wonderland code

■水面を蹴ってバターを混ぜる
[2]いえない


「あの子、まだおまえのとこにいるの!?」
「ああ」
 学友は長い髪を振って頷く。
 レベッカが保護した子供は、あれからずっとレベッカの部屋で暮らしているらしい。
 信じられない。悪態みたいに本音が出ていく。
「こんなときに、権力も人脈もある上の人たちは何してるわけ」
 教授のような上位の魔導師たちはみな、行き場のない人間らを託す先を見つけるアテがあるはずだ。
 今回だって、そんな彼らが同じように解決したとばかり思っていたのに。

「先生たちは来てくれた。けどあの子、俺以外と口をきこうとしなくて」
 レベッカはすっかりくたびれていた。教授たちが何を試しても、レベッカ以外はみんな怖がられてしまうという。
「だから、俺が聞かなきゃいけないのに。まだ、うまくできなくて」
 あの子に帰る場所があるのか、新しい居場所が必要なのか。それすらわからないのだと、レベッカは額を覆った。

 その日の帰り道。試しに、レテはレベッカの部屋に顔を出すことになった。

 件の男児はレベッカには顔を合わせたが、レテを見るなり部屋の隅へ引っ込んでしまう。なるほど、聞いていた態度はこれか。
 大丈夫だとか、クッキー買ってきただとか、あの手この手で苦戦するレベッカを横目に一芝居。「僕はもう帰るよ」と立ち去ったふりをして、薄く開けた扉から聞き耳を立てる。

「今は俺しかいないよ。今日は何か話せそうか?」
 返事はない。
「何でもいいから。言ってみてくれ」
 と言い聞かせて、レベッカは辛抱強く待っているようだ。しばらくして、男の子は絞り出すように言った。
「あいつがくる」
 第一声から涙声だった。
「逃げたぼくらを追いかけてくるんだ」
「また夢に見たのか? あの魔物はもういないよ、大丈夫さ」
 一度話し出すと、恐怖のタガが外れたのか、幼子は大声で喚く。
「いるんだ! あいつがすぐきて、ぐちゃぐちゃにされちゃうんだ。怖いよ……」
 泣く子を宥める不器用な学友は、もう行き先を聞き出すどころではない。しゃくりあげる声を置き去りにして、レテは今度こそレベッカの部屋を後にした。

 ――これは、話が進まないわけだ。
 このままでは、状況は袋小路だ。だからといって、あの子をいつまでも学生寮の一室においておけるわけじゃない。この子にだってもっといい場所がある。
 寮の階段でひとり、考える。

 レテは気づいていた。
 あの子を蝕む恐怖を、解決できるかもしれない一手について。
 自分にはそれができると。

 躊躇ごと息を吐ききって、レベッカに魔法で伝令を送る。

「夜、あの子が眠ったら、寮の裏庭に集合。念のためあの子が怖がってる事柄を具体的に聞き出してほしい。おまえには儀式につきあってもらう。瓶みたいな、水が入る容器を持ってきて」

 学生寮の裏庭は、知る者の少ない小さな空き地だ。夜になると人の気配は一切しなくなるから、秘密事をするにはおあつらえ向きだ。

 律儀なレベッカはメッセージ通りに来た。もう夜も深いからか、軽くあくびをしている。
「具体的に聞いといてってなんなんだよ。どう聞けばいいのか結構悩んだ」

「でも、わかったんでしょ。あの子が怖がってるのは、例の魔物のなに?」
「あいつの見た目と、あとは凶暴性――人を襲うのを見てるのは確かだ。よっぽど残虐な襲い方だったんだろう、そこまでで話すのをやめたよ」
 報告の次に、レベッカは真新しい小瓶(真面目なことに新品だった)を手渡しながら、怪訝そうな目を向けてくる。

「レテは、それを聞いてどうするんだ。こんなもんまで持ってこさせて。いまから儀式を成立させるつもりか? どうやって?」
 レベッカは最近こういうとき、しつこくなった。ずっと調べものをしているし、知りたがりなんだろう。
 ――確信があるくせに聞くのは、ちょっといただけないけど。

