wonderland code
痛くない。痛くない。心の中で言い聞かせて立ち上がる。
魔物の爪はモニカの脇腹を抉っていた。浅くはない傷から、熱い血が足を伝って落ちていく。背後に庇った人間は無事のようだ。モニカの傷を見て青ざめてはいるが。
「きみ、どうして」
「魔導師は誰だってそうする。わたしが片付ける、下がっていて」
指を鳴らして、簡単な守護をかける。木陰に彼を押し込んだ後、見やる巨躯。機敏かつ力強い熊の魔物だ。
凶悪な爪や牙、さらには人への敵意が剝き出しの目が鋭く光っていた。獣系の魔物ではかなり強い部類だが、群れる種ではないようだ。敵単体、なら、やれる。
判断するや否や、モニカはベルトに常備してる瓶を手に取り栓を開けた。同時に一陣の風を起こし、瓶詰めの薬草を空中にばらまく。風と薬こそ、モニカと共にある常の武器だった。
薬草が魔法の風を受けて、刃へと形を変える。葉の群れは無数の毒牙となり、魔物の全身を切り裂いた。反撃は許さない。モニカは続けて、特別な呪文を叩きこむ。
「つづいて。――“スピンシル”!」
唱えた言葉は、ただの魔法をとっておきの一撃にした。葉と風の刃に切り刻まれて、魔物は断末魔と共に消滅した。
急いだ代わりに全力だった。二度はできない。とっておきとはそういうものだ。
一旦、目を閉じて周辺の気配を探る。この頃腕を磨いている感知の魔法だ。いま、他に魔物や気が立った獣は――いない。ひとまず危機は去ったのだ。
いまはいいが、これからはどうだろう。あの手の魔物は元々このあたりに生息していただろうか? 一度魔物たちの調査をしてみたほうがいいな、と頭の片隅に置いておく。地道な調べものは好きだった。人間じみていて。
すべての状況を確認して、やっと息を緩めたとき。
さっきの人間が盾を構えながら、「大丈夫でしたか」と、声をかけてきたのだ。
「俺を庇ってこんな怪我をして」
とうろたえる彼は、やはりこちらを心配している。それに、血にも動揺しているのか。モニカはわかった。魔導師の中でも、特別な力を持っているから。――他者の心の傷が見えるから。
「わたしは大丈夫。魔導師にとっては命に関わる傷じゃない」
魔導師は心も身体も、人間よりずっと丈夫だ。大まかに比べても、鎖と糸ほどの違いはある。
「人間が受けたら、痛みだけでもう耐えられないはずだから」
だから、魔導師なら誰だって庇うのだ。傷が痛もうとも血を流そうとも、この程度では死なない。
「そうかもしれないが、でも」
「同じ人間かと思って心配になったんでしょ?」
ボトムスもトップスも工夫のない作業着だったから、いかにも人間に見えたのだろう。外に行くときは、もう少し魔導師だとアピールする服を着た方がいいかもしれない。
「怖い思いをさせてごめんなさい。血もすぐ止まるから平気よ」
といったようなことを、もう少し説明したところで、やっと青年は落ち着いたようだった。
「助けてくれてありがとう、魔導師のお嬢さん」
そこで改めてやっと、モニカも彼の姿を見た。目についたのは装備だ。手にした武器は壊れている。元々質素な造りのようだ。脆いのは盾も同様。戦いなれているわけではなさそうだった。
そもそも、ここで人間と出会うことはまずない。モニカは薬師の仕事の一環――薬草をはじめとする植物の調査に来ていたが、人の姿を見ることすら稀だ。
人間が移動するだけなら国全体を通る十字路でいいし、その大通りを外れるとしても森より安全な道が他にある。特別な用事がなければ、ここには誰も来ないはずなのだ。
「見ない顔ね。この辺りの森は村から遠いし、今みたいに魔物と出会うこともある。人間がひとりでどうしたの?」
青年は、初対面だったことを思い出したように慌てていた。日に焼けた肌がしっくりくる、からっとした声。短い髪も相まって、爽やかな印象だ。
「俺はダルケ。けっこう東の方にある村から来たんだ」
「わざわざ、こんな森の奥まで?」
「森の奥で、色んな薬草が採れるって話を聞いてさ」
――たしかにそうだが。
「自分で取りに来たの? ひとりで?」
この森が多用な薬草の群生地であることは正しい。モニカだってその種類と特徴を定期的に調べている。ただ、人間が直接採集できるほど平和な場所ではない。モニカが気づかなければ、今頃彼は。
(なにかの事情に急かされて、来るしかなくなったのね)
