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「先輩」
ん? と喉の音だけで返事をする相手に、不満を続ける。
「これ、いつまで磨いてりゃいいんすか」
イミナが磨いているのは、自らが立つ床であった。床といっても、ここは屋内ではない。郊外の開けた荒地に、なぜか一段高くなっている四角い床があるのだ。しかも、昨日村で泊まった宿屋の寝室より広い。
執事として屋敷暮らしをしていたイミナにとって、床磨きは慣れた作業だ。だが今回の場合、状況に謎が多すぎる。
屋外になぜかある床。屋根もなければ、人が住んでいた形跡もない。場所も村のはずれで、郊外なので今だって人気はない。
これを綺麗にする必要性が不可解なのだ。が、先輩によるととりあえず磨かなければならないらしい。
「いつまでと問われるなら、泥の汚れが視認できなくなるくらい?」
先輩はからからと笑う。どこにいてもノリの変わらない同じような会話と反応。たとえば第五話あたりを繰り返すような、ぐずぐずに空回るやりとりだ。
「これでオレに長物持たせたいだけとかだったら怒りますよ」
「はは、まさか。ワタシにもこちら側でやることがあるから、イミナに掃除を任せてるのさ」
先輩から提供された道具は何の変哲もないモップである。これ一本で相手する数え切れない汚れは、土や泥でできていて、濡らして擦ればなんとか落ちる。魔法で落とすなと指示された以上、互いが魔導師であることはあまり関係がなくなっていた。
作業は滞りなく進んでいるが、なにしろ磨くべき箇所が多い。つまりは手が足りない。イミナの状況を察したのか、時間をあけて言葉が続く。
「大丈夫、終わったらワタシも手伝うさ。お嬢様がお待ちだからね」
メイド服のエプロンを結びなおして、先輩はそう言った。
この先輩という人は、イミナにとって旅の連れである。魔導師二人連れの旅はよくあることらしいが、この人との旅路はおかしなことばかり起こる。どうやら先輩は有名な魔導師なのであった。奇人として、そして狂人として。偽名を名乗る前に、「ルナティック」という通称が浸透するほどには。
どこへ行くにもメイド服なせいで貴族の使いだと思われ、金目当てで盗賊に襲われたり、返り討ちにした争いが武勇伝として広まったりした。
他にもいわれない諍いに巻き込まれたり、ルナティック自身の愛好家同士が争うのをイミナが仲裁する羽目になったり、引かされた貧乏くじの数だけは自信がある。
特に別の魔導師を慕う集団に敵視されたときは、いっそ自分だけ逃げようかと真剣に考えた。それなのに、ここまで二人旅を続けてしまったのは――。ため息。
床から目を逸らして盗み見れば、視界の端にちらり、姿が映るだけで異常に目立つ。この刺すような存在感が、魔導師にも人間にも語られているのだろう。
(行動のことも魔力もあるけど、それ以前にこの人見た目も強いんだよな)
ショートウルフに整えたブロンドの髪、切れ長でぱっちりとした目。まっすぐな瞳は、空が高いときの青色だ。白い肌には艶めく光りが見えるという。
すらりとした立ち姿、イミナが見上げるほどの背丈。くっきりした目鼻立ちもあって、強さを兼ね備えた美形という印象が目を引く。
顔面が美男子で服装がメイドなのだから、目立つことこの上ない。
どの町に行っても、人間のファンがたくさんできてしまう。旅路のどこでも、同じ風景。人だかりに迫られるのは呆れても慣れない。一人でやってろと何度も思った。
そもそもイミナにとってルナティックは、侍従としての先輩であった。魔導師を手軽な武力として扱う人々に頼られ、襲撃した先の豪邸に強固な番人――そのメイドがいた。イミナを捕まえた彼女は、「ちょうどいい」と言って、そのまま侵入者を執事にしてしまったのだ。
(もう昔の話だ)
その役職が、役に紐づいた関係が、今になっても続いている。
切り揃えた髪も執事服も、たしかにあの頃のままにしている。お嬢様が――お嬢様に従う先輩が、イミナを執事に仕立て上げた姿。今となってはもう。
(あの人には同じことだけど、オレにはわからなくなってる)
執事という役職なのか、ただの後輩なのか。屋敷での生活を終えた後、行き場に迷ったイミナはルナティックと呼ばれる魔導師にそのまま連れていかれた。その結果が前述した通りの珍道中だ。
間違いなく、彼女はイミナの運命を狂わせた。自分の人生なんて運命というほど大した話でもないだろうけど。
ため息を飲み込んで仕事に戻ると、二本目のモップを持って、先輩が床の泥汚れへと上がってきた。
「イミナ、待たせたね。ワタシも加勢するよ。二人でやった方が早いだろう」
そういうときにウインクをするな。
力を入れて床を磨くと、銀色のそれはキュッキュッ、と音を立てて綺麗になっていく。感心のような達成感があった。この床と、自分とモップとを褒めてやりたい。アンタ案外光れるじゃん。
長い年月で積み重なった汚れだと思っていたが、魔法を使いたくなるほどの強敵はいない。この床を汚すのが砂や土が固まったものだというなら、わざわざ魔導師二人とモップ二本で、時間をかけて掃除するだろうか。
「こんな汚れ、雨でも降ったら落ちそうですけどね」
「降ってないんだよ、雨が。だから本来なら雨で落ちるはずの汚れが、この鏡に残ってんの」
「鏡?」
先輩は、イミナの言葉より数歩先を答えた。
「ワタシが依頼されたのは、儀式だったんだよ。雨を降らせるための」
――儀式。
魔導師が自身で使う者とは違う、影響と規模の大きい魔法の術式。難しい魔術には、決まった手順や特別な道具といった、複雑な方法を用いることがある。住処を構えて暮らしている魔導師は別だろうが、旅暮らしの自分たちがやろうと思ってすぐできるものじゃあない。儀式魔法はその最たる例、のはずだ。
「んなことするなら、もっと色々揃えるもんがあるでしょう。それらしい仕込みなんて、オレらやってませんよ」
「祭壇を模す装飾が必要だけど、もう手配済みさ。あとは配置するだけ」
――聞かされていない。なにも!
