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 私の一日は口づけから始まる。
 口づけがなければ、私の一日は始まらない。誰かにキスをもらわないと、目を覚ますことができないから。目覚めなければ、生きてないモノと同じだから。

 ――それが、スノウホワイトという少女人形の運命だから。

 私が眠っていた場所は、森に隠れた家だった。
 家。といっても、家屋というほど大きなものではない。他の人なら小屋と呼ぶでしょう。木の床、石でできた屋根。元々ここにあった、壊れた倉庫を修理してもらったものだ。
 けれど今は綺麗に掃除されているし、飾り気がなくても不満はない。見渡すだけですべてが目に入る、小さな佇まいが気に入っているのだ。遠くにいけない私には合っているから。
 壁も床も傾いていないし、屋根は崩れないよう頑丈だ。

 この建物は、墓守と名乗る男の子が整備してくれたものだ。ぶっきらぼうで頑固だけど、本当は優しい魔導師さん。ここを家にしてもらうときも、日当たりが良すぎると暑くないか、なんて心配してくれた。
 私は暑さなんて感じないのだけど。

 いま私が目覚めたのは、色鮮やかな棺の中だ。ずっと昔、誰かによって仕舞われた。姿も大きさも人間と同じ人形を放っておく場所に、棺を選んだらしい。葬りたかったみたいだ。私の存在を。

 寝床から身体を起こすと、女の子がいた。こげ茶の髪、二つ結びがゆれて、わたしを見下ろす。二人目の同居人もまた魔導師だった。
 この子が口づけをくれて、つまりは私を起こしてくれた。スノウホワイトがキスをされるなら、女の子からの方がまだ嫌じゃないと思う。恋の相手じゃないなら尚更――という気遣いをしてくれた子。棺売り、と名乗っている魔導師だ。

 彼女が手を貸してくれて、私は棺から出る。外側から棺を見ると、私好みに花の模様が彫られている。これは最初に私が葬られたときの、無骨なものとは違う。
「やっぱりお気に入りだわ、この棺」
「そうでしょ? お探しの物と、お似合いの人の縁を繋ぐのが僕の仕事だからね」
 目の前の少女が胸を張った。人の気持ちによく気が付く、素直な子だ。

 棺売りという名の通り、彼女は棺を扱う商人だ。古い棺で眠る私のために新しい棺を見つけてきてくれた。可愛らしく中まで凝った造りのもの。
 引き換えにあっさりと珍しい品を差し出して、自慢げに笑うのだ。きっとこれなら寒くないと思う、と。
 私は寒さとか感じないのに。

 あついもさむいもわからないカラダで、どんな温度も不快ということはないけれど。この二人がいて、やっぱり嬉しかった。

 墓守さんと棺売りさん。二人は元々旅の魔導師で、人のいない墓を整備していたみたいだ。私と出会ったのもその途中で、今はここに住んで、同じ生業を続けている。
 棺売りさんは男子の服装をしていて、商人の上着を羽織っている。ところどころ見慣れない折り目の着こなしは、異国の襟を隠す工夫らしい。墓守さんは古い服を魔法で無理やり長持ちさせている。動きにくそう。
 二人の服装に対する私の意見を差し置いて、彼らはほとんど寝ているだけの私の身だしなみの方に気を遣っている。森の外と同じ時間が流れる中で、私が眠り過ぎないようにとときどき起こしてくれる。

 暖かそうな日差し。窓から見える庭の花壇。同じ家の友達。日常で、暮らしで、生活だ。
「墓守さんはいないの?」
「少し外を見回りしてるみたい。風が強くなってきたの」
「そうね。前起こしてもらったときは、花も木の葉も、こんなに揺れてなかった。……墓守さんは、遠くまで行ったの? 心配」
「それが――墓守くん、悩み事でもあるんじゃないかって。スノウホワイトを起こすって言うのに、家にいないんだ」
「言われてみれば、珍しい」
 他愛もない会話にも慣れた。目を覚ましたら、眠ったのと同じ家の中。きっと他の誰かには当たり前のことが、私にとっては貴重で、かけがえのない、やっと手に入れた大事な日々だった。

