wonderland code

 雨に降られた。

 学園から出かけたときにはご機嫌だった空が、帰り道では容赦のない雨で急かしてきたのだ。最初からわかっていたら雨具を持っていったのに。アカデミーの廊下を歩きながら、クラウツは濡れた外套を引き寄せた。
 教授の立場でさえ、魔導師はときに無力だ。雨の中で、傘を持つ人間と何度もすれ違った。いくら強力な魔法を扱えたって、街中で雨を燃やしながら帰るには巻き込むものが多すぎる。結局、土砂降りを浴びて帰る羽目になった。
 買いに行った本たちを死守した代わりに、体が冷え切っていた。薄着だったせいで思っていたよりずっと寒い。一人だからと気にしないでいたが、もう何枚か着る癖をつけようか。
 アカデミー施設内、談話室の大きなテーブルに書物を置いて、本棚ばかりの壁を見渡す。どこを乾かすにも、こんなところで火を使うわけにはいかない。どうせ少しの間、自分が濡れたままでもいいだろう。ただ、とても寒いだけ。寒くて苦しいだけで、それは当然のことだ。
「ずぶ濡れじゃん」
 声がした、知らない顔だった。金髪の女性、気配からして魔導師だ。ここにいるということは、アカデミーの関係者だろうか。
「暖炉でもつけるか」
 と彼女は部屋の奥を指差す。小さな暖炉の周りは、教授と学生がくつろぐスペースだ。濡れ鼠のクラウツはあまり気が進まなかった。
「お気になさらず」
 自分に割り当てられた研究室はすぐそばにある。部屋に籠って勝手に温まるつもりだったが、鋭い声で引き留められた。
「こっちが気になるだろ。いいから」
 ――いいからいいから、学者先生はゆっくりしていて。
いいからと、よく言われる。ぐいぐいと自分を引っ張っていこうとする彼女を、どんな言葉であしらおうかと考えていた。いつものように。

 誰もがそうだ。
 かつての発明。集めた名声。貼り付けられた偉人の名札。学者クラウツを見る者は、そのとき誰もが目の色を変える。これまでに会った要人も。見知らぬ誰かがこの名を聞いたときも。
 優しく装うぎらつく視線で、積み上がった二つ名を見ている。

 蘇ってくる醜悪な気持ちは、寒気に変わって胸の底を蝕む。「せめて髪だけでも拭けばどうだ」と唸る、眼前の魔導師も。きっとこれまでのように。
「大したことはありませんから」
 寒い。タオルを持って、腕を伸ばしてくる彼女をかわす。従うふりのつもりで髪留めを外そうとしたが、冷たい指はうまく動かせない。ああ、思い出すんじゃなかった。
「本当に大丈夫か、ちょっと頭かせ」
 寒くてどうにもならなかったから、ほどなくしてクラウツは捕まった。隙をつくのが上手い人だ。金髪の女は背伸びして、こちらの頭にタオルをかぶせた。水滴を拭う手つきは思ったより丁寧だ。

「気を付けろよ、ただでさえ試験前なんだから」
「……はい?」
「風邪でも引いたら勉強どころじゃないだろ」
 なぜかクラウツが試験勉強に来たことになっている。喋り方からするとこの魔導師も教授で、何かを勘違いしているのだろう。反論しようにも、相手は押しの強い声で遮ってくる。
 つまり、彼女はクラウツを知らない。知らないのに、勝手に心配している。窺いたくて、すっと視線を合わせた。翡翠色の瞳に浮かぶのは、隠せない不安と疑問、奥底にある純粋な思慮。
 ――こちら側も、思い違いをしていたみたいだ。
 なんだ、違うじゃないか。ふっと笑う。きっと彼女は、濡れ鼠の正体が誰だって、心配して、気を遣って、暖かいところに引っ張っていくのだろう。
 手の震えは止まっていた。
「私もここの教授です。学者クラウツをご存知でしょう」
「もちろん知ってるけど……あんたなのか?」
 彼女は一度きょとんと首をかしげて、次に納得したようだった。
「さっきは色々間違ってたけど、これから同僚になるリナだ。よろしく」
 リナは素直な瞳のまま朗らかに笑う。その目に「こちらこそ」と返事をしながら、クラウツは暖炉傍の椅子に腰を下ろした。

 雨上がりの町には澄んだ陽光が降る。窓硝子に残る雫が、きらり輝いてみえた。
14/31ページ
スキ