詳しく問い詰めると、ルナティックがそれらの道具を準備していたのは昨晩。ちょうどイミナが宿で休んでいた頃らしい。依頼があったという話も今朝聞いたばかりなのに。そういうことか、という納得、もしくは諦めがイミナを苛む。
「ワタシがお嬢様から受けた依頼だからね。できる限りこの手でやりたいものさ」
つまりはいつものことだった。イミナの物語は、今や先輩がばんばんと周りの困りごとを解決する旅になっている。知らない誰かの依頼を解決するために、凄まじい勢いで行動する先輩。また、同じ風景の繰り返し。第何話かを数え飽きた、無くても変わらない物語。
あえてひとつ、注釈を入れるならば。この人は依頼人のことを、いかなる相手でもお嬢様と呼ぶ。
「おや、お嬢様」
今回お嬢様と呼ばれたのは、近くの村に暮らす人間の老婆だった。頭を下げるルナティックに倣って、イミナも後輩らしく礼をする。
「どうも。オレはイミナ。ルナティックの手伝いみたいな魔導師だ。おばあさ――お嬢様、あなたが依頼を。このあたりに伝わる儀式があるなんてよく知ってたな」
全てがそうではないだろうが、儀式は「魔導師一人ではできない大がかりな魔法の再現」であることが多いらしい。曲解を防ぐため、存在そのものを隠されていることだってある。イミナが気になったのはその出所だ。いったいどこから、村の人間がその方法を見出したのか。
「言い伝えがあるってことを、うちの人が日記に遺してたのよ」
雨が減り始めた頃、老婆は年老いた夫を亡くしたらしい。博識だという彼が、病の末、生きているぎりぎりで伝承の存在を思い出した。存在という手掛かりから、村人たちが昔の記録をひっくり返して、別の手掛かりが見つかり――その連鎖で、儀式の全貌が明らかになったという。ちょうど同じ頃に、魔導師ルナティックの噂が村に届いたとも。
「そんなこともあるもんか」
と、軽く呟いた。まるで最終話目前で奇跡が起こる物語みたいだ。
「これであの子たちも元気を出すといいけど」
「あの子?」
「うちの人、村の子供に人気だったの。物知りおじいちゃんって。それがいきなりいなくなって、みんな寂しがってね」
――いきなりいなくなった。
なんだか突然喉が渇いて、イミナは唾を呑んだ。同族を亡くした人間にかける一言が、つっかえて出てこない。時間の違う生き物と同じ言葉を使うとき、口は重くなるものだ。
「それは、」
「病気のことを、大人だけの秘密にしていたから。子供たちにとっては突然のことだったの」
老婆は落ち着いて語っている。それは亡き人の連れ合いとして、ふたりで積み重ねたものに支えられているからだろう。けれど、そうでない者は。
「幼い子は、まだわかっていないみたいだけど。まとめ役をしていた年上のお兄ちゃんは、ひどく落ち込んでしまって。その子は外に出なくなってしまったの。わたしが言葉をかけても、気を遣うばかりだから何も言えなくて」
今度こそイミナは困り果てた。気持ちの話だとわかったからだ。仮に彼らが魔導師であっても、同じ想いをするということも。
「それは、小さい子たちもいつか、わかるようになるといいな。大事なことだから」
さよならを言えないのも。きっと、言えなかったと知るのも。
「お兄ちゃんの方も、……つらいよな」
失うことで思い知らされる大切なんて、イミナの中ではもう第二話が始まる前に語りつくしていた。繰り返した風景のよくある話、その前の。イミナにとって、他人事ではない段階の話。
「そのお兄ちゃんっていうのは、ここに来るのか?」
「来てみて、とは言っているけれど」
老婆に続いて、見に来る村人が増えてきていた。もちろん先輩に惹かれる人も多い。興味津々な子供たちはすぐ見つかった。が、お兄ちゃんらしき少年の影は見当たらない。
「来てもらいましょう」
うわ。と声に出た。先輩だ。敬語のルナティックは、依頼人に対して真摯だ。イミナに対してはちっとも真摯でないが。
「儀式の最終段階では、みなさんに並んでもらうことになるので」
ありがとうね、と老婆は頷いた。今から村の中心人物たちが先輩のところに集まって、これからの段取りを聞きに来るらしい。
最終段階。この人はまた、独力で突き進むのか。
「ってことは、この後まだ手順があるんだな」
床らしきものこと鏡を綺麗にして、魔法陣と道具類を祭壇のように配置して、村人をその前に整列させて――それから?