それを示すような彼の苦しみが、モニカには見えている。形は人間の心によくある傷だが、それにしても多い。心配事の色がたくさん、刺し傷のように重なっている。普段から多くのものを抱えている心の色だ。
「俺が行くしかなくて。……弟が病弱で、しょっちゅう臥せってるんだ」
空を見上げて、ダルケは手を伸ばす。ともに伸びた背に負う籠に、様々な薬草袋が放り込まれていた。
「痛み止めから、風邪に寒気に、色々用意しておきたくてさ。弟とは二人暮らしだから、外に行けないあいつのために、俺が何とかしたくって」
話を詳しく聞くと、ダルケは弟のためにたくさんの香草や薬草を備蓄しているらしい。いつ無くなってもおかしくないのは、彼の故郷では定期的に同じ病が流行るから。それに罹れば治療に、罹らなければ滋養にと、様々な薬や薬膳料理を試す。そうなれば、必要なのは量だ。
――そんな話を「薬師の一階建て」で受け持ったことはない。
(ああ、逆の村の人か)
モニカの師匠であり「一戸建て」の主、魔導師セイが関わりを持たない村。東の方角にいくつかある、と話だけで知ってはいた。住民と会うのはこれが初めて。西方では広く伝わる「薬師の一階建て」を、きっと名前すら知らない人々だ。
薬師はそちらにはいないのかと問おうとして、考え直す。モニカが聞かずとも、人間であるダルケが無理をしてここまで来ているのが既に答えだ。
「魔導師を探して、力を借りたいとも思った。けど。人と過去とが邪魔をして」
「そうだったの?」
彼の故郷は、魔導師の協力そのものに懐疑的らしい。気でも狂ったのか暴走した魔導師が、人間を害する事件を起こしたという。
(どうりで、師匠も行かなかったのね。向こうのためを思って近づかずにいた、と)
臆病なあの人らしい判断だ。モニカがセイの立場なら、村人全員を騙してでも人間のフリをして介入していただろう。――それだけの力量があればの話だが。
「この辺りに魔物がいるなんて聞いたこともなかったんだ。獣たちが増えたのは知ってたから武器は持ってきたけど、魔物なんて相手できなくて――本当に助かったよ」
師匠の手がダルケの村にまで届けば、この青年が魔物に襲われることもなかっただろう。けれど、そんな危険を冒してでも、守りたい存在がダルケにはあるのだ。
「弟さんのことが、本当に大切なのね」
能力がなくたって、彼の表情を見ればわかることだった。
「小さい子なの?」
「子供ってほどではないかな。ちょうど、魔導師さんの姿と同じくらいの年」
誇る声が笑う。ダルケは穏やかな笑みを浮かべていた。何気ない日々こそが輝かしいのだと知る者の目をしている。そんな彼を置いていく理由は、モニカにはない。
「そう。――このこと、こっそり魔導師の師匠に取り次いでもいいよ。村の人にバレたら、わたしと一緒に怒られて」
「そのくらい、なんでもないさ」
モニカはそっと、ダルケから目を逸らした。視線はなんとなしに上へ導かれ、昼下がりの青い空へ。森から見上げる空は高くて遠い。
「あいつの助けになるのなら、どんなことだってしてやりたいんだ」
「そうね」
モニカにとって、それは身に覚えのある物言いだった。
黄色い果実の香りが、記憶の底から蘇る。あの子が好きだった、酸っぱくて爽やかな。
(彼女に言われたら、わたしも何だってしてた)
あの子が何かを食べたいと言えば、駆けずり回って探し出した。空が見たいと言われれば、あの子を外に連れ出して――。
それはモニカの根源になる思い出。モニカに魔法をかけた、ある少女との日々。
遥か昔に恋した親友が、人間であったゆえに命を落としたと。それだけのこと。魔導師ならば決して罹らない、命を蝕む病によって。
(あの子を看病していたときのこと、とっても覚えている)
魔導師が手を尽くしても、原因がわからなければ人は治せず。人間の病とは魔法の範疇にないもので、モニカはずっと無力だった。
――知ってる? 人間にも、おまじないって魔法があるんだよ。
痛いの、痛いの、とんでいけ。囁く声は、魔法というより悪戯で。命の期限を知っている少女の言葉とはとても思えなくて。「痛いのはあなたでしょ」なんて返事をしたはいいけど、涙を零すのも止められなくて。
なにをしても彼女の命はほつれていって、その様子を傍で見ることしかできない。朝から夜まで迷子で、道しるべは親友ひとりだけ。でも彼女は病に苦しんでいて、もう助からないと互いにわかっている。
