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「少々お時間よろしいですか?」
わたしは人間の少女にそう返事した。お決まりの言葉。この言葉が示すのは、わたしが今は「受付」で、この子はいま「お客さん」であること。
この客は、人間の少女でありながら、少し遠くの村からひとりで一軒家に通っている。薬師に対する客だけど、彼女が病人というわけではない。村人たちが必要とする薬を、代表としてまとめて取りに来る子だ。定期的に、決まった日取りで。
晴れていてよかった。日差しがゆったりと地上を照らす。こんな日なら、危ない魔物もうろつかないし、この子の道のりも楽だったでしょう。
人々に「薬師の一階建て」と呼ばれるこの家は、周囲の村では有名な場所。名の通り外観は一軒家で、住んでいるのは魔導師が二人。わたしと師匠だ。
薬草やその他材料を調合して、傷や病を治すための薬にする。そういった薬師という職を生業にしている師匠と、その調合術を学ぶために勉強中のわたし。
ここ――「薬師の一階建て」はわたしにとって住居でもあるけれど、人間にとってはそれ以上に施設だ。薬が必要な人間は、専門家である薬師を頼ってここまで来る。けれどそれ以外にも、魔導師を頼りたい人間がたくさんいた。彼らは師匠の力に縋るものだから、今やこの家は人間のための相談所になっている。
というわけで、わたしはいま「受付」という役割。でも人間たる少女は、配役を理解してはいない。そのせいで。
「セイ先生、遠出してるんですか?」
こういう、個人の話題が始まる。
師匠――薬師セイは、魔導師で、かつ人当たりのいい男だ。魔導師たちの雑談でも名前が挙がるくらいには人気がある。わたしが彼の弟子であることを、羨む人たちもいる。
といっても、わたしが彼に惹かれているわけじゃない。少し気が合うだけ。彼とわたしには、共通した優先事項がある。だからうまいこと、師弟関係を続けていられるだけだ。
そんな師匠は、今はこの相談所にいない。用事で――たぶんくだらない用事で外している。薬師以外のことで。
人間の命を繋ぐ、薬師という職業。わたしは「薬師セイの弟子・モニカ」として認識されている。やっていることが人助けだから、魔導師にしては歓迎されている方。師匠には信用がある。彼の仕事に人手が必要なら、わたしも助力する。そんな立場。
つまり、薬の調合や配分、ましてや「決まっているものを渡すだけ」なら、わたしだってできる。受付と客という役割だから。そのはずなのに、彼女はわざわざ師匠を呼んだ。名指しで。個人的に。
「あなたが来ることは知っているはずだから、陽の高いうちに戻ってくると思う」
仕方がないから、わたしの立場で言えることだけを告げる。
「わかりまし、た」
少女はそわそわしていて、わたしはどうしたものかと彼女を見下ろした。黒髪の村娘。わたしは、この子たち――人間の名前は覚えないようにしていた。とりわけ少女は。
だって「師匠に」用事があるのだ。だからわたしは、あくまで留守番の見習い。それらしい言葉で場を繋ぐ方がいい。彼とわたしには、共通した優先事項がある。だから、わたしは余計なことをしない。
「あなたは大丈夫? 困りごとがあればわたしも聞く。待ち時間で解決できたら、効率いいでしょう」
少女は話題を繕って、「魔導師は、ルーン術よりすごい魔法を使うんでしょ?」と無邪気に聞いてくる。人間の女の子は、お喋りが自己防衛に直結するから、こういうのが得意。
「人の心がわかる魔法はあるの?」
魔導師のわたしは、こういうのが少し不得意。お喋りは今みたいに、たまに、クリティカルを飛ばしてくるから、困る。
「わたしは、聞いたことは……ない」
ちょっとだけ、嘘だ。
人間である客の少女にはわからないことだけど、魔導師にはいくつも性質がある。例えば少し近くにいるだけで、その強さが感覚で測れる。魔力――魔導師としての力の総量が強い相手は、必ずわかる。