「ワタシがここで歌うのさ」
「は?」
魔導師が鏡に乗って歌う。人間たちがその歌に掛け声を合わせる。それが儀式の肝だった。歌の後は、雨が降るまでこの大きな鏡を見守っていなければいけないらしい。しかも魔法を使わずに。
――ここは劇場か何かか? そう思わずにはいられない内容だった。特に前半。
「お嬢様たち、いらっしゃいませ」
どこで覚えてきたのか、いかにもといった演者の振る舞いで先輩は観客を迎える。人間たちは綺麗なひとだと息を呑み、感嘆を漏らす。まあ、先輩の見た目はこういう役回りに向いている。
イミナは子供たちに手を引かれている少年に気づいた。見るからに不健康そうで、けれど敏い目をしてこちらの様子を窺っている。あの子が老婆の言ったお兄ちゃんか。
数はそう多くないが、村人らの列もリサイタルの客席じみてきた。イミナの主な仕事は整列だったが、流れ作業も同然だった。
さて、と頃合いを見て、魔導師ルナティックは鏡の上で参加者の人間たちに呼びかける。
「今から歌うから、お嬢様たちは手拍子で応援して! 準備はいいね! 行くよ!」
本当に儀式かこれ。もうちょっとした祭りじゃないか? いや祭りは儀式になり得るけど、とイミナが考え込む。先輩は何か素敵なポーズをしたらしくて、村人たちから歓声があがる。
「次! お嬢様たち、ワタシと交互に歌おう! 掛け声をちょうだい、せーの!」
こういうときにこそウインクすりゃいいのに。ああ、でも、いらないか。イミナは答えを感じ取っていた。誰彼構わずお嬢様にして、仕えると言いながら相手を魅了してしまう。彼女は今や、そういうものだ、それでもメイドなのだ。
「お嬢様たち、ありがとう!」
歌い終わったメイド、拍手する人間たち。先輩がどんな歌をやってたかなど、もちろん知ったこっちゃない。あくまで儀式なのだから、村の言い伝え通りの歌だろう。それが歌われたのは、知識という糸が確かに生きている証拠だ。
儀式の間にイミナは確かにその目で見て、覚えていることがある。あのお兄ちゃん少年が、声を上げて手を叩く。年下の子供たちと一緒に、楽しそうに盛り上がる。その光景がなんだか新鮮で。彼らの笑顔が、胸に残っている。
お嬢様たちを村に帰し、イミナはルナティックと二人、磨かれた舞台に残る。――しかし、この床が鏡だったとは。片付けの途中で、先輩が詳しいことを教えてくれた。
「元々、この鏡を囲むように祭壇があったらしい。神を祀っている大きな祭壇なんだって」
「神ってなんです?」
「なんだろうね?」
議論は成立せず終わった。
忘れてはいけないが、依頼が完了するのは雨が降ってからだ。それまでは魔導師が鏡を見張り、守らなくてはならない。それが夜であっても。
先輩は床――鏡にハンカチを広げて、くまのぬいぐるみを座らせた。
「ただいま戻りました、お嬢様」
ぬいぐるみにかけた声がこれだ。
「これから寝床のご用意をいたしますね」
今日は寒いですから、暖かくしましょう、と。ぬいぐるみは返事をしない。
本当のお嬢様――二人が本来、お嬢様と呼んでいた人は、イミナと先輩が仕えていた屋敷の主である。出会ったときの、昔の話だ。
人間であったその人は、すぐにお嬢様という年齢ではなくなった。主と同じように年をとる侍従たちと共に、変わらぬ姿の二人は彼女に仕え続けた。そこに人間と魔導師の境界はなかった。主もメイドもお嬢様という言葉を気に入って、そこそこの幸せを日常としていた。
お嬢様が老いても、皆は穏やかに支え合っていた。残りの時間を惜しむように。お別れは想像より早く来て、年をとった人間はありふれた風邪であっけなく生涯を終えた。
――死に目に会えなかったのは先輩だけだった。