(それなのにあの子ときたら、些細な幸せすらわたしに分け与えてくれたんだ)
回想を一度しまって、瓶を片付ける。帰ったらまた草を加工しなければならない。
ダルケは弟の話から一周して、いつのまにかモニカの言葉に戻ってきていた。
「さっき、魔導師なら平気だとか言ってたけど。平気でも、『痛くない』わけじゃないんだな」
「そうね、痛くはある。痛みの感覚も人間とは違うし、平気なのも嘘とかじゃない」
魔物から受けたの傷はもう塞がっていて、出血も止まっていた。
固有発現でモニカにだけ見える、他者の心の傷のほうがよっぽど深い。ダルケが抱える、弟を失うことへの恐怖のように。
あの喪失が昔のことになっても、モニカにとって親友との日々は未だに尊く残っている。そしてまだ、胸の奥はずきりと鳴る。
「ただ――誰かを助けられないかもって不安も、失うことへの恐怖も、同じみたいに痛い」
――だから、あなたの言うこと、きっと間違ってない。
木々をすり抜けた風が、ここにないはずの香りを運んでくる。すっきりとした黄色い思い出が、モニカの赤い髪を遊ぶように揺らしていった。
問題解決において、モニカは師匠と同じく効率のいい手順を好む。
まずはセイに、彼らの件を伝えるべきだろう。師の調合技術や知識なら、流行り病とやらの正体もわかるかもしれない。
「いまから師匠のところに案内するよ。わたしが断らせない。師匠が色々準備してる間、あなたにできることはわたしが教える。細かいことは向かいながら話すけど、歩けそう?」
「大丈夫。ありがとう。恩に着るよ、本当に……」
礼の合間を縫って、目の端でダルケの傷を見る。そこには数え切れないほどの不安が重なっていた。でも。
「いいの。それであなたたちの痛みが、少しでも軽くなるなら」
ひとつ苦しみがほどけるだけで、ずっと息がしやすくなると、モニカは知っている。
魔導師として、人間を助けるのは当たり前。薬師の弟子が、病人を見捨てられないのもまた同じ。けれどモニカは、もっとたくさんの理由を持っている。人間たちに生き方を編み込んでいく動機を。これまでに負った心の傷、その数だけ。
(あなたを救えない恐怖を、あなたを失った痛みを、わたしに撚り重ねて生きていく)
人はみな、痛みと共に歩んでゆくから。
魔物の爪はモニカの脇腹を抉っていた。浅くはない傷から、熱い血が足を伝って落ちていく。背後に庇った人間は無事のようだ。モニカの傷を見て青ざめてはいるが。
「きみ、どうして」
「魔導師は誰だってそうする。わたしが片付ける、下がっていて」
指を鳴らして、簡単な守護をかける。木陰に彼を押し込んだ後、見やる巨躯。機敏かつ力強い熊の魔物だ。
凶悪な爪や牙、さらには人への敵意が剝き出しの目が鋭く光っていた。獣系の魔物ではかなり強い部類だが、群れる種ではないようだ。敵単体、なら、やれる。
判断するや否や、モニカはベルトに常備してる瓶を手に取り栓を開けた。同時に一陣の風を起こし、瓶詰めの薬草を空中にばらまく。風と薬こそ、モニカと共にある常の武器だった。
薬草が魔法の風を受けて、刃へと形を変える。葉の群れは無数の毒牙となり、魔物の全身を切り裂いた。反撃は許さない。モニカは続けて、特別な呪文を叩きこむ。
「つづいて。――“スピンシル”!」
唱えた言葉は、ただの魔法をとっておきの一撃にした。葉と風の刃に切り刻まれて、魔物は断末魔と共に消滅した。
急いだ代わりに全力だった。二度はできない。とっておきとはそういうものだ。
一旦、目を閉じて周辺の気配を探る。この頃腕を磨いている感知の魔法だ。いま、他に魔物や気が立った獣は――いない。ひとまず危機は去ったのだ。
いまはいいが、これからはどうだろう。あの手の魔物は元々このあたりに生息していただろうか? 一度魔物たちの調査をしてみたほうがいいな、と頭の片隅に置いておく。地道な調べものは好きだった。人間じみていて。
すべての状況を確認して、やっと息を緩めたとき。
さっきの人間が盾を構えながら、「大丈夫でしたか」と、声をかけてきたのだ。
「俺を庇ってこんな怪我をして」
とうろたえる彼は、やはりこちらを心配している。それに、血にも動揺しているのか。モニカはわかった。魔導師の中でも、特別な力を持っているから。――他者の心の傷が見えるから。
「わたしは大丈夫。魔導師にとっては命に関わる傷じゃない」
魔導師は心も身体も、人間よりずっと丈夫だ。大まかに比べても、鎖と糸ほどの違いはある。
