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■Wheel of Fortune
「あなた、未来を掴むため、さあ、手をあけて――」
アリエルは身支度をしながら、曖昧な歌詞をメロディーに乗せていた。かつて王都で覚えた歌だ。
王都の酒場には人間の歌姫がいて、一人でいくつもの歌を披露する。
いまの曲もそうだ。題名は「Wheel of Fortune」といい、未来を掴もうと呼びかけるフレーズは明るく響いた。
そういえば、王都には長らく行っていない。初めてその地を踏んだときのことをおぼろげながら思い描く。兄が「道に迷わないようにね」と笑っていたっけ。
(眩しい)
窓から差した日の光がアリエルを現実に引き戻す。思い立ったが吉日とはよく言うが、いざ思い立ったそのときに兄が不在なのは幸いだった。
工房を調べるつもりでいるのを、気取られずに済むから。
工房――「彩りの家」を襲った魔導師。翻訳者たちは、襲撃者を闇色の青 と呼ぶようになっていた。兄のような力の強い一部の者が調査をして、最終的には排除したいらしい。アリエルの願いとは真逆の道であった。
居間に戻ると、珍しく妹が起きていた。夜遅くならともかく、朝、自分が出る前に会うのは久々だ。
彼女は最近やたらと見た目に気を遣うようになった。女がみんなこうなのか、妹が特別なのかは知らないが。
髪でも整えているのか、鏡とにらめっこしているところに声をかける。
「リーエ」
「エル兄、これから仕事場?」
「ああ。にいさんは王都の酒場につく頃か?」
「ポピーレッドに変更したって言ってた。いまの歌姫がどんな子か、教えてもらおうと思っていたのに」
リーエは口を尖らせる。ポピーレッドといえば、ここから王都を挟んで西。ずいぶん遠くに行き先を変えたものだ。
「西都に? 何考えてんだか」
とは言ってみたが、アリエルは疑問を広げないままにしておいた。思惑を抱えているのは自分も同じだ。
兄たちの真意を知ってか知らずか、リーエは日常の話として会話を続けた。
「ねえ、エル兄ってさ、あの腕輪もうしない感じ?」
着飾りにこだわる彼女らしい話題だ。件の腕輪も、彩りの家にとって大事な目印であるのに、リーエはそれを忘れさせるほど自然に光らせていた。
そう、あの揃いの腕輪――アリエルの手元を離れた腕輪のことだ。理由は未だ、誰にも言っていなかった。
「にいさんになくしたって言いづらいだろ」
これにはある”見知らぬ魔導師”が関わった深い事情があるが、アリエルには妹にそれを話す理由がなかった。
――“相手”の正体も知らないのに、リーエと”彼”に接点 があるなど、考えられるわけもないので。
妹と別れ工房へ行くと、アリエルは気を引き締めた。闇色の青 を調査する翻訳者たちは、他者がこの件に関わることを禁じている。それでも今日のアリエルは調べに来た。
探すのは襲撃者本人ではなく、「災い」の方だ。災いを止める――そう言って、闇色の青 は「彩りの家」を襲った。ここに、本当の標的があるのだ。だからこそ、工房のすべてを探す必要があった。機械、仕事、未来――。
アリエルは工房内の部屋を巡った。人目があるところは巡回作業や休憩のふりをして、何気なく。誰もいない部屋なら隅から隅まで。朝から夕方までかけて。
そして。
そして、何も見つからなかった。アリエルには、何も見つけることができなかった。それどころか、何をどうすれば「調べた」ことになるのかの区別すらつかなかった。
迷って立ち尽くす。どうしてこんなに、まっさらなのか。
アリエルには何もない。翻訳の仕事と、魔物に立ち向かうことくらいしかできない。――いっそ不自然なほど、何も知らない。
「お前、何をしてる?」
背後から、不審がる仲間の声。アリエルは返事もせず駆け出した。
走って。外に出て、また走って。彩りの家は遠くに過ぎ去って。何に追われてもいないのに、いつのまにか全力で走っていた。
息が切れる。膝を折る。知らない場所まで来ていた。
辿り着いた先は、庭のある静かな屋敷だった。窓は割れていて、壁に蔦が絡みついている。家そのものは寂れた雰囲気だったが、屋敷の庭はみずみずしく彩られていた。噴水を囲むように花壇が並び、様々な花が咲く。知らない植物ばかりで嫌になる。
いったいなんだって、こんなところまで来る必要があったのか。逃げてきたみたいじゃないか。自問は自明だ。アリエルはずっと知っていた。
――そうだ、自分は現実から逃げてきた。もう手詰まりなのだ。
大人しくあきらめて、いま動いている者たちに任せた方がいいのかもしれない。そう思うたびに浮かぶのは、闇色の青 の切羽詰まった声と、そして何より兄の顔だ。
肩で息をして、声にならない嘆きを吐く。
これまでアリエルを動かしていたのはキレイな正義感なんかじゃなくて、崩壊寸前のプライドだ。
途方に暮れて座り込んだ白いレンガに、じぶんの影が情けなく落ちる。目の前にももうひとつ、暗い影が揺れている。
――影が二人分ある?
