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SHINJITE[2] Larimar 2
アリエルは自室の壁を思い切り殴った。兄が出かけた直後のことだった。
この頃は毎朝こうだ。仕事前だというのに兄弟げんかを繰り広げている。武器と魔法を全力で投げて、全て弾かれてこのザマだ。
魔導師として特殊な自分たちは、きょうだいで共通の仕事と役目を持っていた。しかし、次男たるアリエルには家でも外でも決定権がない。兄は融通が利かない性格で、一度揉めたら、何もかもうまくいかなくなるのだ。
――おまえが彼女と会うのを、許しはしないよ。
長男 はそう言った。言い切った、それが今日の火種だった。強情な奴には、どう頼んでも無駄だった。
(せめて、おれの言い分くらいはわかってくれないか)
アリエルが会いたいと願い、兄がそれを拒む相手。彼女 は名前も知らぬ魔導師だ。それも、皆が敵わないほど強くて、危険なことだけがわかっている。
それでも、ただの敵だと思えなかった。
どんなにボロ負けしても、選ばれた魔導師の一族として、工房の仕事には行かなければならない。生業を同じくする兄と、使う部屋が違うのは幸か不幸か。急いで着替えて、荷物を鞄にがっと詰める。鏡台から眼鏡を拾い、気持ちを切り替えるように目元へ押し付けた。
自室の外には、ぐちゃぐちゃと争いの跡が広がっている。片付けはいつもしているのだが、争いの回数が多すぎて、そろそろ追いつかなくなってきた。
「にいさんは帰り遅いし、おれが終わらせとくか」
散らかった、ではすまない有様に、あの日のことを重ねてしまった。様々な破片を移動させ、生活環境を修理しながら思い出す。毎朝火を噴く大喧嘩には、決定的な原因があった。
同業者や一族を襲ったあの事件。
一人の魔導師が仕事場に侵入し、その場で戦闘になったのだ。設備にも被害が出て、巻き込まれた仲間も大きなダメージを負った。
その襲撃者こそが、青と黒の服を着た魔導師の女――アリエルが会いたいと望むその相手であった。
敵対していたわけじゃない。自身も家族も、仕事場を同じくする仲間たちも、何のいわれもなく突然襲われたのだ。そして、皆が深い傷を負った。酷い事件で、もちろん犯人は敵視されている。
だがあのとき、アリエルは聞いたのだ。
――あたしがあれを止めないと。
彼女 の目的は、ただの襲撃じゃない。
兄は襲撃で壊れたものを直したり、怪我をした仲間の仕事を請け負ったりと、工房じゅうを動き回っていた。忙殺されているのは自分もで、仲間も似たような様子だ。仕事と警戒に追われていて、誰も彼も、空気でさえもピリピリしていた。
アリエルはそれが嫌で嫌で仕方がなかった。特に、疲れた顔を誤魔化す兄が。わざと事件に触れないようにしている妹が。閉じ切った今が。
だからアリエルは苛々している。
彼女の声を聞いたのは自分しかいない。
青と黒服の女魔導師は、今頃どこで何をしているのだろうか。あの日彼女はいきなり現れて、工房にあるいくつもの部屋を襲った。けれどそれは、無差別に人を傷つけたかったからじゃない。きっと、何かを探していた。
(おれしか気づいてないんだ。あのひとには、必死で叶えたい目的があるってことを)
アリエルはぜんぶの解決を見つけたかった。一族も工房の仕事も、きょうだいも、謎の魔導師も。皆が楽になるような答えが、必ずどこかにあるはずなんだ。青く黒い魔導師。その真意を知れば。解決できれば何かが進む。アリエルはそう信じている。
例えば、彼女のもつトラブルを解決できれば。「災い」とやらを止めればいい。そうしたら、工房の人々は警戒を解いて、息だってしやすくなる。
そのために工房と家を調べて気づいた。あの兄が、どうやら、彼女の手掛かりを握っているようなのだ。事情も説明して、教えて欲しいと頼み込み――そして、今朝の喧嘩に至る。
ため息。
さて、準備と片付けも済んだところで、そろそろ玄関を通らないといけない。仕事のために工房へ向かうのだ。
選ばれた魔導師としての使命を果たすため、自分たちが集う場所。アリエルはなんとなく、「工房」と呼んでいた。長男 は“館”と、末妹 は“仕事場”と呼ぶが、すべて同じ建物のことだ。古く見せかけた造りの、広くて便利な館。