 私は元々人形で、起こしてもらえなければ、動くこともない。それなのに、二人は私が私であるための心強い手助けを、モノじゃなくヒトのような「いつも」をくれる。

 嬉しかった。二人が、私のためにわざわざ考えてくれることが嬉しかった。――自分のためじゃなく。

 何かの実験のため組み込まれた心。
 誰かのお金のため造られた体。
 取引のための納めものだった少女人形。
 ――強い魔導師の女・ミランダの怒りを買わぬようにと造られた捧げもの。
 女王マリアベルの姿を模倣した代用品。それが私――スノウホワイトのはじまり。

 この姿も、この名前も、口づけがなければ目を覚ますことができない性質ですら、マリアベルの趣味趣向から引用したものらしい。
他に同族のいない、唯一の生きた人形。誰かの勝手でできた、ひとりぼっちの偽物女王。

 忌まわしい生い立ちを、まだ二人には明かしていない。何も言わなくても、誰かがそばにいてくれる。
 そんな今のままでいいから。

 ひとりで外に出ると、家のすぐそばに花壇がある。
 出会った頃。二人はこの小さな家じゃなく、お屋敷に住まうことも提案してくれた。私がそれを断ったのは、人間や魔導師――ヒトみたいな生活をしたくなかったから。
 パンケーキを食べることはないし、香水を使って魅せる相手もいない。そんな私に憧れがあるなら、かつて女王がそうしたように、庭でお花を育ててみたかった。
 私のおねがいを、二人は当たり前のように聞いてくれた。それで墓守さんが作った、庭と呼べそうな広い花壇だ。

 棺売りさんが仕入れた種や苗を植えて、みんなで代わる代わる花を育てた。だから、私がいつ目覚めても、なにかの花が咲いている。
 時期と共に、花壇の色は移り変わっていく。この前はピンク、その次は紫、いまは白。撫でるように名前を呼ぶ。
「スノウホワイト」
 甘い匂いで有名な白い花。鈴蘭薔薇と言われる貴重な種類だ。私と同じ名前の、特別な花。咲いたら必ず起こしてと、何度も何度も言って、楽しみにしていた。だから“今日の朝“は、こんなに綺麗。雪原に似た白で、眩しいほど揺れる不思議な花。私の好きな花。
「嬉しいな」
 見ることが、触れることができて嬉しい。こんな理由で起こされるなんて、まるで人形じゃないみたいだ。

 それまで私を起こすのなんて、ろくな相手じゃなかった。興味本位の人間か、過去に繋がりのある魔導師くらいだ。後者は長命だし物覚えもいいけど、流石に、あまりよくない縁しか残ってない。

 だから、硬い靴の足音がするとしたら。
「綺麗な花だね」
 声をかけられるとしたら――誰かが会いに来るとしたら。
 それは私と話しに来た人か。
「やっと見つけた」
 そうでなければ、私を、消しに来た人。

 ウサギの耳が付いたシルクハット。輝く金色の三つ編みおさげ。絵本の白兎みたいな赤い目。赤いチェックのワンピース、その上に羽織った燕尾のジャケット。
「座長さん」
 座長と呼ばれたその人・ドロシーは、舞台上のように一礼をした。
「起きてたんだね、スノウホワイト」
 前と同じ台詞。前と同じ振る舞い。彼女は、私を消そうと近づく魔導師。金髪を可憐に揺らす。優雅なしぐさにも、油断しちゃだめ。嫌いじゃないけど、敵だから。

「ここまで、何をしに来たの」
 置き場を――住処を移動してから、彼女が来るのは初めてだ。墓守さんと棺売りさんと出会ってからは。それ以前は何度も何度も、私に会いに来ていた。
 しばらく見なかったけど、ついにここを突き止めたらしい。

 背後で魔法の気配がした。棺売りさんが、窓から小さな花火を打ち上げている。墓守さんを呼ぶ合図だ。座長ドロシーの存在を教えたことはないけれど、彼女が危ない相手だって伝わったのかもしれない。
「キミの他に誰かいるんだ」
 けど、強力な魔導師として知られるドロシーが、その魔法を見逃すわけがない。
 二人のことに気づかれた。
「スノウホワイトが一人でいないなんて初めてじゃないか。どんなお仲間にしても、ボクを歓迎するつもりはなさそうだ。どこの派閥かな?」
 探りを入れてくるけど、彼女は勘違いしてる。私と追っ手の問題は、一緒に暮らす二人には関係ない。それどころか、このお話に巻き込みたくもない。だって。
「派閥なんて知らない。友達よ」
 ドロシーが目を丸くした。
「そこの三つ編み!」
 叫び声が私たちを止める。駆けつけた墓守さんが、ドロシーを睨んだ。

