[2]目覚める闇

 視界が澄んでいく。
 身体の中心にある泉から、エネルギーが無限に湧き出ている。水面を揺らすように、細胞ひとつひとつに満ちていく。思考を刻む循環が擦り切れそうに加速する。浮遊感。行き場を探した何かが、とめどなく放出されていく。扉の向こうから流れ込んできたその熱さが、熱く目の奥を照らす――真っ白に。
 変化は、すぐに表れた。混ざり合った二色の髪は、赤紫一色に染められて宙を泳ぐ。瞳には、真紅の光が燃え上がる。なによりもその場にいた人間に刻み付けられたのは、目に見えない強さだった。
 
 力。
 圧倒的な魔力。
 それだけでこの場の全てを凌駕できた。

 彼の左手から飛び出た刃が魔法であることに、誰もが気づかなかった。けれど次に彼を見たときには、傍にいたはずの魔物たちは跡形もなく消えていたのだ。
その場に立っていた面々には、何が起こったのかさえわからなかった。
「ウィリアム……?」
 呆気にとられた呟きは、いやに乾いている。リンは目を疑った。紅い瞳、赤紫の髪、彼自身を浮かせそうなほどの溢れる力。この少年は、本当にウィリアムなのか。
 それまで各地で討伐隊を襲っていた魔物たちが集まってくる。男が呼び寄せたのだろう、その全てがウィリアムを狙っている。空を黒く覆う影。
「こんなにたくさん!」
 一度は剣を構えたユンだが、その刃が振るわれることはなかった。ウィリアムの思わぬ行動に思考回路を遮断されたからだ。

 ――跳躍。人間のそれとは思えないほどの高さで、魔物を見下ろす位置まで辿りつく。剣が空を切ったかと思うと、雷が大地を照らす。自然が起こすそれよりも、遥かに強大な電撃の一閃。
 眩い光の中で、魔物たちが焼け焦げていく。地に降り立ったウィリアムは、甲高い断末魔をただ聞いていた。表情をなくした紅い瞳のまま。豹変を、仲間たちは茫然として見ていた。見ているしか、できなかった。
 最後の一体が黒い霧となって消えたとき、ウィリアムは地面へと倒れこんだ。
「ウィリアム!」
 仲間たちは次々に何度も名を呼ぶが、反応はない。瞼は閉ざされ、髪も元の色に戻っている。

「へぇ。なかなか、やるじゃない」
 手駒である魔物を失った割に、男は冷静だった。地に伏したウィリアムを無遠慮に見つめ――ふと、人影に気づき振り向いた。
「マルク……?」
 喉の隙間から漏れたような、乾いた声。銀の前髪から見え隠れする瞳は、黄金のまま揺れている。
「今度は何を企んでいる!」
 一瞬の動揺の後に鋭く引き絞られる視線は、間違えようのない敵意。けれど男は、噛みつくような声の端が、僅かに震えたことを見逃さない。
「その目――ああ、思い出した。あの落ちぶれ坊やか、かわいそうなシオン君かあ。どうしてお前がここにいるんだ?」
「それはこっちの台詞だ」
 マルクと呼ばれた男の、揶揄するような語り口が絡みつく。シオンは退かない。だからといって、マルクの態度が変わることもない。
「お前がこんなところにいるなんてねえ、っははは」
 腹を抱えて、堪えきれない笑いを散らす。身構える少年を一瞥。倒れた少年を一瞥。腰を下ろしていた木の枝が軋む。
「ああ面白い、面白いよ、お前ら! オレ様もしばらく楽しめそうだ……!」
 突然、声が遠ざかった。そのまま嘲笑の間にある姿が揺らめいていく。
「待て!」
 シオンの制止も空しく、かき消されたようにマルクは去った。敵の気配はもうどこにも感じられない。
 こうして、魔物たちの長い襲撃は終わったのだった。

◆◇◆

夕方になってやっと、ウィリアムは目を覚ました。それから、自らの身に起こった豹変について、仲間たちからすべてを聞いた。髪と瞳の色が変わったこと、信じられないほど強くなったこと、そのまま倒れたこと。混乱の中でひとつ、納得に似た確信が光る。
(あのときの力だ。チームではじめて魔物と戦ったとき、鍵から声がしたときの)
 いったい自分は、何をしてしまったのか。何故、この力が目覚めたのか。

 一度考え始めると、泥に足を取られたように沈んでいく。俯き始めたウィリアムを気遣って、最初にリンが声をかけた。
「大丈夫?」
「心配かけてごめん。でももう完全復活だ!」
「でも、本当に平気なの? あれほどの力を使ったのに」
「いいんだ」
 確かにジェシカの指摘は鋭かった。ただ、万全でないのは力や体調ではなく胸の内なのだ。今は仲間の心配を制してでも、自らの心に差した暗い影を振り払いたかった。

 食事を終えてひととおり片づけると、ジェシカは改めてウィリアムに切り出した。
「やっぱり、一度考えてみましょう。あなたの特別な力。あれは、なんなの?」
「とりあえず『覚醒ウィリアム』とでも呼ぼうか。なにか、予感みたいなのはあった?」
 問われるままに感覚を手繰り寄せる。深い闇の底で伸ばした手の中に、予兆はあった。
「一応は。鍵を握って、扉を開く感じがしたんだ。そこから先は覚えてない。みんなが言うには、その覚醒したオレは魔物を倒してたはず」

「魔力量の増加、外見の変化、それと意識の欠落……」
 顎に手をあててジェシカが呟く。冷静さを取り戻した彼女の分析は細やかでやはり頼もしい。
「強力だけれど、制御できないってことよね。だとしたら相当難しい体質なのか、それかあなた自身の能力じゃないのかもしれない」
仲間たちは神妙な顔で、覚醒という事件について思いを巡らせている。頭上を飛び交うやりとりはどこかふわふわしていて、自分の話ではないような気さえした。意識と記憶は、怪しい男の眼前で途切れているのだ。

「それにしても、なんだったんだろうな、あの男?」
「あの魔物を操っていた男ね?」
 ジェシカの気は新たな敵へと逸れた。顎に手をあてて考え込むと、長い睫毛が揺れる。
「討伐隊を倒したがっていた……一体、なんのために。それに、どうして魔物をコントロールすることができるのかしら」
 
「あの人、マルクって呼ばれてたよ」
「呼ばれてた、って、仲間がいるのか?」
 驚異的な魔力に覚醒したときの記憶はウィリアムにはない。その場のやりとりも覚えてはいなかった。しかし慌ただしい状況下でも、ユンは目ざとく彼らの様子を見ていたのだ。
「いや、あの金眼の鎖剣士が言ってたんだ」
「シオンが?」
 冷淡な剣士と、人を弄ぶような魔物使い。二人の印象が、どうしても結びつかない。その考えはユンも同じようで、しきりに首をかしげていた。
「信じられないような目で見ていたから。知り合いだったりするのかも」
 そのとき彼女に示された可能性は、話し合いが終わっても、ウィリアムの心の淵に消えずに居座っていた。
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