「お嬢様、今日は雨が降るまでここで待つことになりました。もし降り始めたら、すぐに傘を差しますから、お気になさらず」
彼女ひとりの、ずっと変わらない声色が響く。
死者を見送る式だってやった。先輩もそこにいたのに。老いていくのも衰えていく姿も毎日見ていたはずなのに。「あの人」が失われたということを、このメイドはまだ認識できていないのだ。
けれど世界は違う。
他の者は事実をはっきり認識しているし、暮らした屋敷もすでにない。後輩の執事は偽名を別のものに変えている。すべての変容から類推できるはずの事実も、先輩は素通りして旅を続けている。
自分の世界とそれ以外とのギャップを埋めるためか、この人は「仕える」先を延々と増やし始めた。魔導師である自分たちを頼る人、正すべき過ちをぶつけてくる人。誰彼構わず「お嬢様」と呼び、そのくせして、一人たりとも「お嬢様」の代わりにはできていない。
(この人は壊れたメイドで、オレはその後輩)
最終話を失って終われなくなった、迷子のエピローグが彷徨っている。魔導師たちが先輩を奇人と呼ぶのは、彼女の歯車がおかしいのを感じ取っているからだろう。
中でも長く生きた者には、苦労しているとか、やめてしまえと言われることもある。
それなのに、ここまで二人旅を続けてしまったのは、ここまで二人旅を続けてきてしまったからだ。
イミナは自分と彼女の物語がどうなるのか、火を見ずともわかっていた。ルナティックはいなくなる。イミナの最終話には、単なる別れがある。
先輩はもうじきこの世を去る。傍にいる魔導師としての確信だった。
いつ誰が始めたかわからないが、己の死を悟った魔導師は、その直前、手近なものに自分の名を書き残すという。
亡骸の残る人間と違って、魔導師の身体は命が終わればひび割れ崩れて消えてしまうから。衣服、武器、愛用品、それらの「自分」を指すモノに、名を記すのは、名前の持ち主が死に至ったと後の世に示すためだ。
イミナはその瞬間を、きっと見つめることになる。
先輩はそれを知らず、毛布のかかったくまのぬいぐるみ――お嬢様をランタンで照らす。薄い雲がかかる夜。ただ待って過ごすには、静かすぎた。
儀式の一環として、自分たちは雨が降るまで、この鏡を見守る必要がある。これで本当に雨が降ったら、またルナティックは有名になって、そのちぐはぐな言動と共に噂が広まるのだろう。雨を待つという手順は夜であっても変わらない。周囲を照らすランタンの火が、明るく明るく燃えている。
「夜明けまで、オイルが切れなければいいが」
「無理でしょ、ここまで来たら」
イミナは即答した。が、別にこのランタンを信用していないわけではない。いま魔法の火や灯りを使うと、儀式で整えた雨の気配が台無しになってしまう。それもわかっている。
「イミナには、魔法のない夜が長く思えるのかい?」
「魔法がどうより、旅の夜は寝れるか寝れないかでしょ。夜明かしの雑談のわりになんかズレてません?」
雨が降ろうが、日が昇ろうが、この先輩に夜明けは来ない。
(アンタはもう長くないんだから)
そんなぼやきを、本人に聞かれるわけにはいかないが。揺れる火を灯りにすると、わけもなく肌で感じる。彼女は残り少ない命を、無意識に燃やして生きている。そうして人間たちを照らしているのだと。そして、このメイドにオイルをさしてくれる人は、もういないのだ――と。
そう遠くない先の話。先輩がいなくなったら、イミナはまた名前を変える。新しく始まる自分は、第一話からもう、失う覚悟の固め方を覚えているのだろう。
彼女の命が燃え尽きた後。この有名なメイド服に魔導師の署名が遺っていたら、それは間違いなく先輩を示す。けどこの人が、長く伝わる習慣に従うだろうか?
