wonderland code
■水面を蹴ってバターを混ぜる
[4]やめない
あとのことはすべてレベッカから聞いた。
あの子の言葉を詰まらせていた恐怖は薄れ、落ち着いて話せるようになったという。レベッカは必要な情報を全部聞き取ったあと、数日かけて教授らと共にその行き場を割り出していた。
どうやって見つけたのか、それが故郷か追われた先なのか、レテは知らない。立ち入った話は聞かないことにしていた。
とにかく、はぐれた子は家族と再会できる手筈になっていた。
出発は今日の昼過ぎ。レベッカが同行するのもあって、レテは見送りに行くつもりだ。
自分もレベッカも、魔導師として無事にひとりを導いたのだ。
(うまくいって、よかった)
話をしたとき、レベッカは久々にたくさん寝たと上機嫌そうにしていた。これまであの子にベッドを譲っていたらしい。
あの長身がソファに収まるとは思えず、床に転がるさまを想像して少し笑った。儀式の夜に眠そうだったのも、学生寮の床が硬いせいだろう。
世間話じみたやりとりの中で、レテはしっかりとお土産の希望を引き出していた。再会の叶うあの子とその家族は、全員そろってクッキーに目がないのだという。
レテの持つレシピを総動員してクッキーを作ろう。家族全員で食べても、食べきれないくらい。
「気合いいれなきゃね」
レテが今いる場所は、寮ではなく広めの小屋だった。アカデミーに申請して、わざわざ個人で抑えた場所だ。申請書には使用用途を「研究」と書いたが、今のところ調理場としてしか使っていない。いつか学園側に聞かれたら、お菓子の研究と答える予定でいる。
キッチンテーブルには大量にボウルが並んでいて、計量を終えた粉が分けられている。作る種類が多いから材料も多様だ。
さて、この小屋にはレテによってさまざまな調理器具が運び込まれている。そのなかでも今日使うのは、絡繰と魔法を組み合わせた特注のルーン式天火竈 だ。まずはこれに魔力を注いで温めておく。
次はバターだ。風味重視と食感重視のクッキーで温度の違うものを使いたいから、半分にして別々のボウルに移す。片方は常温に戻すから少し放置。もう半分の冷たいバターを混ぜる。そのあとに、右のボウルに分けた粉を加えて――。
ずらりと並んだ材料を見て、レテの脳裏に自嘲がよぎる。
(ちょっと気合入れすぎたな)
いつものことではあるけれど。
何をいくら作るにしても、余るくらいでちょうどいい。ついでだからと言って、魔導師の談話室へと持っていくのだ。「最初からそのつもりで計量したでしょ」なんて、もう一人のレテには見抜かれているんだろう。
レテの趣味であるお菓子作りは元々、自分と兄とを喜ばせるために覚えた技術だった。売っているものを買うよりも作った方が早いし、安いし、何より近い。二人で暮らしていた頃から遠出はあまり好きじゃなかった。住処への道は複雑で、兄の先導がないと帰れなかったから。
もちろん今は違う。
レテは甘味を食べにどこにでも行くし、兄は弟を案内しない。よく知らない誰かのためにだってクッキーを焼きたいし、わざわざお菓子づくりのために小屋まで借りている。
(せっかく、できることがいっぱい増えたんだ)
別れて、放っておかれるまえの兄弟には戻れない。だからといってこの立場を降りたいわけでもないのだ。魔導師として、特別な立場の学生として。ここでしかできないこともたくさんある。
たとえば、たとえば、そう、今みたいにお菓子を。勝手にお菓子を持って行って、一緒に楽しむくらい許されるんじゃないか。甘いもの好き同士の、その場限りの「楽しい」には、二人の立場も過去も関係ないはずだ。
――気持ちに名前をつけてみればいい、かつてキャロにはそう言われたけれど。
ゼルへの感情に名前を付けるなんて無理だ。この気持ちは、零した後の戻らない水だ。広がっていくあの形に名前はない。同じことだ。
考えに耽るのと裏腹に、クッキーづくりの工程はてきぱきと進んでいく。一種類の生地を寝かせている間、レテは次の一種にとりかかる。残り半分のバターはしっかり常温になっている。
手作りのお土産も、自分の固有発現も、魔導師としてもつ魔法の力も。誰かのために。
人を苦しみから遠ざけられたなら、それでいいとレテは思う。
過去との対話は夢の中だけにしておきたい。何度水鏡のレテを蹴飛ばしても、ゼルが弟を思い出すことはないから。目が覚めてからのレテは、周りを見渡すようにしたいのだと、朝が来るほど意志を重ねる。
今も見るのは未来のほうだ。食べる人を喜ばせたいから、レシピ通りにバターを混ぜる。
レテはきっと、これからもずっとそんなふうに暮らしていく。
