが、ふとした拍子に蘇ることがある。リンは彼女ほど察しがいいわけでもないが、ジェシカが何かしら重いものを抱えていることはわかった。オーブリで天使の話を聞いたときからだ、とユンは言っていたが、これといった実感はない。ましてや本人に聞くわけにもいかないだろう。
(きっと、僕なんかが介入できる話じゃないんだ)
リンはひとつ息を飲み込んで、少女二人のやりとりに目を向ける。沈みがちなジェシカに対して、ユンは既に動いていた。先程こっそり、一人で食堂へ行っていたのだ。
「ねえジェシカ、さっきメロンパン貰って来たんだ~、一緒に食べようよ」
「遠慮しておくわ。好きなんでしょう、ユンが食べたらいいじゃない」
「うう、そうじゃないんだってばぁ」
結局アタックは失敗し、ユンは好物を手にうなだれる。彼女がジェシカのためにとっておきのおやつを用意していた、ということは見守っていただけのリンにもわかった。いつものジェシカならきっと、ユンの気持ちを察して受け取っていたはずであることも。
(ウィリアムが戻ってくる前に、なんとかしたいな……)
四人で笑う時間は、やっぱり大切だった。少しでも助けになりたいのだ。
「僕、も――」
せめてと立ち上がったとき、ぐにゃりと視界が歪んだ。
◆◇◆
一方のウィリアムはというと、仲間たちとは異なり、基地の外でひたすらに走っていた。部屋に戻る前に、彼を惹きつけてやまないあの背中を見つけてしまったからだ。
悪い、行ってくる、と短い言葉で別れた仲間は、混乱こそしていたが非難はしなかった。ジェシカの呆れる声を背中で聞いて、さらに足を早める。三人は、これくらいの勝手をしても最後には笑って迎えてくれるのだ。どうしようもなくうきうきした。地を蹴る足に、余計に力がこもる。自分たちは四人組。三番隊の日常は、自分の帰る場所なのだ。
――そこが、お前の求める楽園か?
立ち止まる。声が聞こえた。誰もいない。鈴が鳴ったように意識が研ぎ澄まされていく。これは、鍵からの声だ。知っているはずの、けれど思い出せない声音。いつも謎を山積みしては黙ってしまう胸の鍵が、ウィリアムに疑問を投げかけている。
「楽園? 楽園って、何のことだよ!」
聞き返すが、それきり輪郭のない響きは途切れてしまう。
(まただ。この鍵はいったい、)
考えたところで結論は出ない。ただ一つわかるのは、同じ鍵の持ち主がこの先にいることだ。彼が向かった方向へ、また一歩踏み出し、駆ける。
「やっと追いついた」
ウィリアムが声をかけると、シオンはゆっくりと振り返った。不機嫌そうに眉をひそめ、前置きも飛ばして鋭く返す。
「オーブリのときの決着をつけにきた、というところか」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。なんだか気になってさ」
事実、ウィリアムは彼を見つけたら近づいてしまうのだ。遠征先でもそうだった。敗北、どころか勝負にすらならないまま終わるいつもの手合せ。あの村でやっと食い下がったのに、二人の間に魔物が割って入った――。
「あれさえなければ、オレが勝ってた可能性だってあるだろ。お前は続けたくなかったのか」
あの戦いを、あの不躾な仲裁を、彼はいったいどう思っているのだろう? ふたりを繋ぐ糸、その行先を確かめたくて、ウィリアムは尋ねた。投げ返される気はひたすらに鋭い。
「あのときの魔物。あれはあの男が、マルクが差し向けたものだろう」
思わぬ位置を抉られて、シオンの視線を追う。けれど彼が見ているものを、ウィリアムには輪郭のひとかけらでさえ捉えられなかった。
「気配でわかる。術書の件も関わっているかもしれない」