「人間が受けたら、痛みだけでもう耐えられないはずだから」
だから、魔導師なら誰だって庇うのだ。傷が痛もうとも血を流そうとも、この程度では死なない。
「そうかもしれないが、でも」
「同じ人間かと思って心配になったんでしょ?」
ボトムスもトップスも工夫のない作業着だったから、いかにも人間に見えたのだろう。外に行くときは、もう少し魔導師だとアピールする服を着た方がいいかもしれない。
「怖い思いをさせてごめんなさい。血もすぐ止まるから平気よ」
といったようなことを、もう少し説明したところで、やっと青年は落ち着いたようだった。
「助けてくれてありがとう、魔導師のお嬢さん」
そこで改めてやっと、モニカも彼の姿を見た。目についたのは装備だ。手にした武器は壊れている。元々質素な造りのようだ。脆いのは盾も同様。戦いなれているわけではなさそうだった。
そもそも、ここで人間と出会うことはまずない。モニカは薬師の仕事の一環――薬草をはじめとする植物の調査に来ていたが、人の姿を見ることすら稀だ。
人間が移動するだけなら国全体を通る十字路でいいし、その大通りを外れるとしても森より安全な道が他にある。特別な用事がなければ、ここには誰も来ないはずなのだ。
「見ない顔ね。この辺りの森は村から遠いし、今みたいに魔物と出会うこともある。人間がひとりでどうしたの?」
青年は、初対面だったことを思い出したように慌てていた。日に焼けた肌がしっくりくる、からっとした声。短い髪も相まって、爽やかな印象だ。
「俺はダルケ。けっこう東の方にある村から来たんだ」
「わざわざ、こんな森の奥まで?」
「森の奥で、色んな薬草が採れるって話を聞いてさ」
――たしかにそうだが。
「自分で取りに来たの? ひとりで?」
この森が多用な薬草の群生地であることは正しい。モニカだってその種類と特徴を定期的に調べている。ただ、人間が直接採集できるほど平和な場所ではない。モニカが気づかなければ、今頃彼は。
(なにかの事情に急かされて、来るしかなくなったのね)
それを示すような彼の苦しみが、モニカには見えている。形は人間の心によくある傷だが、それにしても多い。心配事の色がたくさん、刺し傷のように重なっている。普段から多くのものを抱えている心の色だ。
「俺が行くしかなくて。……弟が病弱で、しょっちゅう臥せってるんだ」
空を見上げて、ダルケは手を伸ばす。ともに伸びた背に負う籠に、様々な薬草袋が放り込まれていた。
「痛み止めから、風邪に寒気に、色々用意しておきたくてさ。弟とは二人暮らしだから、外に行けないあいつのために、俺が何とかしたくって」
話を詳しく聞くと、ダルケは弟のためにたくさんの香草や薬草を備蓄しているらしい。いつ無くなってもおかしくないのは、彼の故郷では定期的に同じ病が流行るから。それに罹れば治療に、罹らなければ滋養にと、様々な薬や薬膳料理を試す。そうなれば、必要なのは量だ。
――そんな話を「薬師の一階建て」で受け持ったことはない。
(ああ、逆の村の人か)
モニカの師匠であり「一戸建て」の主、魔導師セイが関わりを持たない村。東の方角にいくつかある、と話だけで知ってはいた。住民と会うのはこれが初めて。西方では広く伝わる「薬師の一階建て」を、きっと名前すら知らない人々だ。
薬師はそちらにはいないのかと問おうとして、考え直す。モニカが聞かずとも、人間であるダルケが無理をしてここまで来ているのが既に答えだ。
「魔導師を探して、力を借りたいとも思った。けど。人と過去とが邪魔をして」
「そうだったの?」
彼の故郷は、魔導師の協力そのものに懐疑的らしい。気でも狂ったのか暴走した魔導師が、人間を害する事件を起こしたという。
(どうりで、師匠も行かなかったのね。向こうのためを思って近づかずにいた、と)
臆病なあの人らしい判断だ。モニカがセイの立場なら、村人全員を騙してでも人間のフリをして介入していただろう。――それだけの力量があればの話だが。
「この辺りに魔物がいるなんて聞いたこともなかったんだ。獣たちが増えたのは知ってたから武器は持ってきたけど、魔物なんて相手できなくて――本当に助かったよ」
師匠の手がダルケの村にまで届けば、この青年が魔物に襲われることもなかっただろう。けれど、そんな危険を冒してでも、守りたい存在がダルケにはあるのだ。