[4]やめない
あとのことはすべてレベッカから聞いた。
あの子の言葉を詰まらせていた恐怖は薄れ、落ち着いて話せるようになったという。レベッカは必要な情報を全部聞き取ったあと、数日かけて教授らと共にその行き場を割り出していた。
どうやって見つけたのか、それが故郷か追われた先なのか、レテは知らない。立ち入った話は聞かないことにしていた。
とにかく、はぐれた子は家族と再会できる手筈になっていた。
出発は今日の昼過ぎ。レベッカが同行するのもあって、レテは見送りに行くつもりだ。
自分もレベッカも、魔導師として無事にひとりを導いたのだ。
(うまくいって、よかった)
話をしたとき、レベッカは久々にたくさん寝たと上機嫌そうにしていた。これまであの子にベッドを譲っていたらしい。
あの長身がソファに収まるとは思えず、床に転がるさまを想像して少し笑った。儀式の夜に眠そうだったのも、学生寮の床が硬いせいだろう。
世間話じみたやりとりの中で、レテはしっかりとお土産の希望を引き出していた。再会の叶うあの子とその家族は、全員そろってクッキーに目がないのだという。
レテの持つレシピを総動員してクッキーを作ろう。家族全員で食べても、食べきれないくらい。
「気合いいれなきゃね」
レテが今いる場所は、寮ではなく広めの小屋だった。アカデミーに申請して、わざわざ個人で抑えた場所だ。申請書には使用用途を「研究」と書いたが、今のところ調理場としてしか使っていない。いつか学園側に聞かれたら、お菓子の研究と答える予定でいる。
キッチンテーブルには大量にボウルが並んでいて、計量を終えた粉が分けられている。作る種類が多いから材料も多様だ。
さて、この小屋にはレテによってさまざまな調理器具が運び込まれている。そのなかでも今日使うのは、絡繰と魔法を組み合わせた特注のルーン式
次はバターだ。風味重視と食感重視のクッキーで温度の違うものを使いたいから、半分にして別々のボウルに移す。片方は常温に戻すから少し放置。もう半分の冷たいバターを混ぜる。そのあとに、右のボウルに分けた粉を加えて――。
ずらりと並んだ材料を見て、レテの脳裏に自嘲がよぎる。
(ちょっと気合入れすぎたな)
いつものことではあるけれど。
何をいくら作るにしても、余るくらいでちょうどいい。ついでだからと言って、魔導師の談話室へと持っていくのだ。「最初からそのつもりで計量したでしょ」なんて、もう一人のレテには見抜かれているんだろう。
レテの趣味であるお菓子作りは元々、自分と兄とを喜ばせるために覚えた技術だった。売っているものを買うよりも作った方が早いし、安いし、何より近い。二人で暮らしていた頃から遠出はあまり好きじゃなかった。住処への道は複雑で、兄の先導がないと帰れなかったから。
もちろん今は違う。
レテは甘味を食べにどこにでも行くし、兄は弟を案内しない。よく知らない誰かのためにだってクッキーを焼きたいし、わざわざお菓子づくりのために小屋まで借りている。
(せっかく、できることがいっぱい増えたんだ)
別れて、放っておかれるまえの兄弟には戻れない。だからといってこの立場を降りたいわけでもないのだ。魔導師として、特別な立場の学生として。ここでしかできないこともたくさんある。
たとえば、たとえば、そう、今みたいにお菓子を。勝手にお菓子を持って行って、一緒に楽しむくらい許されるんじゃないか。甘いもの好き同士の、その場限りの「楽しい」には、二人の立場も過去も関係ないはずだ。
――気持ちに名前をつけてみればいい、かつてキャロにはそう言われたけれど。
ゼルへの感情に名前を付けるなんて無理だ。この気持ちは、零した後の戻らない水だ。広がっていくあの形に名前はない。同じことだ。
考えに耽るのと裏腹に、クッキーづくりの工程はてきぱきと進んでいく。一種類の生地を寝かせている間、レテは次の一種にとりかかる。残り半分のバターはしっかり常温になっている。
手作りのお土産も、自分の固有発現も、魔導師としてもつ魔法の力も。誰かのために。
人を苦しみから遠ざけられたなら、それでいいとレテは思う。
過去との対話は夢の中だけにしておきたい。何度水鏡のレテを蹴飛ばしても、ゼルが弟を思い出すことはないから。目が覚めてからのレテは、周りを見渡すようにしたいのだと、朝が来るほど意志を重ねる。
今も見るのは未来のほうだ。食べる人を喜ばせたいから、レシピ通りにバターを混ぜる。
レテはきっと、これからもずっとそんなふうに暮らしていく。
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