そこに名前を書くとしても、先輩は本名を書くだろうか。多くの人に伝わる通名として、ルナティックの名を記すのか。それとも、お嬢様といた頃の――。
「イミナ、見て。鏡が濡れ始めている」
薄く月光を遮っていた雲は、いつのまにか分厚く、見上げた先に空はなかった。雨が降り始めている。言い伝えの通り。
「やっぱ先輩すげーじゃん」
「イミナが手伝ってくれたからこそだよ」
「じゃあもっと感謝してくださーい」
返事代わりの乾いた笑いとは裏腹に、髪が、服が、しっとりと濡れていく。降り始めの細かい雫は、肌に触れてもいやにならない、気持ちのいい霧のよう。
ふと先輩を見ると、いつのまにかくまのぬいぐるみに傘をさしていた。さすが仕事が早い。それでこそメイドというものだ。言い訳みたいに笑う。結局こういう関係だった。
うっすら感じていた予感が結論になっていく。イミナという名の魔導師が果たす最後の仕事は、随所に「魔導師ルナティックは死んだ」と伝えて回ることなのだろう。
「先輩、お嬢様。夜が明けたら、村の方に知らせに行きましょうか」
それまでは、先輩の気狂いに付き合ってやろう。後輩のよしみで。
ん? と喉の音だけで返事をする相手に、不満を続ける。
「これ、いつまで磨いてりゃいいんすか」
イミナが磨いているのは、自らが立つ床であった。床といっても、ここは屋内ではない。郊外の開けた荒地に、なぜか一段高くなっている四角い床があるのだ。しかも、昨日村で泊まった宿屋の寝室より広い。
執事として屋敷暮らしをしていたイミナにとって、床磨きは慣れた作業だ。だが今回の場合、状況に謎が多すぎる。
屋外になぜかある床。屋根もなければ、人が住んでいた形跡もない。場所も村のはずれで、郊外なので今だって人気はない。
これを綺麗にする必要性が不可解なのだ。が、先輩によるととりあえず磨かなければならないらしい。
「いつまでと問われるなら、泥の汚れが視認できなくなるくらい?」
先輩はからからと笑う。どこにいてもノリの変わらない同じような会話と反応。たとえば第五話あたりを繰り返すような、ぐずぐずに空回るやりとりだ。
「これでオレに長物持たせたいだけとかだったら怒りますよ」
「はは、まさか。ワタシにもこちら側でやることがあるから、イミナに掃除を任せてるのさ」
先輩から提供された道具は何の変哲もないモップである。これ一本で相手する数え切れない汚れは、土や泥でできていて、濡らして擦ればなんとか落ちる。魔法で落とすなと指示された以上、互いが魔導師であることはあまり関係がなくなっていた。
作業は滞りなく進んでいるが、なにしろ磨くべき箇所が多い。つまりは手が足りない。イミナの状況を察したのか、時間をあけて言葉が続く。
「大丈夫、終わったらワタシも手伝うさ。お嬢様がお待ちだからね」
メイド服のエプロンを結びなおして、先輩はそう言った。
この先輩という人は、イミナにとって旅の連れである。魔導師二人連れの旅はよくあることらしいが、この人との旅路はおかしなことばかり起こる。どうやら先輩は有名な魔導師なのであった。奇人として、そして狂人として。偽名を名乗る前に、「ルナティック」という通称が浸透するほどには。
どこへ行くにもメイド服なせいで貴族の使いだと思われ、金目当てで盗賊に襲われたり、返り討ちにした争いが武勇伝として広まったりした。
他にもいわれない諍いに巻き込まれたり、ルナティック自身の愛好家同士が争うのをイミナが仲裁する羽目になったり、引かされた貧乏くじの数だけは自信がある。
特に別の魔導師を慕う集団に敵視されたときは、いっそ自分だけ逃げようかと真剣に考えた。それなのに、ここまで二人旅を続けてしまったのは――。ため息。
床から目を逸らして盗み見れば、視界の端にちらり、姿が映るだけで異常に目立つ。この刺すような存在感が、魔導師にも人間にも語られているのだろう。
(行動のことも魔力もあるけど、それ以前にこの人見た目も強いんだよな)
ショートウルフに整えたブロンドの髪、切れ長でぱっちりとした目。まっすぐな瞳は、空が高いときの青色だ。白い肌には艶めく光りが見えるという。
すらりとした立ち姿、イミナが見上げるほどの背丈。くっきりした目鼻立ちもあって、強さを兼ね備えた美形という印象が目を引く。
顔面が美男子で服装がメイドなのだから、目立つことこの上ない。
どの町に行っても、人間のファンがたくさんできてしまう。旅路のどこでも、同じ風景。人だかりに迫られるのは呆れても慣れない。一人でやってろと何度も思った。
そもそもイミナにとってルナティックは、侍従としての先輩であった。魔導師を手軽な武力として扱う人々に頼られ、襲撃した先の豪邸に強固な番人――そのメイドがいた。イミナを捕まえた彼女は、「ちょうどいい」と言って、そのまま侵入者を執事にしてしまったのだ。
(もう昔の話だ)
その役職が、役に紐づいた関係が、今になっても続いている。
切り揃えた髪も執事服も、たしかにあの頃のままにしている。お嬢様が――お嬢様に従う先輩が、イミナを執事に仕立て上げた姿。今となってはもう。
(あの人には同じことだけど、オレにはわからなくなってる)
執事という役職なのか、ただの後輩なのか。屋敷での生活を終えた後、行き場に迷ったイミナはルナティックと呼ばれる魔導師にそのまま連れていかれた。その結果が前述した通りの珍道中だ。
間違いなく、彼女はイミナの運命を狂わせた。自分の人生なんて運命というほど大した話でもないだろうけど。
ため息を飲み込んで仕事に戻ると、二本目のモップを持って、先輩が床の泥汚れへと上がってきた。
「イミナ、待たせたね。ワタシも加勢するよ。二人でやった方が早いだろう」
そういうときにウインクをするな。
力を入れて床を磨くと、銀色のそれはキュッキュッ、と音を立てて綺麗になっていく。感心のような達成感があった。この床と、自分とモップとを褒めてやりたい。アンタ案外光れるじゃん。
長い年月で積み重なった汚れだと思っていたが、魔法を使いたくなるほどの強敵はいない。この床を汚すのが砂や土が固まったものだというなら、わざわざ魔導師二人とモップ二本で、時間をかけて掃除するだろうか。
「こんな汚れ、雨でも降ったら落ちそうですけどね」
「降ってないんだよ、雨が。だから本来なら雨で落ちるはずの汚れが、この鏡に残ってんの」
「鏡?」
先輩は、イミナの言葉より数歩先を答えた。
「ワタシが依頼されたのは、儀式だったんだよ。雨を降らせるための」
――儀式。
魔導師が自身で使う者とは違う、影響と規模の大きい魔法の術式。難しい魔術には、決まった手順や特別な道具といった、複雑な方法を用いることがある。住処を構えて暮らしている魔導師は別だろうが、旅暮らしの自分たちがやろうと思ってすぐできるものじゃあない。儀式魔法はその最たる例、のはずだ。
「んなことするなら、もっと色々揃えるもんがあるでしょう。それらしい仕込みなんて、オレらやってませんよ」
「祭壇を模す装飾が必要だけど、もう手配済みさ。あとは配置するだけ」
――聞かされていない。なにも!