家を出る前に、玄関で腕輪をつける。一見すると発色の良いただの装飾品だが、工房仕込みの特注品だ。
襲撃のあとに、仕事仲間で色違いのアクセサリーをつける決まりになった。提案者は、朝に散々やってくれたあの男。家から工房に着くまでに、何かあったときのため――「念のため」の、目印だ。
目印と呼んでしまうと、まるで死に際に名を書き記す行為のようで、なんだか不気味に思う。しかし、実際の役目は違うらしい。
腕輪の形をしたそれには高度な術式が刻み込まれていて、同志に助けを求めることができるとか。次に襲撃者 と出くわしたら、無事では済まないと思っているんだろう。
アリエルは兄ほど臆病じゃなかったから、面倒だと断ろうとした。したのだが。
(でも、アイツがなあ)
末妹 がお揃いのアクセサリーだと喜んでいたので、どうしても水を差せなかったのだ。
そういうわけで、似合う自信もないアイテムを見に着けて外に出た。
ちなみに当の妹は、兄二人の喧嘩を意にも介さずぐっすり寝ている――夜遅く朝も遅いのだ。長男と自分とも、彼女ほど生活時間がズレていればよかったのに。そうすれば、今だって平常を取り繕う兄に苛立つことも、家の中で争うこともなかったのに。
そろそろ昼かという時間、空はよく晴れている。こんな日は、開けた草地からでも街の動いている気配がわかる。ここから人通りの多い方に行けば学生街だ。――が、工房は真逆の方向にある。自分たちの仲間しか用事のない立地だ。わざと、そうなっている。
工房仲間はすべて魔導師。つまり、魔物に対抗する力がある。魔物と出くわしたら倒すことも仕事の一環だった。工房の周辺そのものが、学生街を守るのにぴったりの構造になっているのだ。
魔力を持つなにかが動く気配がした。四つ足の魔物が遠くに見える。いつもの、よくあること。
「ぶっとばしてやる」
と、このように。ちょうどいい。よくあるついでに、気晴らしにしてやる。
ぐらぐら燃える怒りをぶつけた全力の魔法。勢いを持って。風の牙が走る――全弾命中! 爆発と、気配が揺らいでなくなる感覚。仕留めた、けれど魔法の流れがいつもと違う。
なにかおかしい。
魔物が消え去った後、そこに人影がいた。魔導師だ。それもかなり強力な。
(まさか、黒服の――)
一瞬期待したが、違う。背丈も、纏う雰囲気も。見れば男だし、服も髪も白い。工房の仲間ではないし、見たこともない。
なぜ、知らない魔導師がこんなところに?
聞き出す前に、相手の方から睨まれた。
「ちょっと」
スカイブルーの目がぎらぎらと、むき出しの怒りをぶつけてくる。さっくりとした声に遠慮の響きはなかった。
「それ、僕の獲物だったんだけど」
――なんだこいつ。
どうやら、さっきの魔物退治でご機嫌ななめのようだ。
「誰が倒したって関係ないだろ、おれだって急いでんだ」
「君が急いでるってことも関係ない。僕のものを盗ったんだから僕に怒られなよ」
暴論だ。かなり気が立っていたらしい。が、彼の言い分には一理も納得できない。
「勝手なこと言うな。だいたいどこの誰だよ、なんでこんなとこに来た? 工房――っと、“家”の関係者か?」
返事はなかった。その魔導師はアリエルを見つめて止まっていた。
「それ」
アリエルを、その手を、手首を――手首に着けたあの腕輪を見つめていた。
「それ、どこかで」
同じ使命をもつ一族だという目印の腕輪。自分たちきょうだい特有の色は、青。「どこかで」彼は繰り返す。「どこ、」流石に様子が変だ。アリエルが一歩近づいた途端。
「思い出せない――」
まるで嚙み合いを違えた歯車のように、知らない男はその場に崩れ落ちた。
左手で頭を押さえて、ここではない場所を見ている。平気な状態じゃない。アリエルは傍まで駆け寄ってすぐさま手を差し出す。
「おいあんた大丈夫か」
「君じゃない!」
ぱりん。と、音、衝撃がして、それは冷気だった。
男は声を荒げて、アリエルの手を跳ね除ける。叫び声と、氷の魔法。とっさに弾いた左手がビリビリと冷えた。
「なっ……、なに、すんだよ!」
防御はしたのに背筋が凍る。もし防げていなかったら、指が数本もっていかれていた。
アリエルがどう問いただしても返事はない。男は何かをぶつぶつと呟いている。混乱の声の間に、かすかに――音楽が聞こえた。
(なんだ、この曲……?)