アリエルがその存在に気づくのと、相手が話したのとは同時だった。
「迷子?」
無邪気で、高く静かな声だった。
知らない気配にアリエルが顔を上げる。そこに人が浮いていた。声と体格は若い娘のそれをしていたが、浮いているから、彼女はこちらを見下ろしていた。
白く、ひらひらとした服を着ている。間違っても闇色の青 ではない。
アリエルには、彼女がどんな顔かわからなかった。表情も、目鼻立ちも。彼女の顔は幻のように、上から靄で塗りつぶされているように映るのだ。
「あんたは誰だ」
「あたし、魔女なの。東の魔女」
魔導師でもないのかと毒づく。座り込むアリエルに、魔女と名乗ったそれは頭上から声を降らせる。
「代償契約の魔女よ。知らない?」
「知らなかったらなんなんだよ」
言い返しながらも、僅かな記憶を引っ張り出す。
。歌と共に聞いた詩と童話、物語に出てくる魔女との取引。
これもまた、王都酒場で聞いた話――翻訳者の暮らしでは知ることのなかったアリエルとしての思い出だ。
「……おとぎ話のか? 自分の何かを差し出して、代わりに先に進む力を貰う」
先に進むちから。そう唱えた瞬間、道が開けた。
例えるならこれは、真っ暗な世界に差した唯一の光じゃないか。手詰まりを壊す手段がすぐそこに現れたんだ!
「それって、契約って。おれもできるのか」
力が欲しい、今の自分にはない力が。そうすれば、変わる。何もかもの解決にこの手を伸ばせる。
アリエルの申し出を聞いて、飾り気のないローブが揺れる。
「詳しく知らないのに、契約を結ぶなんて危ないよ。魔女との契約には代償が必要なのよ」
魔女曰く、条件を提示しないと、契約するかしないかも問えないのだという。表情もわからない異様な存在は、こちらを制止してくる。警告のつもりだ。わかっていても、アリエルは止まらなかった。
「おれに支払えるものなんてないよ、だからなんでも持っていけ」
心はもう、選択肢を知る前に決まっていた。いまさら何も見なかったふりをして引き下がりはしない。
魔女は「うーん」と言って考えて、やがて「そうだ」と手を叩く。
「じゃあ、仮契約」
「仮?」
「こんな曖昧な条件、あたしも初めてなの」
魔女の顔を隠す靄がせわしなく動く。
「だから、まずはおためし。少しだけあなたを見えるようにしてあげる。代わりにこれをちょうだい」
指で示されたそれも、今のアリエルにとって大した犠牲ではなかった。
間を置かず「わかった」と頷くと、魔女は上から手を伸ばし――細い指で、青い縁の眼鏡をさらっていった。
次の瞬間、契約の証が結ばれる。
魔導師の術とは違う、不思議な感覚がふたりを繋いだ。
一瞬の眩い光。アリエルが目を開けると、すぐそこに微笑みがあった。彼女は薄青の髪をふわりと広げ、同じ色の服を揺らして浮く。
魔女は人間の少女と何ら変わりのない、無垢な顔をしていた。
――この翻訳者と魔女は知らぬことだが。
王都酒場には、あの歌と同じ「Wheel of Fortune」という名のカジノゲームがある。名の意味するところは「運命の輪」だ。
二人はこの日を境に、運命の輪に自らを乗せた。前進のため、解決のため、契約に従って。
そして、たいていの運命は、ゲームでは済まされないものである。
「あなた、未来を掴むため、さあ、手をあけて――」
アリエルは身支度をしながら、曖昧な歌詞をメロディーに乗せていた。かつて王都で覚えた歌だ。
王都の酒場には人間の歌姫がいて、一人でいくつもの歌を披露する。
いまの曲もそうだ。題名は「Wheel of Fortune」といい、未来を掴もうと呼びかけるフレーズは明るく響いた。
そういえば、王都には長らく行っていない。初めてその地を踏んだときのことをおぼろげながら思い描く。兄が「道に迷わないようにね」と笑っていたっけ。
