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■水面を蹴ってバターを混ぜる
[3]消えない
気がつくと、レテは水鏡の上に横たわっていた。あれから自分の部屋に戻って、さっさと眠りについたはずなのに。
となると、ああ、またか。
いつも同じ夢を見る。レテが起き上がると、もう一人――鏡写しのレテも起きて、目の前に立ち上がる。
水鏡の上に立って、レテはレテと向かい合った。鏡の自分は開口一番に問う。
「あのときのこと。今でも、悪いのはお前だけじゃないって思ってる?」
あのとき。自分の能力が、対象に後遺症を残したこと。
その相手であるゼルのこと。
「あいつも悪いって、思う?」
レテの答えは決まっていた。
「悪いでしょ」
グレーテル・ヴィル・メルヴェイユ――通称レテは、自我を得たときからゼルの弟であった。きっと生まれたときから。
水鏡の自分は続ける。
「兄さんのこと、尊敬してたんでしょ。変わり者だけど頭のいい兄さん。趣味の合う兄さん」
ゼルは賢い兄だった。近道を見つけるのも、新しい道具を作るのも、おいしいお菓子の組み合わせを探すのも――彼より得意な人はいなかった。
「そうだね、仲のいい兄弟だとも思ってた」
楽しく暮らしていたはずだった。いつからか、ゼルは凍ったみたいな瞳をするときが増えていった。不思議に思いながらも、レテは兄を慕っていた。
「あの日までは」
見捨てられたも同然の別れをするまでは。
「あれは兄さんの身勝手だったし、あれから僕はすごく長い間、放っておかれたんだ」
それでも、レテは兄を追いかけた。
弟は兄の本名を知っていたから、名を織り込んだ魔法で居場所を探した。兄が教授としてアカデミーにいるとわかれば、真っ先に学生となる道を選んだ。入学試験の勉強は大変だったけど、有力な後ろ盾を見つけるより手っ取り早かった。
けれど、学生として教授に会ってみれば、一転。そこに再会はなかった。
「やっと追いついた」
「学生ごときが、僕の研究に追いつくって?」
ゼルは研究に夢中で、弟のことなんてすっかり忘れていたのだ。
絶句する学生と、それを意にも介さない博士。二人きりの部屋に落ちる一瞬の沈黙。ゼルが放った次の言葉は、兄弟をしていた頃には聞いたことのない形をしていた。
「思い上がるなよ」
深く刺さった。鋭さより冷たさがレテを抉っていた。目の奥から凍りきった、あの視線がすべてだった。
次を尋ねる声が、ひとりでに震える。
「僕のこと……わからないの?」
「どうだっけな。いちいち新入生のことなんて覚えてない」
「じゃあ」
――じゃあ忘れちゃえよ。
あれは幼い癇癪なのかもしれなかったし、限界の糸が切れた結果だったのかもしれない。
固有発現はゼルの記憶からレテの存在を、残滓も残さず消し去った。
博士は知っている通りのゼルだったから、話を通すのも簡単で水を飲ませるのも簡単だった。だからレテは、どこかで思っていた。
「僕は『兄さんなら大丈夫だ』って思いこんでた」
でも違った。
(あれ以来、確かに兄さんは僕を忘れた)
あんなことしなければ、次には思い出してもらえたかも。あるいは一から、学生として覚えてもらえばよかったのかも。兄さんって呼んでみればよかった? そんな勇気はなかったけど、いつかは言えたかも。
――かもしれなかった。可能性の未来たちはレテがこわした。
――人を覚えられなくなったんだって。しかも、無理に思い出そうとすると、混乱しちゃって動けなくなる。
博士について語るキャロは「前はそんなことなかったのに」なんて零していた。
あれこそが記憶を消された後遺症。それを理解しているのはレテだけだ。
「取り返しのつかないことをしておいて、この力を役に立てるつもりだなんて」
もう一人のレテは低い声で淡々と語る。自分が怒っているときの仕草だ。
「ほんとに、とんだ思い上がりだよ」
繰り返されて、レテは激昂した。あの頃の癇癪と変わらない衝動が流れ込む。「お前が言うなよ!」怒りに身を任せ、水鏡の表面を思い切り蹴り上げた。
レテの鏡像が揺れて、歪んで、消える。
目が覚めた。
窓の外はまだ暗い。息がうまくできず、レテは自らの肩を抱いてうつむいた。痛い。身体でなく、もっと奥が。ベッドに再び沈む。
