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SHINJITE [3] Sunken marker
ずっと溺れている。息ができないことより、掴むものがないことの方が、よりゼルを惑わせた。
それは、ゼルが実験を進めている間にできた空き隙間での出来事だった。
彼はわけもなく街に出た。ゼル博士という呼称は有名だ。が、有名な魔導師というのは姿を知られていないことも多い。研究の性質上、アカデミー外に出回らないゼルは尚更だろう。――つまり、珍しく外に出てみても、行き交う人の視線も声も集めないのだ。面倒がなくてとてもいい。
改造フォークを使用した実験の途中、結果が出るまではすることもない。適当に時間を潰して戻るつもりだった。
ルーン基とゴーストの件について、結果が出るのはいつ頃かは感覚でわかる。改造フォーク(というのは仮称だ)は被験体のルーン基に直接触れて、その状態を記録するものだ。もう少し改良が必要だろう。
クラウツはゴーストと明確に接触している。隠したところを鑑みるに、どうやらゴースト関連の研究を一手に請け負う気でいるらしい。ただ、ゼルとしては魔導師とそれらの関係について、すべてをクラウツに任せるつもりはない。あれはときどき不具合を起こすから。
被験体の管理は研究者の義務だ。怠ると痛い目を見る――ゼル本人にそういった経験があるのか、他者から聞いた話なのかは、実のところ曖昧だ。
人々の賑やかな音が遠ざかっていく。誰にも見出されぬまま、あてもなく郊外へ向かった。学生街の周辺から離れ、少し先へ。来たこともない方面だが、用事があった気がしてならない。どうしてだろう。忘れているだけで、前になにかあったのだろうか。
強い気配がした。ゼルを呼んでいた何かか? いや、普通の魔物だ。
普通といっても、人間が出くわしたら大きな被害になる。そういうものの処理を、アカデミー所属の魔導師は厳命されていた。
今日の時間潰しはこれでいいだろう。実験棟に戻るまで、どこかで待つよりずっといい。つまらないのは嫌いだ。
さて、この獲物をどうしようか。狙いを定めた敵は――、目の前で爆発した。
「なにそれ」
別の魔導師による攻撃だ。
やってきた邪魔者に目を向ける。
制服のような作業着姿(ひとつボタンが外れかけている)、青い髪に青い目(動力源の魔力鉱石にありがちな色だった)、見たところ特別さもないような魔導師だ。こんな奴に。
「ちょっと。それ、僕の獲物だったんだけど」
自分のものを取られるのは、つまらないことよりもっとずっと嫌いだ。興味を持っているものを、もぎ取られて奪われるのがいやだった。
「誰が倒したって関係ないだろ、おれだって急いでんだ」
相手はいかにも取るに足らない者らしい理屈をこねてくる。いちいち議論にしてやるまでもない。
「君が急いでるってことも関係ない。僕のものを盗ったんだから僕に怒られなよ」
さて、どういう目に遭わせてやろうか。改めてこの男を見定めると、ひときわ存在感を放つ装飾品が目に留まった。
見覚えのある青い腕輪。
いったいどこで、これを見た? こいつではない。他の誰かがつけていたターコイズ・ブルー。
――誰だ?