けれど稀に、他とは違う魔導師もいる。本来なら、「外から感じる魔力量」は「実際に本人が使える魔法の強さ」という、出力に直結しているはずだ。ただ、「本来の魔力ほど出力が強くない」ひとたちがいる。そういう魔導師は、魔法じゃできないような特殊な能力を持っている。魔導師の世間ではこれを、「固有発現」と呼ぶ。
つまりは、魔法とは別に特別な能力を持つ魔導師がたまにいる、ということだ。
ここまでほとんどが、専門書や師匠の受け売り。ただ、固有発現の持ち主が一概に得をしているとは言えない。そこだけ断定できるのは、自分自身が実例だから。
――わたしは心の傷を目で見ることができる。
様子を窺う少女は、魔導師の嘘に気づく素振りがない。当たり前だ。この子が見ているのはわたしではなく師匠だから。
「セイ先生は、その……みんなの悩みとか、ぜんぶわかってるみたいに、優しくしてくれて。言いたいことがあれば、言えるような空気にしてくれるから。てっきり」
それを魔法と勘違いしたのか。可愛いね、少女なんだ。まあ本当のところは、長生きしていたら自然と場の空気を調節できるようになっただけでしょうけれど。
ああこれは恋だな。恋する少女のいたみだ。すぐにわかった。魔導師なんて関係なく、そのまなざしはいくつもの色で、憎いほど焼き付いているから。例えば頬の染まり方や、視線の迷い方が。
しかし、よりによって「セイ先生」とは。運のない子。
たしかに彼はモテる。やたらとふちの大きい眼鏡も、無造作だけれど清潔な髪も、親しみやすい程度に着崩した服装も。おだやかな瞳も。たしかに好かれる見た目を作っている。よく笑うし、言われた通り優しい。めったに人を攻撃しない。
薬師としては上等。けれど、恋の相手としては最悪だ。
(この子はどう頑張っても失恋する。相手があの人だから)
まず魔導師と人間だ。種族を超えた恋愛なんていうリスクの高い選択をするほど、彼の心は頑丈じゃない。
それに、セイという魔導師は同種で長命の男にしか恋をしないのだ。このことは本人の口からはっきり聞いた。――というのを、同意なしで明かすのは流石に駄目だ。後が面倒になる。
少女に渡す必要もない情報だ。彼とわたしには、共通した優先事項がある。だから、秘密は秘密のまま、よそゆきの師匠についての会話を仕立てる。
「セイ先生、ちょっと胡散臭いって、村の人は言うけど、でも! その、そういうところも、おとなっぽくて」
すき、と。いう言葉に繋がるのだろう、本来は。
「それは仕方ない。……弟子のわたしから見ても胡散臭いから。でも、彼を肯定する気持ちはわかる」
彼は彼なりに周りのしあわせを考えていると思う。少なくとも、不幸を聞くたび、師匠は傷ついている。気にならないフリをして、へらへらしながら。あの人は誤魔化せていると思い込んでいるけど、わたしには見える。
わたしの目にはそういう発現があるから、見ようと思えば視ることができる。
いろんな人をみて、いろんな傷をみていた。だから、そのうちわかるようになってきた。この形は恐怖、痣みたいなのはトラウマ、とか。そういう分析の癖がついた。頭の中で分類を決めてしまった。そういう癖がついた。から、きっと診断ができてしまう。
例えばこの子がわたしに対して、なんだかもやもやしてること。その正体が、「後ろめたい」という感情であることとかが。
どちらの肩を持つにせよ、わたしには彼女の恋が終わるのを黙って見ていることしかできない。一応、見る限りだと、やぶれても致命傷にはならない、淡い恋だ。
ああ、つまりは初恋なのか。だからわたしのことが気になるのか。そこが後ろめたいのね。
「そ、その。モニカさん……は、師匠のこと、すきなんですか? 一緒に薬師しているのは、」
恋人とか、と言われそうで、それが嫌で、遮る。
「たまに聞かれるけど、お互いに恋愛対象じゃないから誤解しないで」
そうじゃない。彼とわたしには、共通した優先事項がある。それだけ。単に魔導師として、薬師としてちょうどよかったから。例えば固有発現のことだって、まだ師匠にも言っていない。彼は特別じゃない。
わたしが聞かれずともこの件を打ち明けたのは、わたし自身の初恋の相手だけ。まだ、あの子だけ。
「セイ先生、まだかな」
勝手に言葉をこぼす人間からは、心の傷とは違う、おかしなところが見えた。