(眩しい)
窓から差した日の光がアリエルを現実に引き戻す。思い立ったが吉日とはよく言うが、いざ思い立ったそのときに兄が不在なのは幸いだった。
工房を調べるつもりでいるのを、気取られずに済むから。
工房――「彩りの家」を襲った魔導師。翻訳者たちは、襲撃者を
居間に戻ると、珍しく妹が起きていた。夜遅くならともかく、朝、自分が出る前に会うのは久々だ。
彼女は最近やたらと見た目に気を遣うようになった。女がみんなこうなのか、妹が特別なのかは知らないが。
髪でも整えているのか、鏡とにらめっこしているところに声をかける。
「リーエ」
「エル兄、これから仕事場?」
「ああ。にいさんは王都の酒場につく頃か?」
「ポピーレッドに変更したって言ってた。いまの歌姫がどんな子か、教えてもらおうと思っていたのに」
リーエは口を尖らせる。ポピーレッドといえば、ここから王都を挟んで西。ずいぶん遠くに行き先を変えたものだ。
「西都に? 何考えてんだか」
とは言ってみたが、アリエルは疑問を広げないままにしておいた。思惑を抱えているのは自分も同じだ。
兄たちの真意を知ってか知らずか、リーエは日常の話として会話を続けた。
「ねえ、エル兄ってさ、あの腕輪もうしない感じ?」
着飾りにこだわる彼女らしい話題だ。件の腕輪も、彩りの家にとって大事な目印であるのに、リーエはそれを忘れさせるほど自然に光らせていた。
そう、あの揃いの腕輪――アリエルの手元を離れた腕輪のことだ。理由は未だ、誰にも言っていなかった。
「にいさんになくしたって言いづらいだろ」
これにはある”見知らぬ魔導師”が関わった深い事情があるが、アリエルには妹にそれを話す理由がなかった。
――“相手”の正体も知らないのに、リーエと”彼”に
妹と別れ工房へ行くと、アリエルは気を引き締めた。
探すのは襲撃者本人ではなく、「災い」の方だ。災いを止める――そう言って、
アリエルは工房内の部屋を巡った。人目があるところは巡回作業や休憩のふりをして、何気なく。誰もいない部屋なら隅から隅まで。朝から夕方までかけて。
そして。
そして、何も見つからなかった。アリエルには、何も見つけることができなかった。それどころか、何をどうすれば「調べた」ことになるのかの区別すらつかなかった。
迷って立ち尽くす。どうしてこんなに、まっさらなのか。
アリエルには何もない。翻訳の仕事と、魔物に立ち向かうことくらいしかできない。――いっそ不自然なほど、何も知らない。
「お前、何をしてる?」
背後から、不審がる仲間の声。アリエルは返事もせず駆け出した。
走って。外に出て、また走って。彩りの家は遠くに過ぎ去って。何に追われてもいないのに、いつのまにか全力で走っていた。
息が切れる。膝を折る。知らない場所まで来ていた。
辿り着いた先は、庭のある静かな屋敷だった。窓は割れていて、壁に蔦が絡みついている。家そのものは寂れた雰囲気だったが、屋敷の庭はみずみずしく彩られていた。噴水を囲むように花壇が並び、様々な花が咲く。知らない植物ばかりで嫌になる。
いったいなんだって、こんなところまで来る必要があったのか。逃げてきたみたいじゃないか。自問は自明だ。アリエルはずっと知っていた。
――そうだ、自分は現実から逃げてきた。もう手詰まりなのだ。
大人しくあきらめて、いま動いている者たちに任せた方がいいのかもしれない。そう思うたびに浮かぶのは、
肩で息をして、声にならない嘆きを吐く。
これまでアリエルを動かしていたのはキレイな正義感なんかじゃなくて、崩壊寸前のプライドだ。
途方に暮れて座り込んだ白いレンガに、じぶんの影が情けなく落ちる。目の前にももうひとつ、暗い影が揺れている。
――影が二人分ある?
