[3]守るべきもの

 チカもこちらに気づいたようで、ウィリアムは自然に手を振ろうとした。何気なく上げた腕に、ズキリと痛みが走る。
「いっ……てぇ、ってうわ、赤くなってる」
 魔物の拳を受けた左腕が、今更になって熱を持ち始めていた。袖を捲って確かめると、その場所が赤く腫れている。
「それも、さっきの怪我?」
「みたいだ。リン、頼んでいいか」
 傷を見て、リンも目を丸くした。ウィリアムがこれほどの傷を負ったことは今までなかった。強力な一撃。腕が動かせるのが奇跡なくらいだ。
「これは、ちょっと酷いよ。痛いかもしれないけど……やるね」
 不規則に揺れる布。見えない指先で改めて描かれるそれは、袖に刻まれた印と同じものだった。やわらかな緑の光が、紡ぐ魔法陣。
 それを見た瞬間、村人たちの顔色が変わる。
「その光は、神殿の――」
「おいあんた、それは治癒術か?」
「まさか」
「治癒術師が討伐隊にいるのか」
「神殿と同じ治癒術を? ということは……」
 消えない不安が人々の心を、あってはならない憶測と結び付ける。不満は、疑念を膨張させる。そして、絡みついていた不信が、吐き出される。
「お前が、神殿の術書を盗んだんじゃないのか!」

 恐れた通りだった。向けられた疑いの目に、本人より早くウィリアムが反発する。
「そんなわけないだろ! ただ治癒術が使えるってだけでリンを疑うのかよ」
 治癒術の行方も犯人もわからない。それでも確信できることがある――彼がそんなことをするはずがないのだ。だが、それが通用する空気ではない。
「だったら他に誰がいるというのだ!」
「知らねえよ! けど絶対リンじゃねえ! リンは人が困るようなことするわけないだろ!」
 まるで押し付けているようだ、いや、実際にそうなのだ。頭に血が上り、想いはそのまま流れ出す。逆上したのは相手も同じ。
「お前も共犯なんじゃないのか!」
「そっちこそ、リンを犯人にしたいだけだろ!」

「どうした? 何の騒ぎだ?」
 声をあげ、顔を出したヒューゴが。何も言わぬまま、遠巻きにルビウスが。討伐隊の面々もその場に集まりつつあった。だが大人たちの語調は厳しいままだ。
庇うように仲間の前に立ちながら、ジェシカは首だけで振り返る。リンの目はただ揺れていた。――事の真偽は、聞くまでもなかった。住民は、ただ矛先を欲していた。わかっている。わかっては、いるのだ。きっとお互いに。けれど、一度爆発した感情が、そう簡単に引っ込むことはなく。
「なんだその態度は!」
「やましいことでもあるんじゃないの!?」
 まるで討伐隊を敵視する彼らは、完全にヒートアップしてしまっている。睨みつけられ、怒号をかぶり、後ずさりするしかない。
「皆さん、落ち着いてください!」
「そうだ。今ここで揉めたって術は戻ってこない」
 隊員側にも怒り出す者がいるように、村人側にも冷静な人間はいた。チカの父親もそうだ。今にも殴り合いに発展しそうな群衆を押しとどめようと腕を広げる。しかし、暴走した負の感情はどうにもできない。焦燥が額に滲んだ。
「その服に隠しているんじゃないのか!」
 群衆の手が、リンの右袖に伸びた。手まですっぽり隠す、継ぎ足された布の下には――。

「見るな!」
 ぱしん。反射的に飛び出た、するどい拒絶。弱気な少年の、今まで見せたことのない剣幕に、村は一瞬静まり返った。そしてそれは間違いなく、火に油を注いだ合図だ。我に返った者から、少年を暴こうと迫る。
「やっぱり隠しているな!」
「ち、違っ……!」
「じゃあ手を見せてみろよ!」
「それは、できないけど……でも」
 濁した語尾に、揚げ足を取るように敵意が群がる。
「お前が持ってなければ、術書はどこに行ったっていうんだ!」
「そんな、」
「落ちついて。彼を疑うことはないだろう」
「これで落ち着けるか! だいたい賢者様はどうしてるんだ!」
 やがて村の守護だけでなく、魔物へ、世界への不満が撒かれ始めた。シュバルトの制止も、村人が気に留めることはない。ひとの不安は、暴走するのだ。
「諦めな。人間なんてそんなもんさ」
「ルビウス、でも」
 こうなってしまえば、もうどうしようもない。紅の髪をかきあげ、天才がため息をついたとき、
「違うもん!」
 騒ぎの間をすり抜けて、甲高い声が響いた。
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