まず疲れている、しかもそれだけじゃない。やたらと動きがふわふわしている。声も。わたしは将来薬師になる予定なので、体調不良の兆候を見分ける術は身についている。――この少女は。
「もしかして、最近眠れてない?」
「はい。やっぱりバレます?」
そんな可愛い表情をしないで。
「わたしも『セイ先生』の弟子だから」
……深入りしたくない。
わたしは人間の少女にしか恋をしない。
だから今は、あまり近づきたくない。
恋をしてしまいたくない。
「少し待ってて」
この子のことは客と思おう。そう、そういう配役だったじゃないの。接客に専念するんだ。強制的に目を逸らして、考える。たとえば――例えば、彼女がここまで一人で来れる、というのは、多少なりともルーン術が使える証。
人間にも使える魔法とはいうけど、結局は技術だから得手不得手はある。この子はだいぶ上手い方だ。なら帰り道も安全でしょう。けれど寝不足はよくないので。
「眠るためのお薬ならいつも、余裕を持って調合してるの」
と、棚から薬草の束を取り出す。束になっている薬は乾いているから、すり潰して服用するのが一般的だ。こういうとき、それこそ一般的なルーン術は便利だろう。
「一日一回分に分けてあるから、寝る前に。一番やさしい薬だから、副作用もない。気休めにいいと思う。ルーン術じゃやぶれない紐で括っているから、一日分以上は飲めないようになってる」
過剰摂取が不可能な眠り薬だ。これくらいならわたしでもできる。できることは、やっておく。――効率がいいし、後が楽。
ひとは薬と呼ぶけど、この草も他の材料も、量を誤れば即死の毒だ。我流でやらせるとロクなことにならない。だから先手を打って安心したかった。という目論見も知らず、少女は目の前の薬たちを数えている。
「モニカさん、私、だめかも。その、いつものおつかいに来ただけだから、眠り薬のお代、きっと足りない……」
「じゃあ俺がサービスしようか?」
ひゃあって声。村人の少女がひどく驚いている。かわいそうに。
おかげでさっきまで考えていたことが無駄になった。師匠――薬師セイ本人が、いつのまにかここにいた。はあ。ため息が出た。
「師匠、声をかける前に何かあるでしょ」
「いや、ごめん。そういうつもりじゃなかったんだけどな」
「会話、いつから聞いてました?」
「本当についさっき。薬代のあたり」
こういう、こういうところ。愛想があっても挨拶がなきゃこうなる。惚れた男に突然のぞき込まれたら、この年の人間がどうなるかなんて、何度も経験させただろうに。言いたい文句はたくさんあるけど、これ以上はやめよう。師弟喧嘩になってしまう。客の前だ。
「あっ、あの、いいんですか?」
距離を手繰り寄せるような、それを躊躇うような言葉で、少女はなんとか会話を続けようとする。優しさをもらった事実と、特別をもらった錯覚がまぜこぜになっている。そんな女の子を見て、師匠は。
「気にしないよ。誰だって元気なのが一番だからね」
と、やさしくわらう。
(誰だって、って、この人……)
少女の悩みが、濃くなった。優しくて、おだやかに笑うひと。けれどときどき間違える。それがわたしにとってのセイという男。
――もっと深く考えると。
素直に言えない気持ちの部分を、全部胡乱なことばで覆っている。そんな不器用なこころのあり方を、誰かにずっと向けている。ここにいない、特定のたった一人に。
きっとそれも恋だ。少女と同じ、まだ終わっていない恋。終わらせることをためらう病。あなたは臆病なひと。そう言ったら、怒るだろうか。相手が誰かなんて知ったこっちゃないけど、まだ生きてるだけ――。ああ、やだな。
相思相愛ではないことをきっと悟ってしまった少女は、薬を受け取ったらすぐに去ってしまった。少女が一歩大人にちかづく。師匠がその踏み台になるのは、これで何度目か。
逃げるように走る彼女の背を見送って、相談室を兼ねたリビングに戻る。入り口を閉じたのはわたしだ。師匠は戸締りを忘れるから。
意識を集中させる。魔法の発現した視界に、また見える。