詳しく問い詰めると、ルナティックがそれらの道具を準備していたのは昨晩。ちょうどイミナが宿で休んでいた頃らしい。依頼があったという話も今朝聞いたばかりなのに。そういうことか、という納得、もしくは諦めがイミナを苛む。
「ワタシがお嬢様から受けた依頼だからね。できる限りこの手でやりたいものさ」
つまりはいつものことだった。イミナの物語は、今や先輩がばんばんと周りの困りごとを解決する旅になっている。知らない誰かの依頼を解決するために、凄まじい勢いで行動する先輩。また、同じ風景の繰り返し。第何話かを数え飽きた、無くても変わらない物語。
あえてひとつ、注釈を入れるならば。この人は依頼人のことを、いかなる相手でもお嬢様と呼ぶ。
「おや、お嬢様」
今回お嬢様と呼ばれたのは、近くの村に暮らす人間の老婆だった。頭を下げるルナティックに倣って、イミナも後輩らしく礼をする。
「どうも。オレはイミナ。ルナティックの手伝いみたいな魔導師だ。おばあさ――お嬢様、あなたが依頼を。このあたりに伝わる儀式があるなんてよく知ってたな」
全てがそうではないだろうが、儀式は「魔導師一人ではできない大がかりな魔法の再現」であることが多いらしい。曲解を防ぐため、存在そのものを隠されていることだってある。イミナが気になったのはその出所だ。いったいどこから、村の人間がその方法を見出したのか。
「言い伝えがあるってことを、うちの人が日記に遺してたのよ」
雨が減り始めた頃、老婆は年老いた夫を亡くしたらしい。博識だという彼が、病の末、生きているぎりぎりで伝承の存在を思い出した。存在という手掛かりから、村人たちが昔の記録をひっくり返して、別の手掛かりが見つかり――その連鎖で、儀式の全貌が明らかになったという。ちょうど同じ頃に、魔導師ルナティックの噂が村に届いたとも。
「そんなこともあるもんか」
と、軽く呟いた。まるで最終話目前で奇跡が起こる物語みたいだ。
「これであの子たちも元気を出すといいけど」
「あの子?」
「うちの人、村の子供に人気だったの。物知りおじいちゃんって。それがいきなりいなくなって、みんな寂しがってね」
――いきなりいなくなった。
なんだか突然喉が渇いて、イミナは唾を呑んだ。同族を亡くした人間にかける一言が、つっかえて出てこない。時間の違う生き物と同じ言葉を使うとき、口は重くなるものだ。
「それは、」
「病気のことを、大人だけの秘密にしていたから。子供たちにとっては突然のことだったの」
老婆は落ち着いて語っている。それは亡き人の連れ合いとして、ふたりで積み重ねたものに支えられているからだろう。けれど、そうでない者は。
「幼い子は、まだわかっていないみたいだけど。まとめ役をしていた年上のお兄ちゃんは、ひどく落ち込んでしまって。その子は外に出なくなってしまったの。わたしが言葉をかけても、気を遣うばかりだから何も言えなくて」
今度こそイミナは困り果てた。気持ちの話だとわかったからだ。仮に彼らが魔導師であっても、同じ想いをするということも。
「それは、小さい子たちもいつか、わかるようになるといいな。大事なことだから」
さよならを言えないのも。きっと、言えなかったと知るのも。
「お兄ちゃんの方も、……つらいよな」
失うことで思い知らされる大切なんて、イミナの中ではもう第二話が始まる前に語りつくしていた。繰り返した風景のよくある話、その前の。イミナにとって、他人事ではない段階の話。
「そのお兄ちゃんっていうのは、ここに来るのか?」
「来てみて、とは言っているけれど」
老婆に続いて、見に来る村人が増えてきていた。もちろん先輩に惹かれる人も多い。興味津々な子供たちはすぐ見つかった。が、お兄ちゃんらしき少年の影は見当たらない。
「来てもらいましょう」
うわ。と声に出た。先輩だ。敬語のルナティックは、依頼人に対して真摯だ。イミナに対してはちっとも真摯でないが。
「儀式の最終段階では、みなさんに並んでもらうことになるので」
ありがとうね、と老婆は頷いた。今から村の中心人物たちが先輩のところに集まって、これからの段取りを聞きに来るらしい。
最終段階。この人はまた、独力で突き進むのか。
「ってことは、この後まだ手順があるんだな」
床らしきものこと鏡を綺麗にして、魔法陣と道具類を祭壇のように配置して、村人をその前に整列させて――それから?