「弟さんのことが、本当に大切なのね」
能力がなくたって、彼の表情を見ればわかることだった。
「小さい子なの?」
「子供ってほどではないかな。ちょうど、魔導師さんの姿と同じくらいの年」
誇る声が笑う。ダルケは穏やかな笑みを浮かべていた。何気ない日々こそが輝かしいのだと知る者の目をしている。そんな彼を置いていく理由は、モニカにはない。
「そう。――このこと、こっそり魔導師の師匠に取り次いでもいいよ。村の人にバレたら、わたしと一緒に怒られて」
「そのくらい、なんでもないさ」
モニカはそっと、ダルケから目を逸らした。視線はなんとなしに上へ導かれ、昼下がりの青い空へ。森から見上げる空は高くて遠い。
「あいつの助けになるのなら、どんなことだってしてやりたいんだ」
「そうね」
モニカにとって、それは身に覚えのある物言いだった。
黄色い果実の香りが、記憶の底から蘇る。あの子が好きだった、酸っぱくて爽やかな。
(彼女に言われたら、わたしも何だってしてた)
あの子が何かを食べたいと言えば、駆けずり回って探し出した。空が見たいと言われれば、あの子を外に連れ出して――。
それはモニカの根源になる思い出。モニカに魔法をかけた、ある少女との日々。
遥か昔に恋した親友が、人間であったゆえに命を落としたと。それだけのこと。魔導師ならば決して罹らない、命を蝕む病によって。
(あの子を看病していたときのこと、とっても覚えている)
魔導師が手を尽くしても、原因がわからなければ人は治せず。人間の病とは魔法の範疇にないもので、モニカはずっと無力だった。
――知ってる? 人間にも、おまじないって魔法があるんだよ。
痛いの、痛いの、とんでいけ。囁く声は、魔法というより悪戯で。命の期限を知っている少女の言葉とはとても思えなくて。「痛いのはあなたでしょ」なんて返事をしたはいいけど、涙を零すのも止められなくて。
なにをしても彼女の命はほつれていって、その様子を傍で見ることしかできない。朝から夜まで迷子で、道しるべは親友ひとりだけ。でも彼女は病に苦しんでいて、もう助からないと互いにわかっている。
(それなのにあの子ときたら、些細な幸せすらわたしに分け与えてくれたんだ)
回想を一度しまって、瓶を片付ける。帰ったらまた草を加工しなければならない。
ダルケは弟の話から一周して、いつのまにかモニカの言葉に戻ってきていた。
「さっき、魔導師なら平気だとか言ってたけど。平気でも、『痛くない』わけじゃないんだな」
「そうね、痛くはある。痛みの感覚も人間とは違うし、平気なのも嘘とかじゃない」
魔物から受けたの傷はもう塞がっていて、出血も止まっていた。
固有発現でモニカにだけ見える、他者の心の傷のほうがよっぽど深い。ダルケが抱える、弟を失うことへの恐怖のように。
あの喪失が昔のことになっても、モニカにとって親友との日々は未だに尊く残っている。そしてまだ、胸の奥はずきりと鳴る。
「ただ――誰かを助けられないかもって不安も、失うことへの恐怖も、同じみたいに痛い」
――だから、あなたの言うこと、きっと間違ってない。
木々をすり抜けた風が、ここにないはずの香りを運んでくる。すっきりとした黄色い思い出が、モニカの赤い髪を遊ぶように揺らしていった。
問題解決において、モニカは師匠と同じく効率のいい手順を好む。
まずはセイに、彼らの件を伝えるべきだろう。師の調合技術や知識なら、流行り病とやらの正体もわかるかもしれない。
「いまから師匠のところに案内するよ。わたしが断らせない。師匠が色々準備してる間、あなたにできることはわたしが教える。細かいことは向かいながら話すけど、歩けそう?」
「大丈夫。ありがとう。恩に着るよ、本当に……」
礼の合間を縫って、目の端でダルケの傷を見る。そこには数え切れないほどの不安が重なっていた。でも。
「いいの。それであなたたちの痛みが、少しでも軽くなるなら」
ひとつ苦しみがほどけるだけで、ずっと息がしやすくなると、モニカは知っている。
魔導師として、人間を助けるのは当たり前。薬師の弟子が、病人を見捨てられないのもまた同じ。けれどモニカは、もっとたくさんの理由を持っている。人間たちに生き方を編み込んでいく動機を。これまでに負った心の傷、その数だけ。
(あなたを救えない恐怖を、あなたを失った痛みを、わたしに撚り重ねて生きていく)
人はみな、痛みと共に歩んでゆくから。