アリエルがその存在に気づくのと、相手が話したのとは同時だった。
「迷子?」
無邪気で、高く静かな声だった。
知らない気配にアリエルが顔を上げる。そこに人が浮いていた。声と体格は若い娘のそれをしていたが、浮いているから、彼女はこちらを見下ろしていた。
白く、ひらひらとした服を着ている。間違っても
アリエルには、彼女がどんな顔かわからなかった。表情も、目鼻立ちも。彼女の顔は幻のように、上から靄で塗りつぶされているように映るのだ。
「あんたは誰だ」
「あたし、魔女なの。東の魔女」
魔導師でもないのかと毒づく。座り込むアリエルに、魔女と名乗ったそれは頭上から声を降らせる。
「代償契約の魔女よ。知らない?」
「知らなかったらなんなんだよ」
言い返しながらも、僅かな記憶を引っ張り出す。
。歌と共に聞いた詩と童話、物語に出てくる魔女との取引。
これもまた、王都酒場で聞いた話――翻訳者の暮らしでは知ることのなかったアリエルとしての思い出だ。
「……おとぎ話のか? 自分の何かを差し出して、代わりに先に進む力を貰う」
先に進むちから。そう唱えた瞬間、道が開けた。
例えるならこれは、真っ暗な世界に差した唯一の光じゃないか。手詰まりを壊す手段がすぐそこに現れたんだ!
「それって、契約って。おれもできるのか」
力が欲しい、今の自分にはない力が。そうすれば、変わる。何もかもの解決にこの手を伸ばせる。
アリエルの申し出を聞いて、飾り気のないローブが揺れる。
「詳しく知らないのに、契約を結ぶなんて危ないよ。魔女との契約には代償が必要なのよ」
魔女曰く、条件を提示しないと、契約するかしないかも問えないのだという。表情もわからない異様な存在は、こちらを制止してくる。警告のつもりだ。わかっていても、アリエルは止まらなかった。
「おれに支払えるものなんてないよ、だからなんでも持っていけ」
心はもう、選択肢を知る前に決まっていた。いまさら何も見なかったふりをして引き下がりはしない。
魔女は「うーん」と言って考えて、やがて「そうだ」と手を叩く。
「じゃあ、仮契約」
「仮?」
「こんな曖昧な条件、あたしも初めてなの」
魔女の顔を隠す靄がせわしなく動く。
「だから、まずはおためし。少しだけあなたを見えるようにしてあげる。代わりにこれをちょうだい」
指で示されたそれも、今のアリエルにとって大した犠牲ではなかった。
間を置かず「わかった」と頷くと、魔女は上から手を伸ばし――細い指で、青い縁の眼鏡をさらっていった。
次の瞬間、契約の証が結ばれる。
魔導師の術とは違う、不思議な感覚がふたりを繋いだ。
一瞬の眩い光。アリエルが目を開けると、すぐそこに微笑みがあった。彼女は薄青の髪をふわりと広げ、同じ色の服を揺らして浮く。
魔女は人間の少女と何ら変わりのない、無垢な顔をしていた。
――この翻訳者と魔女は知らぬことだが。
王都酒場には、あの歌と同じ「Wheel of Fortune」という名のカジノゲームがある。名の意味するところは「運命の輪」だ。
二人はこの日を境に、運命の輪に自らを乗せた。前進のため、解決のため、契約に従って。
そして、たいていの運命は、ゲームでは済まされないものである。