わたしが彼と出会う前から、ずっと続いている恋の煙がまた、たなびいて、蝕んでいる――そんな形の傷が見える。相手はきっと、わたしの知らない魔導師。
師匠がたまに男を連れ込むのは何度か見ていたけど、続いてる相手もそうじゃないひとも、全部必ず本命じゃない。翌日になっても、心の傷が増えていないので。
結局、師匠は、やっぱり臆病だ。わたしよりも。
「あの子に声をかけるタイミング、最悪だった」
「やっぱりお気に召さないか。女の子ってわからないな」
「……わからないなら、わかったフリしないでください」
師匠は悪い人ではない。ちょっと時々、わたしが最悪と思う選択をしてしまうだけ。
「だって、お客さんが幸福になってくれないと。あの子も、あの村の人たちも。それが俺の仕事だろ?」
あの子、たぶんあなたのせいで不幸になります。とは言えなかった。少女の失恋は傷にはなる。けれど傷なら塞がるし、時間や出会いが治してくれる。毒とは違って。だから、最終的にしあわせになれるかどうかは、この恋で決まることじゃない。
少なくとも、あなたのようにはならない。わたしのようにも。
「俺の仕事は単に薬を売ることじゃないからさ」
時折こんなふうに、師匠は遠くを見ている。こういう恋は、けして傷にならない。傷つく覚悟ができていないせいで、消えない毒に侵されている。終わりにしたくないせいで、ずっと痛いだけの恋。
――だとしたら、もうそろそろ死んでしまう。
「薬を売るのも、あなたの仕事に含まれるでしょ」
今日、わたしの恋が始まらなくてよかった。いま、現在、弟子の身分で、迷いが増えなくてよかった。
「わたしを一人前に育てるのも師匠の仕事」
師匠が生きているうちに、たくさんのことを習って、自分のものにして。わたしがひとりで、たくさんの命を救える存在である。と、自信をもてるようになれたら。
もう一度、恋に落ちても大丈夫だって、思えるはず。
「わたしに教えながら、薬を売って、患者さんの人生を幸せにしてください」
師匠がはっとしてこっちを見た。直後、肩をすくめる。叶わないな、なんて軽口が続いた。互いにわかっているんだ。彼とわたしには、共通した優先事項がある。
「その方が、効率いいでしょ」
わたしは人間の少女にそう返事した。お決まりの言葉。この言葉が示すのは、わたしが今は「受付」で、この子はいま「お客さん」であること。
この客は、人間の少女でありながら、少し遠くの村からひとりで一軒家に通っている。薬師に対する客だけど、彼女が病人というわけではない。村人たちが必要とする薬を、代表としてまとめて取りに来る子だ。定期的に、決まった日取りで。
晴れていてよかった。日差しがゆったりと地上を照らす。こんな日なら、危ない魔物もうろつかないし、この子の道のりも楽だったでしょう。
人々に「薬師の一階建て」と呼ばれるこの家は、周囲の村では有名な場所。名の通り外観は一軒家で、住んでいるのは魔導師が二人。わたしと師匠だ。
薬草やその他材料を調合して、傷や病を治すための薬にする。そういった薬師という職を生業にしている師匠と、その調合術を学ぶために勉強中のわたし。
ここ――「薬師の一階建て」はわたしにとって住居でもあるけれど、人間にとってはそれ以上に施設だ。薬が必要な人間は、専門家である薬師を頼ってここまで来る。けれどそれ以外にも、魔導師を頼りたい人間がたくさんいた。彼らは師匠の力に縋るものだから、今やこの家は人間のための相談所になっている。
というわけで、わたしはいま「受付」という役割。でも人間たる少女は、配役を理解してはいない。そのせいで。
「セイ先生、遠出してるんですか?」
こういう、個人の話題が始まる。
師匠――薬師セイは、魔導師で、かつ人当たりのいい男だ。魔導師たちの雑談でも名前が挙がるくらいには人気がある。わたしが彼の弟子であることを、羨む人たちもいる。
といっても、わたしが彼に惹かれているわけじゃない。少し気が合うだけ。彼とわたしには、共通した優先事項がある。だからうまいこと、師弟関係を続けていられるだけだ。
そんな師匠は、今はこの相談所にいない。用事で――たぶんくだらない用事で外している。薬師以外のことで。