「言わせなくたってわかってるんじゃない? 感覚とか、魔力の流れで。僕に固有発現があるってこと」
 レテが畳みかけると、二手先をとられたレベッカは言葉を濁した。
「まあ、なんとなくは。じゃあ、その力で何かわかるのか」

 レベッカの態度には躊躇いの壁があった。共通認識として、魔導師に手の内を明かすのはあまり得策じゃない。彼もわかっているから、こんな聞き方をしてくるのだ。確かに、能力の中身を明かすこと自体はレテも本意ではない。

 だとしても。

 今、レテにしかできないことがある。

「僕は、特定の記憶を消せる」
 レベッカが息を呑むのがわかった。「記憶を?」と聞き返す彼を見上げて、レテは続けた。
「忘却の水を作るんだ。相手と事柄を指定しながら。その『相手』に水を飲ませれば、『事柄』の記憶を忘れさせることができる」
 入れ物が必要なのもそのためだ。水を作っても、対象のもとへ持って行かなければ意味がない。飲んでもらうところまでが、この能力の持つ性質だから。限定的だが、記憶に作用する力はめったにない。

「それで忘れてもらうんだ、あの子の怖いものを」

 レテの持つ一手を言い切って、突き付ける。やがてレベッカは、全容を嚙み砕いて飲み込んだようだった。
「話が続かない原因が恐怖心だから、怖がってる記憶を忘れさせるってことか」
「そう。でもあの子に水を飲ませるのはおまえの仕事だからね?」
 幼子が心を開いている相手はただ一人。役目はもう決まっている。
 レテが睨み上げれば、レベッカは気圧されてくれる。視線を二度交わせば、互いに覚悟が固まるものだ。
「わかった。最善を尽くす」

「じゃ、始めるね。ちょっと離れてて」

 拾ってきた石を適当に積み上げて、祭壇に見立てて小瓶を置いた。次に、自らの魔力で図を作って、魔法陣として働かせる。陣に意識を集めて、感覚を高めていく。
 仕上げに、本性の力を起こす、ひとりにひとつの呪文コードを唱えて。
「湛えよ――“フロウラクリモーサ”」
 能力が実行される。魔法陣は水へと変わり、自ら小瓶に収まっていった。

 瓶に栓をして、夜空の光に透かす。異常なし。固有発現で作った水を、そのままレベッカに手渡した。
「はいこれ。あの子によろしく」
「確かに受け取った。――消す記憶に具体性がいるのは、儀式の条件か?」
「……あのね、変だと思うなら直球で聞けば?」
 ため息。生真面目な友の遠まわしな問いは、気遣っているんだろうけど、まるで尋問だ。
 祭祀場でもない裏庭で、魔法陣と瓶だけで成立する術――儀式という言葉は、あまり相応しくない。レベッカが疑問に思うのも当然だ。そして、確信があるのに聞くような奴は、確信を得るまであきらめてくれない。
 躊躇いを二歩飛び越して、彼はやっと聞いてきた。
「儀式じゃないのに、儀式と言ったのには、理由があるのか」
「忘却の水源は固有発現だ。僕の力で水を作るだけでいい。儀式の様式なんて通さなくても、本当なら魔法陣もいらないんだよね」
 でも。

 蘇る、あの瞬間。
 グラスが落ちた音。零れた水が机の上を広がって、床まで垂れていく光景。よく知るはずの怜悧な声の、まったく知らない呆けた響き。

「あれから丁寧にやるようにしてるんだ。記憶を消しすぎると、後遺症とか、残るから」
 狙いの曖昧な水は、勢いのまま未来の目印をも押し流す。
「あのとき僕は、この力でそんなことが起きるなんて知らなくて。衝動だったんだ」

 ――そこまで並べ立てて、ふと気づく。レベッカが静かだ。
 問いに答えたあとなのに返事が返ってこない。困っているんだ。レテが隠していた重いものの片鱗、本質を、聞いてしまったから。レテがそれらを溢れさせてしまったから。

「こんなこと言うつもりじゃなかった。誰にもいわないで」
 早口に言って背を向けると、そのまま裏庭を立ち去った。うまく口止めできたかもわからない。置いていったレベッカの方なんて、まともに見られなかった。
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