「何の用事でここまで来た?」
「キミたちが、スノウホワイトの」
 ドロシーはふわりと振り返る。魔法の気配を隠そうともしない。彼女がどれだけ強い力の持ち主か、誰もがその態度で察するのだ。
「勧誘だよ。ボクはドロシー。劇団オズマの座長をしてる。スノウホワイトとは知り合いでね、劇団の一員になってほしくて会いに来たのさ」
 親しみをもたせるような、なめらかな少女の名乗り。
 でも墓守さんは突っぱねた。
「劇団か。生憎俗世には疎いんだ。スノウホワイトを舞台に立たせて、見世物にでもするつもりか」
「見世物とは」
 ドロシーが一度吐き捨てて、一息のあと咲くように笑った。

「勘違いも甚だしいね。劇団オズマは国一番。ひとたび現れれば、たちまち誰もが我先にと集う」
 さっと手を広げ視線を誘った。大げさな身振り手振りが、彼女にはよく似合う。
「ボクも皆も芸術をやってるのさ。まあ、芸術は観てみないと解らないもの。うちには変わり者が多いから誤解も多い。知らぬものにどう言われても仕方がないか」
 まるで演劇の一幕みたいだ。見たこともないのにそう思った。
「見た目が妙でも、嫌だとか変だとか思わないのが仲間たちだ。誰もが自分らしく過ごしてる。ボクは居場所を作ったにすぎない。演目はみんなで、よりよいものを目指して練習している――ああ、みんなと言っても、劇団は暮らしを支配しない。そのときだけ集まって、普段は別の場所で日常をしてる仲間も多いよ」
 ここにいなくても、彼らを知らなくても、ドロシーの仲間が揃っているように見えた。舞台に立って、楽しそうにしていて。
「たとえば、演目を考えてる劇作家アリスは有名でね」

 アリス。
 その名が私を現実に引き戻す。

「この子を劇団に誘ってるのはボクだけじゃない。アリスが会いたがってるんだ、スノウホワイトに」
 やっぱり、その名前が出てくる。アリスからは、どうしても離れられない。
「アリスが言うから、いつまでも私を探してるの?」
「どうだろう? ボクはキミのことも好きだから、どっちにしろ会いに来ているかも」
 嘘じゃないんだろう。これまで何度もドロシーは私を起こしたけれど、彼女の態度はいつだって紳士的で、私の心に寄り添おうとしてくれた。
 彼女がただの少女だったら、違う関係になれたかもしれない。ただ、ドロシーがかなえようとしているのはアリスの要望だ。
 そして、ドロシーの気持ちがなんであろうと、アリスの考えは変わらない。

 特別な少女は、劇作家は何かを知っている。
 他の誰も知ってはいけない“秘密”を。

 ――大前提として、人形は生き物じゃない。
 マリアベルに似せて人形師に造らせたという私の体は、間違いなく人形のそれだ。生きているわけじゃない。
 けれど私は生きている。人形の体で生きるスノウホワイトを見たら、そのうち誰もが思うはずだ。
 その人形に命を込めたのは誰? どのようにして? それが可能だったのはなぜ?

 人々がいずれ持つそんな疑問を。命を作った私の造り手を。私の造り手がいたことを。
 つまりは“命の創造が可能だったという事実”を。
 アリスは抹消したいんだ。私の存在ごと。

 そんなのは嫌。いやだ。せっかく、友達ができたのに!

「答えは同じ。私はアリスのもとには行かない」
 いつもの答え。
「そっか。でもボクは引き下がらないよ」
 いつもの反応。
「キミをあきらめたくは――、いや、」
 ドロシーはここで、いつもなら、諦めたくない、と返す。
 でも彼女はそこから一度黙った。表情もなんだか、以前と違う気がして。いつもじゃないがある気がして、次の言葉を待つ。
「あきらめてはいけない、けど」
「けども何もないだろ、侵入者!」
 闇が光る。
 墓守さんが先に仕掛けた。魔法の刃。攻撃――戦おうとしている! 勝てるわけないのに!
「やめて! ドロシー相手に戦っても」
「わかってる! 棺売りを連れて二人で逃げろ。それくらいの時間は稼げる」
「墓守さんを犠牲になんてできない。私たちがあなたを捨てられるわけ」
「なんでもいい。俺はもう二度と奪われたくないんだ。早く」
 世界がとまり、時間がどんどん早くなる。考えるための余裕が、いつのまにか奪われている。日常はこんなにも儚い。窓から見ていた棺売りさんと目が合う。あの子もまだ迷っていた。儚いものは、壊れていくしかないの? それしかないの? 二歩下がって彼女の元に向かう。