人間の命を繋ぐ、薬師という職業。わたしは「薬師セイの弟子・モニカ」として認識されている。やっていることが人助けだから、魔導師にしては歓迎されている方。師匠には信用がある。彼の仕事に人手が必要なら、わたしも助力する。そんな立場。
つまり、薬の調合や配分、ましてや「決まっているものを渡すだけ」なら、わたしだってできる。受付と客という役割だから。そのはずなのに、彼女はわざわざ師匠を呼んだ。名指しで。個人的に。
「あなたが来ることは知っているはずだから、陽の高いうちに戻ってくると思う」
仕方がないから、わたしの立場で言えることだけを告げる。
「わかりまし、た」
少女はそわそわしていて、わたしはどうしたものかと彼女を見下ろした。黒髪の村娘。わたしは、この子たち――人間の名前は覚えないようにしていた。とりわけ少女は。
だって「師匠に」用事があるのだ。だからわたしは、あくまで留守番の見習い。それらしい言葉で場を繋ぐ方がいい。彼とわたしには、共通した優先事項がある。だから、わたしは余計なことをしない。
「あなたは大丈夫? 困りごとがあればわたしも聞く。待ち時間で解決できたら、効率いいでしょう」
少女は話題を繕って、「魔導師は、ルーン術よりすごい魔法を使うんでしょ?」と無邪気に聞いてくる。人間の女の子は、お喋りが自己防衛に直結するから、こういうのが得意。
「人の心がわかる魔法はあるの?」
魔導師のわたしは、こういうのが少し不得意。お喋りは今みたいに、たまに、クリティカルを飛ばしてくるから、困る。
「わたしは、聞いたことは……ない」
ちょっとだけ、嘘だ。
人間である客の少女にはわからないことだけど、魔導師にはいくつも性質がある。例えば少し近くにいるだけで、その強さが感覚で測れる。魔力――魔導師としての力の総量が強い相手は、必ずわかる。
けれど稀に、他とは違う魔導師もいる。本来なら、「外から感じる魔力量」は「実際に本人が使える魔法の強さ」という、出力に直結しているはずだ。ただ、「本来の魔力ほど出力が強くない」ひとたちがいる。そういう魔導師は、魔法じゃできないような特殊な能力を持っている。魔導師の世間ではこれを、「固有発現」と呼ぶ。
つまりは、魔法とは別に特別な能力を持つ魔導師がたまにいる、ということだ。
ここまでほとんどが、専門書や師匠の受け売り。ただ、固有発現の持ち主が一概に得をしているとは言えない。そこだけ断定できるのは、自分自身が実例だから。
――わたしは心の傷を目で見ることができる。
様子を窺う少女は、魔導師の嘘に気づく素振りがない。当たり前だ。この子が見ているのはわたしではなく師匠だから。
「セイ先生は、その……みんなの悩みとか、ぜんぶわかってるみたいに、優しくしてくれて。言いたいことがあれば、言えるような空気にしてくれるから。てっきり」
それを魔法と勘違いしたのか。可愛いね、少女なんだ。まあ本当のところは、長生きしていたら自然と場の空気を調節できるようになっただけでしょうけれど。
ああこれは恋だな。恋する少女のいたみだ。すぐにわかった。魔導師なんて関係なく、そのまなざしはいくつもの色で、憎いほど焼き付いているから。例えば頬の染まり方や、視線の迷い方が。
しかし、よりによって「セイ先生」とは。運のない子。
たしかに彼はモテる。やたらとふちの大きい眼鏡も、無造作だけれど清潔な髪も、親しみやすい程度に着崩した服装も。おだやかな瞳も。たしかに好かれる見た目を作っている。よく笑うし、言われた通り優しい。めったに人を攻撃しない。
薬師としては上等。けれど、恋の相手としては最悪だ。
(この子はどう頑張っても失恋する。相手があの人だから)
まず魔導師と人間だ。種族を超えた恋愛なんていうリスクの高い選択をするほど、彼の心は頑丈じゃない。
それに、セイという魔導師は同種で長命の男にしか恋をしないのだ。このことは本人の口からはっきり聞いた。――というのを、同意なしで明かすのは流石に駄目だ。後が面倒になる。
少女に渡す必要もない情報だ。彼とわたしには、共通した優先事項がある。だから、秘密は秘密のまま、よそゆきの師匠についての会話を仕立てる。