記憶の水面を辿る。記憶の目印に手を伸ばして、歩を進めた足が沈んだ。思い出せない。あっという間に水流に捕らわれて、ゼルの意識はそのまま溺れた。息を奪われる。水面への帰り道が思い出せない。誰かのことを思い出せない。流される感覚に、全身が飲み込まれていった。
あの青を、残したのは、誰だ。
ゼルは他者――人のことを覚えて、思い出すことができない。いつからかそうなっていた。記憶を辿ろうとも、道しるべが流れていってしまうのだ。――自分には何が起きている? いったいいつから? 何がきっかけで? 何一つ掴めない。
沈んでいく感覚が途切れない。水の中にいるわけではないのに、身体が濡れたように重い。溺れている。息だけでもがく。四肢は動かない――。
「おーい、博士。そろそろ気が付いたか?」
「……あれ、リナ?」
まだ、視界が揺れる。かなり時間が経ったように感じる。いつのまにか、ゼルはリナに肩を組む形で支えられていた。すべてが何重にもブレて見えた。
リナの姿からすると、戦いに来たわけではなさそうだ。外では普段着のように身に着けているレザーアーマーをしていない――講義や談話室と同じ軽装だ。よく見ると彼女だけでなく、風景もお馴染みのものになっていた。
「アカデミーに、いたんだっけ、僕……?」
アカデミーの敷地内、学生の少ない道。談話室へ向かうルートだ。
「ゼルが動けなくなってるとこ、見つけてくれた人がいたんだよ。ちょうど探しに言ってたあたしが、そいつに挨拶してあんただけ連れてきた」
淡々と説明される。リナの言うことなので噓ではないだろう。正直が人の形をして歩いているような女だ。
だが、ゼルはひっかかる。自分を見つけた人物がいた? 覚えてはいなかった。自分はただ、青い腕輪の人物を思い出そうとして――そのせいで、記憶を流す水流に放り込まれたのだろう。引き金になった出会いすら、頭の中で描き出すこともできない。
連れていかれた談話室には、リナを迎えるキャロの他に二人の学生がいた。焼き菓子の甘い匂いが、やっとゼルをアカデミーの日常へ連れ戻す。
「博士連れてきた。まだおやつ残ってるよな」
「リナ、ありがとう。みんなとっておいてくれてるよ、ほら」
キャロが示す先――談話室の「談」を象徴するテーブルに、よく見る大皿がある。その上にはミニカップサイズのマフィンがいくつも並べられていた。
こんがりと色づいた表面に、混ぜ込んであった木の実が顔を出している。豊かな質感の上からふわりと柑橘が香って、ただの甘さだけでない風味を思わせた。笑みがこぼれる。
「へえ、いいのがあるじゃん」
「好きに、食べていいよ」
学生が返事をした。こいつが焼いたのか。いいセンスだなとゼルは思う。語らう時間があれば、キャロに紅茶でも入れてもらいたいところだった。
右手にはなにやら色々を持っていたので、ゼルは左手を使って二個ほど持ち上げる。
「わかった、貰う。そろそろ実験結果も出たはずだからさ。向こうで食べるよ」
「……どうぞ」
お菓子を作った奴が、俯いて頷いた。遠慮でもしているのか? 意外だった。こういう奴は無遠慮で楽しそうに感想を待つものだと思っていたから。――これが思い込みなのか、経験によるものなのか。ゼルの手元に判断材料は残っていない。
実験棟にて。美味しいマフィンを完食した後、ゼルは改造フォークを睨んでいた。本を読みふけっていたクラウツから引き抜いたはいいが――これが示すものは、一旦の手詰まりだった。
ゴーストの干渉を受け、ルーン基には影響も損傷もあった。だが目の前の被験体に、具体的な悪影響はみられない。つまり、ゼルの記憶に関する異常と、ゴーストとの関係を示すものはない。
(次の事例が出るまで、この件に関しては置いておくべきだな)
これ以上の深追いはよくない。あの水流の源がゴーストだと決まっているわけではないから。この世の全てに注意深く目を光らせ、観察し続けるのが研究者の常だ。得体の知れない存在に固執していては、なにひとつわからないままだ。
胸の内で結論を出して、実験道具をテーブルに置いた。果てのない思案は続いたが、ほどなくしてクラウツの声に呼び戻される。
「ゼル、この腕輪は?」