うすく小さく、ぽろぽろと音色がこぼれている。下からだ。地面を見下ろすと、銀色の箱が落ちていた。綺麗な細工の施されたオルゴール。彼が落とした箱が開いていた
(こいつが落としたのか――なんだこの、オルゴール……だよな?)
知らないメロディだった。アリエルの“知らないオルゴール”だった。知らない仕掛けだった。
「あんたは何者で、こいつは何なんだ」
“彩りの家”に集う者として、アリエルには判別できる。それが見たことのない仕掛けだと。それがどういうことかというと――自分たち“翻訳者”が読み解いたことのない、解明されていない”仕組み記述”でできている、ということだ。つまり、今鳴っているオルゴールは、この魔導師が自ら作ったものになる。
「僕にそれを残したのは、誰――?」
この、恐ろしい魔力を隠しもせず、虚空に声をおとす男の。
――アリエルは知らなかった。
目の前で苦しむ魔導師の正体が、翻訳者泣かせの”ゼル博士”であることも。末妹 のリーエが彼に抱く恋心と執着も。
自分自身が、すべての外側にいることも。
「さっきから、なに言ってんだ」
膝をつく男に、もう一度手を伸ばす。膝をついて、目線を合わせて。
「君じゃ――」
会話はもう成り立っていない。それでもアリエルは、彼に腕輪を渡した。
「こいつが気になるなら、預けるから」
「君じゃ、ないんだ……」
「あとこれも。特注だろ、大事にしな」
オルゴールの蓋を占めて、その手に握らせる。彼には何か、思い出したくて叶わないものがあるのだろう。何もしないのはいやだった。
置いていくこともできなくて、アリエルはしばらくそこにいた。そのうち、彼の仲間だろう魔導師がやってきて、急いで彼を連れ帰っていった。お礼を言われた気もするが、わたわたと慌ただしくてあまり覚えていない。
素性を聞き出す暇もなかったから、彼らがアカデミーの教授であることも、アリエルは知らなかった。
工房に向かいながら思い当たる。腕輪を預けたのはまずかったか。いや、これでいい。
「どうせ、にいさんには怒られるし」
あの魔導師にとって、これで何かが変わるかもしれない。だから渡した。
自分が少しでも物事を動かせば、いつかは全てが上手くいく。そんな解決にきっと繋がる。アリエルはそう信じていたのだ。何も知らないまま。
アリエルは自室の壁を思い切り殴った。兄が出かけた直後のことだった。
この頃は毎朝こうだ。仕事前だというのに兄弟げんかを繰り広げている。武器と魔法を全力で投げて、全て弾かれてこのザマだ。
魔導師として特殊な自分たちは、きょうだいで共通の仕事と役目を持っていた。しかし、次男たるアリエルには家でも外でも決定権がない。兄は融通が利かない性格で、一度揉めたら、何もかもうまくいかなくなるのだ。
――おまえが彼女と会うのを、許しはしないよ。
(せめて、おれの言い分くらいはわかってくれないか)
アリエルが会いたいと願い、兄がそれを拒む相手。
それでも、ただの敵だと思えなかった。
どんなにボロ負けしても、選ばれた魔導師の一族として、工房の仕事には行かなければならない。生業を同じくする兄と、使う部屋が違うのは幸か不幸か。急いで着替えて、荷物を鞄にがっと詰める。鏡台から眼鏡を拾い、気持ちを切り替えるように目元へ押し付けた。
自室の外には、ぐちゃぐちゃと争いの跡が広がっている。片付けはいつもしているのだが、争いの回数が多すぎて、そろそろ追いつかなくなってきた。
「にいさんは帰り遅いし、おれが終わらせとくか」
散らかった、ではすまない有様に、あの日のことを重ねてしまった。様々な破片を移動させ、生活環境を修理しながら思い出す。毎朝火を噴く大喧嘩には、決定的な原因があった。
同業者や一族を襲ったあの事件。
一人の魔導師が仕事場に侵入し、その場で戦闘になったのだ。設備にも被害が出て、巻き込まれた仲間も大きなダメージを負った。
その襲撃者こそが、青と黒の服を着た魔導師の女――アリエルが会いたいと望むその相手であった。
敵対していたわけじゃない。自身も家族も、仕事場を同じくする仲間たちも、何のいわれもなく突然襲われたのだ。そして、皆が深い傷を負った。酷い事件で、もちろん犯人は敵視されている。