 そのタイミングだった。

 光と音、強い魔法の音がした。誰かが突然おりてくる。上から? 空からだ。
 飄々とした佇まいと見慣れない服装。紫の混ざった不思議な黒髪を、結んで伸ばして、軽く揺らしている。
 魔導師だ。会ったこと、ない。
 ――誰?

「ロキくん」
 気づいたのはドロシーだった。
「お前まで来たのか」
 知っていたのは墓守さんだった。
「俺に用があるんだろ。何度も言ってる、エメラルドは知らない。奪われてそれきりだ」

 ――何が起きているの?
 三人分の声を読み込んで、思い出しながら考える。

 突然現れたのは、ロキと呼ばれた男。ロキといえば、少年王の従者として有名な魔導師だ。どこにでも現れて、王に従ってどんな非道なこともする。

 エメラルド。どこかの御屋敷に伝わっていた秘宝。
思い出すのは、いつか話してくれた過去。かつて墓守さんは、その秘宝を守っていた。けれど悪意の持ち主に奪われたという。

 つまり、今、別々だった運命がここに繋がってきている。
 ロキがエメラルドのために墓守さんを追いかけて、ドロシーはアリスのため私を追ってここに来た。
 これがどういう縁かはわからない。けれど、どうあれ私は捕まるわけにはいかない。でも。ためらいが勝ってうなだれる。
 大事な家の素朴な扉に背中を預けた。棺売りさんが、中で何かをしている音がする。逃げるための準備なのかな。

 ここから逃げるのだとしたら暮らしを、いつもを捨てなきゃいけない。嫌だ。

 それよりも。墓守さんをそっと見上げる。
 墓守さんはこちらに守護魔法を使ってから、私の――家の方と、ドロシーやロキの方とを交互に窺っている。
 どこかで隙をついて、私たちを本当に逃がそうとしているんだろう。それがお別れになっても。
「友達を置いていくなんて、耐えられない」
 寝床を壊されるより、花を踏み荒らされるより、心が痛む。

 せめて三人が無事なままでいられたら。そのために私はどうすればいいのか。有数の強い魔導師が二人も敵にいるのに。
 考えていて、おかしなことに気づいた。

 何もされていない。

 ドロシーがこっちに背を向けて、ロキを見据えて浮いている。そんな彼女を、ロキは睨んでいるようだった。互いに牽制しているみたいに。
 二人の追っ手は、対立していた。

 確かに戦いは起きている、けどどちらも動きはない。音や衝撃、地面の揺れ。魔法の流れは激しいのに、強力な魔導師たちは浮いたまま止まっていた。
 こっちに流れ弾が来ないように、墓守さんが守ってくれている。でも彼も、戦う二人の様子を見て戸惑っているようだった。

 ドロシーが何か言ってる。頑張れば、会話を聞けるかもしれない。全力で、わずかな魔力を手繰り寄せて耳を澄ませた。

「どうしてエメラルドを? ……ああ、聞くまでもなかったね。キミが動くならオズに命じられたのか」

 政戦と謀略の果てに女王の座を勝ち取ったマリアベルは、直系の子を残さなかった。そのため死後また政戦をもたらした。
 けれど、人間はある魔導師の圧倒的な魔力に怯えることになる。それがオズだ。彼がいつから王で、ここにいるロキという人がいつからその従者なのか、私は知らない。
 ただ、従者ロキは王の命令を遂行をするらしいというのは誰もが知っている。そこでドロシーの「命じられたのか」だ。
「命令じゃない」

「命令じゃない? 特別な力を持つ禁忌のエメラルドを探してるのに? オズが王の知恵を求めて、伝承のある禁忌を求めたわけじゃないんだ。まあ彼は元からそういうタイプじゃなかったけど」
 少年のまま玉座にくくりつけられた彼は、王様をやり続けようと、少年なりに頑張っている。過去の王を模倣し、従者の望む主を演じ、役割に操られている。
 でも、王は民からむやみに奪わない。命令じゃないなら、本当にオズの望みかどうかもわからない。
「じゃあロキくんの独断ってこと?」