あなたのものではないでしょう、とクラウツは続ける。言われてみれば、これを手にした経緯は身に覚えがなかった。いつの間にか持っていて、携帯している銀の箱と共に持ってきていたのだ。オルゴールだけを懐に戻す。
「さあ? 誰かから貰ったんじゃない」
適当に言ったものの、ゼルにとっては本当に「誰か」だった。
――これをつけた誰かがいたはず。
(僕に残すと言って、それから。思い出せない。どうして)
そこまで思い、考えるのをやめた。またあてのない水中に溺れてしまうから。
ゼルは、自分が持っているはずの道標を流されぬまま、手中に収めていたかった。この欲求とも渇望とも取れる感覚こそが、ゼルを魔導師の構造解明へと突き動かしていた。
他者との記憶が流される、その理由と構造に辿り着けば、もとの記録として組み立て直すことだってできるはずだ。
研究に携わる者として、突き止めたものだけが真実だ。実験器具の開発も、これまで作った無数の品々も、確たる証明が為された定義と定理の上に立っている。
証の示されない曖昧なものを、ゼルはもう信じていない。
ずっと溺れている。息ができないことより、掴むものがないことの方が、よりゼルを惑わせた。
それは、ゼルが実験を進めている間にできた空き隙間での出来事だった。
彼はわけもなく街に出た。ゼル博士という呼称は有名だ。が、有名な魔導師というのは姿を知られていないことも多い。研究の性質上、アカデミー外に出回らないゼルは尚更だろう。――つまり、珍しく外に出てみても、行き交う人の視線も声も集めないのだ。面倒がなくてとてもいい。
改造フォークを使用した実験の途中、結果が出るまではすることもない。適当に時間を潰して戻るつもりだった。
ルーン基とゴーストの件について、結果が出るのはいつ頃かは感覚でわかる。改造フォーク(というのは仮称だ)は被験体のルーン基に直接触れて、その状態を記録するものだ。もう少し改良が必要だろう。
クラウツはゴーストと明確に接触している。隠したところを鑑みるに、どうやらゴースト関連の研究を一手に請け負う気でいるらしい。ただ、ゼルとしては魔導師とそれらの関係について、すべてをクラウツに任せるつもりはない。あれはときどき不具合を起こすから。
被験体の管理は研究者の義務だ。怠ると痛い目を見る――ゼル本人にそういった経験があるのか、他者から聞いた話なのかは、実のところ曖昧だ。
人々の賑やかな音が遠ざかっていく。誰にも見出されぬまま、あてもなく郊外へ向かった。学生街の周辺から離れ、少し先へ。来たこともない方面だが、用事があった気がしてならない。どうしてだろう。忘れているだけで、前になにかあったのだろうか。
強い気配がした。ゼルを呼んでいた何かか? いや、普通の魔物だ。
普通といっても、人間が出くわしたら大きな被害になる。そういうものの処理を、アカデミー所属の魔導師は厳命されていた。
今日の時間潰しはこれでいいだろう。実験棟に戻るまで、どこかで待つよりずっといい。つまらないのは嫌いだ。
さて、この獲物をどうしようか。狙いを定めた敵は――、目の前で爆発した。
「なにそれ」
別の魔導師による攻撃だ。
やってきた邪魔者に目を向ける。
制服のような作業着姿(ひとつボタンが外れかけている)、青い髪に青い目(動力源の魔力鉱石にありがちな色だった)、見たところ特別さもないような魔導師だ。こんな奴に。
「ちょっと。それ、僕の獲物だったんだけど」
自分のものを取られるのは、つまらないことよりもっとずっと嫌いだ。興味を持っているものを、もぎ取られて奪われるのがいやだった。
「誰が倒したって関係ないだろ、おれだって急いでんだ」
相手はいかにも取るに足らない者らしい理屈をこねてくる。いちいち議論にしてやるまでもない。
「君が急いでるってことも関係ない。僕のものを盗ったんだから僕に怒られなよ」
さて、どういう目に遭わせてやろうか。改めてこの男を見定めると、ひときわ存在感を放つ装飾品が目に留まった。
見覚えのある青い腕輪。
いったいどこで、これを見た? こいつではない。他の誰かがつけていたターコイズ・ブルー。
――誰だ?