「セイ先生、ちょっと胡散臭いって、村の人は言うけど、でも! その、そういうところも、おとなっぽくて」
すき、と。いう言葉に繋がるのだろう、本来は。
「それは仕方ない。……弟子のわたしから見ても胡散臭いから。でも、彼を肯定する気持ちはわかる」
彼は彼なりに周りのしあわせを考えていると思う。少なくとも、不幸を聞くたび、師匠は傷ついている。気にならないフリをして、へらへらしながら。あの人は誤魔化せていると思い込んでいるけど、わたしには見える。
わたしの目にはそういう発現があるから、見ようと思えば視ることができる。
いろんな人をみて、いろんな傷をみていた。だから、そのうちわかるようになってきた。この形は恐怖、痣みたいなのはトラウマ、とか。そういう分析の癖がついた。頭の中で分類を決めてしまった。そういう癖がついた。から、きっと診断ができてしまう。
例えばこの子がわたしに対して、なんだかもやもやしてること。その正体が、「後ろめたい」という感情であることとかが。
どちらの肩を持つにせよ、わたしには彼女の恋が終わるのを黙って見ていることしかできない。一応、見る限りだと、やぶれても致命傷にはならない、淡い恋だ。
ああ、つまりは初恋なのか。だからわたしのことが気になるのか。そこが後ろめたいのね。
「そ、その。モニカさん……は、師匠のこと、すきなんですか? 一緒に薬師しているのは、」
恋人とか、と言われそうで、それが嫌で、遮る。
「たまに聞かれるけど、お互いに恋愛対象じゃないから誤解しないで」
そうじゃない。彼とわたしには、共通した優先事項がある。それだけ。単に魔導師として、薬師としてちょうどよかったから。例えば固有発現のことだって、まだ師匠にも言っていない。彼は特別じゃない。
わたしが聞かれずともこの件を打ち明けたのは、わたし自身の初恋の相手だけ。まだ、あの子だけ。
「セイ先生、まだかな」
勝手に言葉をこぼす人間からは、心の傷とは違う、おかしなところが見えた。
まず疲れている、しかもそれだけじゃない。やたらと動きがふわふわしている。声も。わたしは将来薬師になる予定なので、体調不良の兆候を見分ける術は身についている。――この少女は。
「もしかして、最近眠れてない?」
「はい。やっぱりバレます?」
そんな可愛い表情をしないで。
「わたしも『セイ先生』の弟子だから」
……深入りしたくない。
わたしは人間の少女にしか恋をしない。
だから今は、あまり近づきたくない。
恋をしてしまいたくない。
「少し待ってて」
この子のことは客と思おう。そう、そういう配役だったじゃないの。接客に専念するんだ。強制的に目を逸らして、考える。たとえば――例えば、彼女がここまで一人で来れる、というのは、多少なりともルーン術が使える証。
人間にも使える魔法とはいうけど、結局は技術だから得手不得手はある。この子はだいぶ上手い方だ。なら帰り道も安全でしょう。けれど寝不足はよくないので。
「眠るためのお薬ならいつも、余裕を持って調合してるの」
と、棚から薬草の束を取り出す。束になっている薬は乾いているから、すり潰して服用するのが一般的だ。こういうとき、それこそ一般的なルーン術は便利だろう。
「一日一回分に分けてあるから、寝る前に。一番やさしい薬だから、副作用もない。気休めにいいと思う。ルーン術じゃやぶれない紐で括っているから、一日分以上は飲めないようになってる」
過剰摂取が不可能な眠り薬だ。これくらいならわたしでもできる。できることは、やっておく。――効率がいいし、後が楽。
ひとは薬と呼ぶけど、この草も他の材料も、量を誤れば即死の毒だ。我流でやらせるとロクなことにならない。だから先手を打って安心したかった。という目論見も知らず、少女は目の前の薬たちを数えている。
「モニカさん、私、だめかも。その、いつものおつかいに来ただけだから、眠り薬のお代、きっと足りない……」
「じゃあ俺がサービスしようか?」
ひゃあって声。村人の少女がひどく驚いている。かわいそうに。
おかげでさっきまで考えていたことが無駄になった。師匠――薬師セイ本人が、いつのまにかここにいた。はあ。ため息が出た。