だがあのとき、アリエルは聞いたのだ。
――あたしがあれを止めないと。
兄は襲撃で壊れたものを直したり、怪我をした仲間の仕事を請け負ったりと、工房じゅうを動き回っていた。忙殺されているのは自分もで、仲間も似たような様子だ。仕事と警戒に追われていて、誰も彼も、空気でさえもピリピリしていた。
アリエルはそれが嫌で嫌で仕方がなかった。特に、疲れた顔を誤魔化す兄が。わざと事件に触れないようにしている妹が。閉じ切った今が。
だからアリエルは苛々している。
彼女の声を聞いたのは自分しかいない。
青と黒服の女魔導師は、今頃どこで何をしているのだろうか。あの日彼女はいきなり現れて、工房にあるいくつもの部屋を襲った。けれどそれは、無差別に人を傷つけたかったからじゃない。きっと、何かを探していた。
(おれしか気づいてないんだ。あのひとには、必死で叶えたい目的があるってことを)
アリエルはぜんぶの解決を見つけたかった。一族も工房の仕事も、きょうだいも、謎の魔導師も。皆が楽になるような答えが、必ずどこかにあるはずなんだ。青く黒い魔導師。その真意を知れば。解決できれば何かが進む。アリエルはそう信じている。
例えば、彼女のもつトラブルを解決できれば。「災い」とやらを止めればいい。そうしたら、工房の人々は警戒を解いて、息だってしやすくなる。
そのために工房と家を調べて気づいた。あの兄が、どうやら、彼女の手掛かりを握っているようなのだ。事情も説明して、教えて欲しいと頼み込み――そして、今朝の喧嘩に至る。
ため息。
さて、準備と片付けも済んだところで、そろそろ玄関を通らないといけない。仕事のために工房へ向かうのだ。
選ばれた魔導師としての使命を果たすため、自分たちが集う場所。アリエルはなんとなく、「工房」と呼んでいた。
家を出る前に、玄関で腕輪をつける。一見すると発色の良いただの装飾品だが、工房仕込みの特注品だ。
襲撃のあとに、仕事仲間で色違いのアクセサリーをつける決まりになった。提案者は、朝に散々やってくれたあの男。家から工房に着くまでに、何かあったときのため――「念のため」の、目印だ。
目印と呼んでしまうと、まるで死に際に名を書き記す行為のようで、なんだか不気味に思う。しかし、実際の役目は違うらしい。
腕輪の形をしたそれには高度な術式が刻み込まれていて、同志に助けを求めることができるとか。次に
アリエルは兄ほど臆病じゃなかったから、面倒だと断ろうとした。したのだが。
(でも、アイツがなあ)
そういうわけで、似合う自信もないアイテムを見に着けて外に出た。
ちなみに当の妹は、兄二人の喧嘩を意にも介さずぐっすり寝ている――夜遅く朝も遅いのだ。長男と自分とも、彼女ほど生活時間がズレていればよかったのに。そうすれば、今だって平常を取り繕う兄に苛立つことも、家の中で争うこともなかったのに。
そろそろ昼かという時間、空はよく晴れている。こんな日は、開けた草地からでも街の動いている気配がわかる。ここから人通りの多い方に行けば学生街だ。――が、工房は真逆の方向にある。自分たちの仲間しか用事のない立地だ。わざと、そうなっている。
工房仲間はすべて魔導師。つまり、魔物に対抗する力がある。魔物と出くわしたら倒すことも仕事の一環だった。工房の周辺そのものが、学生街を守るのにぴったりの構造になっているのだ。
魔力を持つなにかが動く気配がした。四つ足の魔物が遠くに見える。いつもの、よくあること。
「ぶっとばしてやる」
と、このように。ちょうどいい。よくあるついでに、気晴らしにしてやる。
ぐらぐら燃える怒りをぶつけた全力の魔法。勢いを持って。風の牙が走る――全弾命中! 爆発と、気配が揺らいでなくなる感覚。仕留めた、けれど魔法の流れがいつもと違う。
なにかおかしい。
魔物が消え去った後、そこに人影がいた。魔導師だ。それもかなり強力な。
(まさか、黒服の――)
一瞬期待したが、違う。背丈も、纏う雰囲気も。見れば男だし、服も髪も白い。工房の仲間ではないし、見たこともない。
なぜ、知らない魔導師がこんなところに?