「やるなと命じられたわけじゃない」
「相応しい主に、役割通りの王様になってほしい。っていう君の勝手ということ?」
 ロキからの答えはない。表情も、私からは見えない。
「従順なのに、忠誠心はないんだ。そんな忠臣おかしいの、キミもわかってるでしょ」
 長い間、噂では忠実な従者と聞いている。でも実物は、墓守さんに警戒されたまま、ドロシーに反論もできないまま。
「臣下は王を映すというが……」
 ドロシーはそこから先を語らなかった。必要ないとでも言うように。ロキという人もまた同じように「従者であること」に、役割に執着している。
 ――お人形のようだ。

 全部の言葉をようやく飲み下して、ロキが口を開いた。目的だった墓守さんも、その後ろの私も、もう見えていない。
「そういうお前もアリスの使いっぱしりじゃないか」
「座長ドロシーは劇作家アリスの部下だっていうの?」
「でなければ、お前たちはなんなんだ。劇団のよしみで願いを聞くとでもいうのか?」
「友達だよ」
 ためらいもなく、当たり前のことを言うドロシーと。返事の口数がゼロにかえったロキと。勝負が決したとはこういうことなんだと、どこか遠いことのように思った。


「それと、オズもボクと同じでアリスの友達。だから、敵に回さないほうがいい。知らなかった? なら、ちゃんとオズを見なくちゃ。――彼のこと話そう、二人で。ナイトは秘宝より主のほうが大事だろう?」
 といった、舞台しぐさの台詞を回して、ドロシーはロキをそのままどこかへ連れていった。


「いなくなった……」
「怪我はないか?」
 墓守さんが駆け寄ってくる。かけてくれた声も遠くにきこえた。
 知らない人の知らない事情のおかげで、アリスから逃れることができた。普段の暮らしがあることと同じくらい、壮絶な戦いも私にとっては現実離れしていて、だから。きっと、疲れてしまった。


 棺売りさんがへたりこんでいる。彼女も気が抜けているんだ。何かの布を抱きしめていると思ったら、部屋のどこかから紫の帯のようなものを取りだしていた。
「大丈夫か。棺売りの方までは、あいつらの魔法は届いてないはず」
「ちがうの。わたし、見つかってないよね、あの人に」
 浮かない顔で首を横に振ると、棺売りさんは言った。
「わた――僕の知ってる人。紫にひかる黒髪、間違えるわけない」
 ここに来る前の。また、私の知らない。
 ああ。呆然とした。

――私とアリス。ロキと棺売りさん。ドロシーとオズ。それから……。
 葬れない。
いまは離れていても、誰かと誰かを薄らと結ぶ縁をなくすことなんてできない。見えるものすべてを棺におしこめて、灰にしてしまったとしてもだ。
 
 それらのすべてを、私が知ることはないだろう。今、ここ、みんな、私にはそれだけでいい。私たちがここにいるだけで、勝手に運命が巻き付いて絡まってくる。
 同じようなことが、また起こるかもしれない。
 でも――。
「墓守さん。守ってくれてありがとう。私と、棺売りさんと、スノウホワイトの花まで」
 私は二人がいる限り、ここに残る道を選ぶだろう。

「そうだな。俺が毎日を守るから」
「本当にありがとう。毎日があるだけでも、やっぱり私、幸せだから」
 不思議な気持ちだった。失くしていたかもしれないものが、まだここにある。人が涙を流すのは、こういう感情のときなのかも。ぼんやりと夢みたいな気分がして、少し眠くなってきた。
「私、眠ってもいい? 嵐が去って、ほっとしたのかも」
「もちろん。おやすみなさい。僕、その間に考えてみる。故郷のこと、うまく話せるかもしれないから」
「おやすみ、スノウホワイト」

 ――そうして私の“今日”は終わった。
「僕も、戦力になるための魔法とか考えた方がいいかな」
「お前はいい。俺が皆の分まで戦うから――」
 棺の形をした寝床で目を閉じる。二人の声がするのを聞く。そしてこのまま、また“明日”まで眠るのだ。
 私たちの繋がりが続くことを祈りながら。
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