「ワタシがここで歌うのさ」
「は?」
魔導師が鏡に乗って歌う。人間たちがその歌に掛け声を合わせる。それが儀式の肝だった。歌の後は、雨が降るまでこの大きな鏡を見守っていなければいけないらしい。しかも魔法を使わずに。
――ここは劇場か何かか? そう思わずにはいられない内容だった。特に前半。
「お嬢様たち、いらっしゃいませ」
どこで覚えてきたのか、いかにもといった演者の振る舞いで先輩は観客を迎える。人間たちは綺麗なひとだと息を呑み、感嘆を漏らす。まあ、先輩の見た目はこういう役回りに向いている。
イミナは子供たちに手を引かれている少年に気づいた。見るからに不健康そうで、けれど敏い目をしてこちらの様子を窺っている。あの子が老婆の言ったお兄ちゃんか。
数はそう多くないが、村人らの列もリサイタルの客席じみてきた。イミナの主な仕事は整列だったが、流れ作業も同然だった。
さて、と頃合いを見て、魔導師ルナティックは鏡の上で参加者の人間たちに呼びかける。
「今から歌うから、お嬢様たちは手拍子で応援して! 準備はいいね! 行くよ!」
本当に儀式かこれ。もうちょっとした祭りじゃないか? いや祭りは儀式になり得るけど、とイミナが考え込む。先輩は何か素敵なポーズをしたらしくて、村人たちから歓声があがる。
「次! お嬢様たち、ワタシと交互に歌おう! 掛け声をちょうだい、せーの!」
こういうときにこそウインクすりゃいいのに。ああ、でも、いらないか。イミナは答えを感じ取っていた。誰彼構わずお嬢様にして、仕えると言いながら相手を魅了してしまう。彼女は今や、そういうものだ、それでもメイドなのだ。
「お嬢様たち、ありがとう!」
歌い終わったメイド、拍手する人間たち。先輩がどんな歌をやってたかなど、もちろん知ったこっちゃない。あくまで儀式なのだから、村の言い伝え通りの歌だろう。それが歌われたのは、知識という糸が確かに生きている証拠だ。
儀式の間にイミナは確かにその目で見て、覚えていることがある。あのお兄ちゃん少年が、声を上げて手を叩く。年下の子供たちと一緒に、楽しそうに盛り上がる。その光景がなんだか新鮮で。彼らの笑顔が、胸に残っている。
お嬢様たちを村に帰し、イミナはルナティックと二人、磨かれた舞台に残る。――しかし、この床が鏡だったとは。片付けの途中で、先輩が詳しいことを教えてくれた。
「元々、この鏡を囲むように祭壇があったらしい。神を祀っている大きな祭壇なんだって」
「神ってなんです?」
「なんだろうね?」
議論は成立せず終わった。
忘れてはいけないが、依頼が完了するのは雨が降ってからだ。それまでは魔導師が鏡を見張り、守らなくてはならない。それが夜であっても。
先輩は床――鏡にハンカチを広げて、くまのぬいぐるみを座らせた。
「ただいま戻りました、お嬢様」
ぬいぐるみにかけた声がこれだ。
「これから寝床のご用意をいたしますね」
今日は寒いですから、暖かくしましょう、と。ぬいぐるみは返事をしない。
本当のお嬢様――二人が本来、お嬢様と呼んでいた人は、イミナと先輩が仕えていた屋敷の主である。出会ったときの、昔の話だ。
人間であったその人は、すぐにお嬢様という年齢ではなくなった。主と同じように年をとる侍従たちと共に、変わらぬ姿の二人は彼女に仕え続けた。そこに人間と魔導師の境界はなかった。主もメイドもお嬢様という言葉を気に入って、そこそこの幸せを日常としていた。
お嬢様が老いても、皆は穏やかに支え合っていた。残りの時間を惜しむように。お別れは想像より早く来て、年をとった人間はありふれた風邪であっけなく生涯を終えた。
――死に目に会えなかったのは先輩だけだった。
「お嬢様、今日は雨が降るまでここで待つことになりました。もし降り始めたら、すぐに傘を差しますから、お気になさらず」
彼女ひとりの、ずっと変わらない声色が響く。
死者を見送る式だってやった。先輩もそこにいたのに。老いていくのも衰えていく姿も毎日見ていたはずなのに。「あの人」が失われたということを、このメイドはまだ認識できていないのだ。
けれど世界は違う。
他の者は事実をはっきり認識しているし、暮らした屋敷もすでにない。後輩の執事は偽名を別のものに変えている。すべての変容から類推できるはずの事実も、先輩は素通りして旅を続けている。