そうか。静かに答えて、ウィリアムは腰の剣からそっと手を離す。今ここで彼と、あの続きをすることはできない。彼の目の遠さと深さに、言葉もなく悟った。
けれど、だからといって、この邂逅を無意味にする気は毛頭なかった。ただでさえ知りたいことは増え続けるばかりなのだ。
「なあ、この鍵、お前にも喋ったりするのか?」
「鍵が、喋る?」
怪訝な返事はつまり、心当たりがないと示していた。
「オレだけ、なのか。さっきも、オレの考えの中に割り込んできて。まるで、頭の中に話しかけてくるみたいな……」
ウィリアムの説明を聞きながら、シオンはなにやら考え込んでいた。長い睫毛が瞬きに合わせて上下する。
「なあ、お前にもわからないのか?」
しびれを切らしたウィリアムの問いかけに、シオンはうんざりして首を振った。そもそも、と、余地を与えない言葉を彼は迷いなく選ぶ。
「本来の鍵の持ち主は、俺でもお前でもない」
ならば由来はどこなのか。ウィリアムが継ぎかけた疑問をシオンは既に読んでいて、叩き落とす追い打ちを重ねた。
「まずお前が、どうやってこの鍵を手に入れたのか。話はそこからだ」
もっともだ。納得したからこそ、ウィリアムは進めなかった。わからない。覚えていない。そんなこと、言ってどうなる。だが他に、言うべき事実など見当たらない。
沈黙を返事ととって、黄金の瞳は逸れた。やわらかな棘で撫ぜるような声が、すべてを断ち切ろうとする。
「もう、いいだろう。お前が何も言わないなら、鍵の話は終わりだ。そうなればもう俺に用はないはずだ」
――また、これか。濁った感情が胸に湧いた。心の端が焦げている。
「違う!」
がさついた声が飛び出た。こちらを見据える黄金、彼の鋭い目の照準はこれでもかと引き絞られる。貫かれて、一瞬、怯んだ。
「いや、その、さ」
鍵だけではない。ない、のだ。ただ、その背を追いかけてしまう。形を持たない理由だけが、ふたりの空間を引き留めようとしていた。
「鍵とか、鍵だけじゃ、なくて。お前だよ。もっと聞きたいこととか、やりたいこととか、あるんだ」
いざ向き合ってみると、絶壁の前に、何を言えばいいのかわからない。浮かぶまま必死に言葉を繋げたが、とってつけた会話はすぐに潰えた。
「なあ、聞いてるのか?」
彼は返事をするどころか、こちらに耳を傾けてすらいない。まるで、心ここにあらず、とでもいえばいいか。見慣れない態度は寒い気持ちを煽り、ウィリアムを不躾にした。
「おい、大丈夫か? どこか痛いのか」
「関係ないと言ったはずだ。もうお前には、俺に用はないだろ。基地に戻れ」
遠ざけようとする仕草を、ぐいと近づいて突き返してやる。今まで見ないようにしていたものが、無視できないほど強くひっかかっていた。
自分には三番隊がある。笑って迎えてもらえる居場所がある。けれど、それはチームという枠組みがあってこそ。彼には、あるのか。帰る場所が。
(関係なくなんか、ない)
覚えてはいない。けれどウィリアムは、失われた過去のどこかで、彼との繋がりを諦めきれなかった。だって、だから、同じ鍵を握っているんじゃないのか。互いの目が、揺れる鍵が、とにかくなにかが煌めいた。
「やっぱりオレ、お前と――」
噛みついて、気がついた。今、とても大事なことを言おうとしている。いつのまにか目が合っていて、黄金の瞳に吸い込まれるようだ。この一瞬、すべての音が止まった。続けようと、薄く息を吸い込んで――。
「ウィリアム! ここにいるの!?」
遮られる。高く澄んだ声はユンのものだ。近づく足音が、高鳴っていた鼓動を掻き消す。
「聞こえてるなら来て! リン君が、倒れちゃったの!」