「師匠、声をかける前に何かあるでしょ」
「いや、ごめん。そういうつもりじゃなかったんだけどな」
「会話、いつから聞いてました?」
「本当についさっき。薬代のあたり」
こういう、こういうところ。愛想があっても挨拶がなきゃこうなる。惚れた男に突然のぞき込まれたら、この年の人間がどうなるかなんて、何度も経験させただろうに。言いたい文句はたくさんあるけど、これ以上はやめよう。師弟喧嘩になってしまう。客の前だ。
「あっ、あの、いいんですか?」
距離を手繰り寄せるような、それを躊躇うような言葉で、少女はなんとか会話を続けようとする。優しさをもらった事実と、特別をもらった錯覚がまぜこぜになっている。そんな女の子を見て、師匠は。
「気にしないよ。誰だって元気なのが一番だからね」
と、やさしくわらう。
(誰だって、って、この人……)
少女の悩みが、濃くなった。優しくて、おだやかに笑うひと。けれどときどき間違える。それがわたしにとってのセイという男。
――もっと深く考えると。
素直に言えない気持ちの部分を、全部胡乱なことばで覆っている。そんな不器用なこころのあり方を、誰かにずっと向けている。ここにいない、特定のたった一人に。
きっとそれも恋だ。少女と同じ、まだ終わっていない恋。終わらせることをためらう病。あなたは臆病なひと。そう言ったら、怒るだろうか。相手が誰かなんて知ったこっちゃないけど、まだ生きてるだけ――。ああ、やだな。
相思相愛ではないことをきっと悟ってしまった少女は、薬を受け取ったらすぐに去ってしまった。少女が一歩大人にちかづく。師匠がその踏み台になるのは、これで何度目か。
逃げるように走る彼女の背を見送って、相談室を兼ねたリビングに戻る。入り口を閉じたのはわたしだ。師匠は戸締りを忘れるから。
意識を集中させる。魔法の発現した視界に、また見える。
わたしが彼と出会う前から、ずっと続いている恋の煙がまた、たなびいて、蝕んでいる――そんな形の傷が見える。相手はきっと、わたしの知らない魔導師。
師匠がたまに男を連れ込むのは何度か見ていたけど、続いてる相手もそうじゃないひとも、全部必ず本命じゃない。翌日になっても、心の傷が増えていないので。
結局、師匠は、やっぱり臆病だ。わたしよりも。
「あの子に声をかけるタイミング、最悪だった」
「やっぱりお気に召さないか。女の子ってわからないな」
「……わからないなら、わかったフリしないでください」
師匠は悪い人ではない。ちょっと時々、わたしが最悪と思う選択をしてしまうだけ。
「だって、お客さんが幸福になってくれないと。あの子も、あの村の人たちも。それが俺の仕事だろ?」
あの子、たぶんあなたのせいで不幸になります。とは言えなかった。少女の失恋は傷にはなる。けれど傷なら塞がるし、時間や出会いが治してくれる。毒とは違って。だから、最終的にしあわせになれるかどうかは、この恋で決まることじゃない。
少なくとも、あなたのようにはならない。わたしのようにも。
「俺の仕事は単に薬を売ることじゃないからさ」
時折こんなふうに、師匠は遠くを見ている。こういう恋は、けして傷にならない。傷つく覚悟ができていないせいで、消えない毒に侵されている。終わりにしたくないせいで、ずっと痛いだけの恋。
――だとしたら、もうそろそろ死んでしまう。
「薬を売るのも、あなたの仕事に含まれるでしょ」
今日、わたしの恋が始まらなくてよかった。いま、現在、弟子の身分で、迷いが増えなくてよかった。
「わたしを一人前に育てるのも師匠の仕事」
師匠が生きているうちに、たくさんのことを習って、自分のものにして。わたしがひとりで、たくさんの命を救える存在である。と、自信をもてるようになれたら。
もう一度、恋に落ちても大丈夫だって、思えるはず。
「わたしに教えながら、薬を売って、患者さんの人生を幸せにしてください」
師匠がはっとしてこっちを見た。直後、肩をすくめる。叶わないな、なんて軽口が続いた。互いにわかっているんだ。彼とわたしには、共通した優先事項がある。
「その方が、効率いいでしょ」