記憶の水面を辿る。記憶の目印に手を伸ばして、歩を進めた足が沈んだ。思い出せない。あっという間に水流に捕らわれて、ゼルの意識はそのまま溺れた。息を奪われる。水面への帰り道が思い出せない。誰かのことを思い出せない。流される感覚に、全身が飲み込まれていった。
あの青を、残したのは、誰だ。
ゼルは他者――人のことを覚えて、思い出すことができない。いつからかそうなっていた。記憶を辿ろうとも、道しるべが流れていってしまうのだ。――自分には何が起きている? いったいいつから? 何がきっかけで? 何一つ掴めない。
沈んでいく感覚が途切れない。水の中にいるわけではないのに、身体が濡れたように重い。溺れている。息だけでもがく。四肢は動かない――。
「おーい、博士。そろそろ気が付いたか?」
「……あれ、リナ?」
まだ、視界が揺れる。かなり時間が経ったように感じる。いつのまにか、ゼルはリナに肩を組む形で支えられていた。すべてが何重にもブレて見えた。
リナの姿からすると、戦いに来たわけではなさそうだ。外では普段着のように身に着けているレザーアーマーをしていない――講義や談話室と同じ軽装だ。よく見ると彼女だけでなく、風景もお馴染みのものになっていた。
「アカデミーに、いたんだっけ、僕……?」
アカデミーの敷地内、学生の少ない道。談話室へ向かうルートだ。
「ゼルが動けなくなってるとこ、見つけてくれた人がいたんだよ。ちょうど探しに言ってたあたしが、そいつに挨拶してあんただけ連れてきた」
淡々と説明される。リナの言うことなので噓ではないだろう。正直が人の形をして歩いているような女だ。
だが、ゼルはひっかかる。自分を見つけた人物がいた? 覚えてはいなかった。自分はただ、青い腕輪の人物を思い出そうとして――そのせいで、記憶を流す水流に放り込まれたのだろう。引き金になった出会いすら、頭の中で描き出すこともできない。
連れていかれた談話室には、リナを迎えるキャロの他に二人の学生がいた。焼き菓子の甘い匂いが、やっとゼルをアカデミーの日常へ連れ戻す。
「博士連れてきた。まだおやつ残ってるよな」
「リナ、ありがとう。みんなとっておいてくれてるよ、ほら」
キャロが示す先――談話室の「談」を象徴するテーブルに、よく見る大皿がある。その上にはミニカップサイズのマフィンがいくつも並べられていた。
こんがりと色づいた表面に、混ぜ込んであった木の実が顔を出している。豊かな質感の上からふわりと柑橘が香って、ただの甘さだけでない風味を思わせた。笑みがこぼれる。
「へえ、いいのがあるじゃん」
「好きに、食べていいよ」
学生が返事をした。こいつが焼いたのか。いいセンスだなとゼルは思う。語らう時間があれば、キャロに紅茶でも入れてもらいたいところだった。
右手にはなにやら色々を持っていたので、ゼルは左手を使って二個ほど持ち上げる。
「わかった、貰う。そろそろ実験結果も出たはずだからさ。向こうで食べるよ」
「……どうぞ」
お菓子を作った奴が、俯いて頷いた。遠慮でもしているのか? 意外だった。こういう奴は無遠慮で楽しそうに感想を待つものだと思っていたから。――これが思い込みなのか、経験によるものなのか。ゼルの手元に判断材料は残っていない。
実験棟にて。美味しいマフィンを完食した後、ゼルは改造フォークを睨んでいた。本を読みふけっていたクラウツから引き抜いたはいいが――これが示すものは、一旦の手詰まりだった。
ゴーストの干渉を受け、ルーン基には影響も損傷もあった。だが目の前の被験体に、具体的な悪影響はみられない。つまり、ゼルの記憶に関する異常と、ゴーストとの関係を示すものはない。
(次の事例が出るまで、この件に関しては置いておくべきだな)
これ以上の深追いはよくない。あの水流の源がゴーストだと決まっているわけではないから。この世の全てに注意深く目を光らせ、観察し続けるのが研究者の常だ。得体の知れない存在に固執していては、なにひとつわからないままだ。
胸の内で結論を出して、実験道具をテーブルに置いた。果てのない思案は続いたが、ほどなくしてクラウツの声に呼び戻される。
「ゼル、この腕輪は?」
あなたのものではないでしょう、とクラウツは続ける。言われてみれば、これを手にした経緯は身に覚えがなかった。いつの間にか持っていて、携帯している銀の箱と共に持ってきていたのだ。オルゴールだけを懐に戻す。
「さあ? 誰かから貰ったんじゃない」
適当に言ったものの、ゼルにとっては本当に「誰か」だった。
――これをつけた誰かがいたはず。
(僕に残すと言って、それから。思い出せない。どうして)
そこまで思い、考えるのをやめた。またあてのない水中に溺れてしまうから。
ゼルは、自分が持っているはずの道標を流されぬまま、手中に収めていたかった。この欲求とも渇望とも取れる感覚こそが、ゼルを魔導師の構造解明へと突き動かしていた。
他者との記憶が流される、その理由と構造に辿り着けば、もとの記録として組み立て直すことだってできるはずだ。
研究に携わる者として、突き止めたものだけが真実だ。実験器具の開発も、これまで作った無数の品々も、確たる証明が為された定義と定理の上に立っている。
証の示されない曖昧なものを、ゼルはもう信じていない。