僅かな言葉が、何かの代わりに零れ落ちた。
「最悪」
[3]消えない
気がつくと、レテは水鏡の上に横たわっていた。あれから自分の部屋に戻って、さっさと眠りについたはずなのに。
となると、ああ、またか。
いつも同じ夢を見る。レテが起き上がると、もう一人――鏡写しのレテも起きて、目の前に立ち上がる。
水鏡の上に立って、レテはレテと向かい合った。鏡の自分は開口一番に問う。
「あのときのこと。今でも、悪いのはお前だけじゃないって思ってる?」
あのとき。自分の能力が、対象に後遺症を残したこと。
その相手であるゼルのこと。
「あいつも悪いって、思う?」
レテの答えは決まっていた。
「悪いでしょ」
グレーテル・ヴィル・メルヴェイユ――通称レテは、自我を得たときからゼルの弟であった。きっと生まれたときから。
水鏡の自分は続ける。
「兄さんのこと、尊敬してたんでしょ。変わり者だけど頭のいい兄さん。趣味の合う兄さん」
ゼルは賢い兄だった。近道を見つけるのも、新しい道具を作るのも、おいしいお菓子の組み合わせを探すのも――彼より得意な人はいなかった。
「そうだね、仲のいい兄弟だとも思ってた」
楽しく暮らしていたはずだった。いつからか、ゼルは凍ったみたいな瞳をするときが増えていった。不思議に思いながらも、レテは兄を慕っていた。
「あの日までは」
見捨てられたも同然の別れをするまでは。
「あれは兄さんの身勝手だったし、あれから僕はすごく長い間、放っておかれたんだ」
それでも、レテは兄を追いかけた。
弟は兄の本名を知っていたから、名を織り込んだ魔法で居場所を探した。兄が教授としてアカデミーにいるとわかれば、真っ先に学生となる道を選んだ。入学試験の勉強は大変だったけど、有力な後ろ盾を見つけるより手っ取り早かった。
けれど、学生として教授に会ってみれば、一転。そこに再会はなかった。
「やっと追いついた」
「学生ごときが、僕の研究に追いつくって?」
ゼルは研究に夢中で、弟のことなんてすっかり忘れていたのだ。
絶句する学生と、それを意にも介さない博士。二人きりの部屋に落ちる一瞬の沈黙。ゼルが放った次の言葉は、兄弟をしていた頃には聞いたことのない形をしていた。
「思い上がるなよ」
深く刺さった。鋭さより冷たさがレテを抉っていた。目の奥から凍りきった、あの視線がすべてだった。
次を尋ねる声が、ひとりでに震える。
「僕のこと……わからないの?」
「どうだっけな。いちいち新入生のことなんて覚えてない」
「じゃあ」
――じゃあ忘れちゃえよ。
あれは幼い癇癪なのかもしれなかったし、限界の糸が切れた結果だったのかもしれない。
固有発現はゼルの記憶からレテの存在を、残滓も残さず消し去った。
博士は知っている通りのゼルだったから、話を通すのも簡単で水を飲ませるのも簡単だった。だからレテは、どこかで思っていた。
「僕は『兄さんなら大丈夫だ』って思いこんでた」
でも違った。
(あれ以来、確かに兄さんは僕を忘れた)
あんなことしなければ、次には思い出してもらえたかも。あるいは一から、学生として覚えてもらえばよかったのかも。兄さんって呼んでみればよかった? そんな勇気はなかったけど、いつかは言えたかも。
――かもしれなかった。可能性の未来たちはレテがこわした。
――人を覚えられなくなったんだって。しかも、無理に思い出そうとすると、混乱しちゃって動けなくなる。
博士について語るキャロは「前はそんなことなかったのに」なんて零していた。
あれこそが記憶を消された後遺症。それを理解しているのはレテだけだ。
「取り返しのつかないことをしておいて、この力を役に立てるつもりだなんて」
もう一人のレテは低い声で淡々と語る。自分が怒っているときの仕草だ。
「ほんとに、とんだ思い上がりだよ」
繰り返されて、レテは激昂した。あの頃の癇癪と変わらない衝動が流れ込む。「お前が言うなよ!」怒りに身を任せ、水鏡の表面を思い切り蹴り上げた。
レテの鏡像が揺れて、歪んで、消える。
目が覚めた。
窓の外はまだ暗い。息がうまくできず、レテは自らの肩を抱いてうつむいた。痛い。身体でなく、もっと奥が。ベッドに再び沈む。
僅かな言葉が、何かの代わりに零れ落ちた。
「最悪」