自分の世界とそれ以外とのギャップを埋めるためか、この人は「仕える」先を延々と増やし始めた。魔導師である自分たちを頼る人、正すべき過ちをぶつけてくる人。誰彼構わず「お嬢様」と呼び、そのくせして、一人たりとも「お嬢様」の代わりにはできていない。
(この人は壊れたメイドで、オレはその後輩)
最終話を失って終われなくなった、迷子のエピローグが彷徨っている。魔導師たちが先輩を奇人と呼ぶのは、彼女の歯車がおかしいのを感じ取っているからだろう。
中でも長く生きた者には、苦労しているとか、やめてしまえと言われることもある。
それなのに、ここまで二人旅を続けてしまったのは、ここまで二人旅を続けてきてしまったからだ。
イミナは自分と彼女の物語がどうなるのか、火を見ずともわかっていた。ルナティックはいなくなる。イミナの最終話には、単なる別れがある。
先輩はもうじきこの世を去る。傍にいる魔導師としての確信だった。
いつ誰が始めたかわからないが、己の死を悟った魔導師は、その直前、手近なものに自分の名を書き残すという。
亡骸の残る人間と違って、魔導師の身体は命が終わればひび割れ崩れて消えてしまうから。衣服、武器、愛用品、それらの「自分」を指すモノに、名を記すのは、名前の持ち主が死に至ったと後の世に示すためだ。
イミナはその瞬間を、きっと見つめることになる。
先輩はそれを知らず、毛布のかかったくまのぬいぐるみ――お嬢様をランタンで照らす。薄い雲がかかる夜。ただ待って過ごすには、静かすぎた。
儀式の一環として、自分たちは雨が降るまで、この鏡を見守る必要がある。これで本当に雨が降ったら、またルナティックは有名になって、そのちぐはぐな言動と共に噂が広まるのだろう。雨を待つという手順は夜であっても変わらない。周囲を照らすランタンの火が、明るく明るく燃えている。
「夜明けまで、オイルが切れなければいいが」
「無理でしょ、ここまで来たら」
イミナは即答した。が、別にこのランタンを信用していないわけではない。いま魔法の火や灯りを使うと、儀式で整えた雨の気配が台無しになってしまう。それもわかっている。
「イミナには、魔法のない夜が長く思えるのかい?」
「魔法がどうより、旅の夜は寝れるか寝れないかでしょ。夜明かしの雑談のわりになんかズレてません?」
雨が降ろうが、日が昇ろうが、この先輩に夜明けは来ない。
(アンタはもう長くないんだから)
そんなぼやきを、本人に聞かれるわけにはいかないが。揺れる火を灯りにすると、わけもなく肌で感じる。彼女は残り少ない命を、無意識に燃やして生きている。そうして人間たちを照らしているのだと。そして、このメイドにオイルをさしてくれる人は、もういないのだ――と。
そう遠くない先の話。先輩がいなくなったら、イミナはまた名前を変える。新しく始まる自分は、第一話からもう、失う覚悟の固め方を覚えているのだろう。
彼女の命が燃え尽きた後。この有名なメイド服に魔導師の署名が遺っていたら、それは間違いなく先輩を示す。けどこの人が、長く伝わる習慣に従うだろうか?
そこに名前を書くとしても、先輩は本名を書くだろうか。多くの人に伝わる通名として、ルナティックの名を記すのか。それとも、お嬢様といた頃の――。
「イミナ、見て。鏡が濡れ始めている」
薄く月光を遮っていた雲は、いつのまにか分厚く、見上げた先に空はなかった。雨が降り始めている。言い伝えの通り。
「やっぱ先輩すげーじゃん」
「イミナが手伝ってくれたからこそだよ」
「じゃあもっと感謝してくださーい」
返事代わりの乾いた笑いとは裏腹に、髪が、服が、しっとりと濡れていく。降り始めの細かい雫は、肌に触れてもいやにならない、気持ちのいい霧のよう。
ふと先輩を見ると、いつのまにかくまのぬいぐるみに傘をさしていた。さすが仕事が早い。それでこそメイドというものだ。言い訳みたいに笑う。結局こういう関係だった。
うっすら感じていた予感が結論になっていく。イミナという名の魔導師が果たす最後の仕事は、随所に「魔導師ルナティックは死んだ」と伝えて回ることなのだろう。
「先輩、お嬢様。夜が明けたら、村の方に知らせに行きましょうか」
それまでは、先輩の気狂いに付き合ってやろう。後輩のよしみで。