聞き出す前に、相手の方から睨まれた。
「ちょっと」
スカイブルーの目がぎらぎらと、むき出しの怒りをぶつけてくる。さっくりとした声に遠慮の響きはなかった。
「それ、僕の獲物だったんだけど」
――なんだこいつ。
どうやら、さっきの魔物退治でご機嫌ななめのようだ。
「誰が倒したって関係ないだろ、おれだって急いでんだ」
「君が急いでるってことも関係ない。僕のものを盗ったんだから僕に怒られなよ」
暴論だ。かなり気が立っていたらしい。が、彼の言い分には一理も納得できない。
「勝手なこと言うな。だいたいどこの誰だよ、なんでこんなとこに来た? 工房――っと、“家”の関係者か?」
返事はなかった。その魔導師はアリエルを見つめて止まっていた。
「それ」
アリエルを、その手を、手首を――手首に着けたあの腕輪を見つめていた。
「それ、どこかで」
同じ使命をもつ一族だという目印の腕輪。自分たちきょうだい特有の色は、青。「どこかで」彼は繰り返す。「どこ、」流石に様子が変だ。アリエルが一歩近づいた途端。
「思い出せない――」
まるで嚙み合いを違えた歯車のように、知らない男はその場に崩れ落ちた。
左手で頭を押さえて、ここではない場所を見ている。平気な状態じゃない。アリエルは傍まで駆け寄ってすぐさま手を差し出す。
「おいあんた大丈夫か」
「君じゃない!」
ぱりん。と、音、衝撃がして、それは冷気だった。
男は声を荒げて、アリエルの手を跳ね除ける。叫び声と、氷の魔法。とっさに弾いた左手がビリビリと冷えた。
「なっ……、なに、すんだよ!」
防御はしたのに背筋が凍る。もし防げていなかったら、指が数本もっていかれていた。
アリエルがどう問いただしても返事はない。男は何かをぶつぶつと呟いている。混乱の声の間に、かすかに――音楽が聞こえた。
(なんだ、この曲……?)
うすく小さく、ぽろぽろと音色がこぼれている。下からだ。地面を見下ろすと、銀色の箱が落ちていた。綺麗な細工の施されたオルゴール。彼が落とした箱が開いていた
(こいつが落としたのか――なんだこの、オルゴール……だよな?)
知らないメロディだった。アリエルの“知らないオルゴール”だった。知らない仕掛けだった。
「あんたは何者で、こいつは何なんだ」
“彩りの家”に集う者として、アリエルには判別できる。それが見たことのない仕掛けだと。それがどういうことかというと――自分たち“翻訳者”が読み解いたことのない、解明されていない”仕組み記述”でできている、ということだ。つまり、今鳴っているオルゴールは、この魔導師が自ら作ったものになる。
「僕にそれを残したのは、誰――?」
この、恐ろしい魔力を隠しもせず、虚空に声をおとす男の。
――アリエルは知らなかった。
目の前で苦しむ魔導師の正体が、翻訳者泣かせの”ゼル博士”であることも。
自分自身が、すべての外側にいることも。
「さっきから、なに言ってんだ」
膝をつく男に、もう一度手を伸ばす。膝をついて、目線を合わせて。
「君じゃ――」
会話はもう成り立っていない。それでもアリエルは、彼に腕輪を渡した。
「こいつが気になるなら、預けるから」
「君じゃ、ないんだ……」
「あとこれも。特注だろ、大事にしな」
オルゴールの蓋を占めて、その手に握らせる。彼には何か、思い出したくて叶わないものがあるのだろう。何もしないのはいやだった。
置いていくこともできなくて、アリエルはしばらくそこにいた。そのうち、彼の仲間だろう魔導師がやってきて、急いで彼を連れ帰っていった。お礼を言われた気もするが、わたわたと慌ただしくてあまり覚えていない。
素性を聞き出す暇もなかったから、彼らがアカデミーの教授であることも、アリエルは知らなかった。
工房に向かいながら思い当たる。腕輪を預けたのはまずかったか。いや、これでいい。
「どうせ、にいさんには怒られるし」
あの魔導師にとって、これで何かが変わるかもしれない。だから渡した。
自分が少しでも物事を動かせば、いつかは全てが上手くいく。そんな解決にきっと繋がる。アリエルはそう信じていたのだ。何も知らないまま。