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 恋におちてった。
 決定的な瞬間があったわけじゃない。気が付いたときには何度も始まっていた。
「はじめまして」
 世界が色づいたとか、胸を打つ一言があったとか、そんなわけじゃない。ただ繰り返す初対面を嬉しく感じることは、わたしにとって紛れもなく恋だった。

 恋の相手は、隣の席――同じ台を囲むカウチに座る魔導師だ。革靴を履きこなした白衣の男。
 白くやわらかな髪は前を編み込んで、残りをあそばせている。気障ったい後れ毛はかえって精密に見えた。楽器の似合いそうな手は、いまはホースに繋がった管を握っている。好奇のはずむ青い目が光る。ご機嫌な口からマウスピースを外し、煙を吐く。

 スウィートオレンジ・ショコラの甘い煙。
 わたしも同じ動作をしているはずなのに、どうも彼の方がサマになっている。恋の贔屓目か、彼がこの店に贔屓されているからなのか。

 灰色の床と対照的に、極彩色のランプが並ぶ室内。己の古さを誇った風合いの椅子がいくつも用意されていた。椅子が囲むのは机ではなく、瓶に似た形の装置である。頂点に熱、内側に水。わたしたちが握るパイプは、この装置の末端である。
 つまり、わたしと隣席の彼は、シーシャ台を囲んで同じ煙を愉しむ同志であった。
 それだけだった。

 水煙草愛好家の穴場である、小規模なシーシャバー。名前は“イチゴイチエ“という。
 個人の趣味が発展してできた店だ。中でも決定的だったのは、店主のコレクションに興味を持った魔導師の援助だったという。そんな開店秘話は、カウンター奥でこちらを見守っている人間――店主本人から聞いた。
 そして、「店を開くにあたって資金など援助した魔導師」こそが、わたしの隣――同じ台を囲む席に座っている、青い目の彼だ。

 シーシャ、カウチ、ホース、パイプ、指先、煙、私に彼。もう何度、この構図になったかわからない。もう何度、同じように彼と会ったか。

 何度かわからないから、そうだな、抜粋しよう。運よく、他の客を巻き込まなかった日を。二人で過ごせる幸運を幸運ではなくするために。必然に辿り着くために。


【抜粋 n+1枚目】
 ――ある夜。
 その日も店主は私を連れて、「今日も相席で良いかな」と彼に告げる。
「かまわないよ」
「はい。隣の椅子、失礼するね。また前と同じフレーバー?」
 わたしはわざと腕輪を揺らした。ディープ・ブルーが目立つ大きな腕輪。前にここで会ったときにも、つけていたもの。明るく笑いかけてみるけど、彼は冷たく突っぱねるのみ。
「前って何?」
「えーと、わたしのこと知らない?」
「君と知り合った記憶なんてないよ。はじめまして、隣の人」
 以前も彼とはここで会った。何度もこの席で隣になった。そのたび、こうやってはじめましてを交わす。

 笑顔を作ってはみるけれど、自分でもわかる程に呆れと不機嫌が滲んでしまう。彼にはバレていないようだ。覚えられてもいないけど。海底のような色に整えた長い髪も、あえて毎回同じものを選ぶ飾り眼鏡も。彼相手には意味がない。
 名前も知らない初恋の人。何度出会っても、わたしを覚えていない人。

 火と煙を整え、この席での仕事を終えた店主は席を離れる。
「お客さん、喧嘩しないでね」
 なんて言い残して。
 気まずい空気が残る。煙の味で上書きしたかった。黒いパイプを握ると、ネイビー・ブルーに彩った爪がパイプに映えて心躍る。手元を自慢でもできたら、文字通り爪痕を残せるのかな。なめらかに冷えている煙に意識を移す。クリーミーで甘いフレーバーのそれを、沁みるように味わって吐き出した。

「お隣さん、よく来るの?」
「まあまあ」
 彼はこちらを向かずに返答した。現状が「はじめまして」であるのをいいことに、わたしはいつも色々なことを聞く。新しい一面を見るたびに、増えていく好きをじんわり嚙みしめるのだ。例えば、このフレーバーの名前が「ショートロールケーキ」なのも、お気に入りであることも、彼から教わった。優しい人ではないけれど、聞けばちょうどいい音感で答えてくれるのだ。

「そっか。わたしはときどき、落ち着きたくて煙やりにくるの」
わたしはシーシャを味わうことを「煙をやる」と呼ぶ。ちょっとワルいこと、日常的常識からの解放、そういう文脈で「煙やりにいってくるね」なんて言って出かけるのだ。
 他の客には、身内にこの趣味を隠す者もいるらしい。なにも後ろ暗いことではないでしょうに、と思うけど、人間たちは煙が病を誘発するっていうから。難儀なものね、いつどこで、誰が何が、病の種を握っているかわからない。
 弱い彼らは、そのはずなのに煙に酔うという。だからかな、弱い彼らを、わたしたちは救いたいのでしょ。あなたもきっと。

 香りを味わって煙を吐く。白でも黒でもない煙は、灰色のリボンをほどいたみたいだった。
「あなたがシーシャを好きなのはなぜ? 葉巻じゃなくて水煙草なのは?」
「なんで僕の話?」
「煙仲間の魔導師って、初めてなの。話したくてさ」
 常套句だった。初めての仲間にしか使えない手段だけど、彼にとってはこれが私との初対面だ。
「理由なんて必要?」
 それもそうだ。でも、知りたい気持ちは負けられない。手を変え品を変え、言葉を変えて聞き返す。仕事柄、言い換えには自信がある。
「じゃあ、どこが好き? 甘いシーシャ?」
「何処……なら、水だろうか」
 ふう、と吐き出された煙が昇る。わたしたちが口にする前に、この煙は水をくぐって手元
「煙は溺れて尚、上にゆくことに、なにか理由がありそうだ。水は嫌いじゃないんだ」
「水が?」
 聞き返すわたしに、一度、ぐわりと灰色を広げて彼は言う。
「ああ、聞いたことがある。流水は爛熟しない、と。それが好ましいのかも」
「なんだか不思議で、でも面白い話ね。ありがとう」
 と、一度、会話を終わりにする。シーシャの炭――加熱加減の様子を見に来た店主のために一度パイプを手放し、天井のランプを見つめた。
 話を聞けたのはそれだけで満足。彼の目は、返事の前に答えを探していた。問うようであった。「水だろうか」「なにか理由がありそう」「好ましいのかも」――ずっと、推し量るような物言いなのがひっかかる。
 これが些細な疑問なら、何もわからないまま時間に溶かされていくんだろう。けどこの不可解さは、長い間ひっかかり続けることになる。

 しばらくして。雑な支払いを経て彼が出ていく。常連客を見送った店主の視点は、次にこちらを向く。
「今日は覚えて貰えたかもね」
 店主の青年がにこりとわらう。決まりごとのように、毎回。
「それはどうかな」
 と、わたしは返事をして、そのまま彼を追うように会計をする。

 一期一会を大切にする、と銘打っているくせに、店主はわたしたちを二人席にする。わたしがフレーバーを問わないから、同じ魔導師だから。口実はいくらでもあるけど、結局はこの恋を知る店主の計らいだ。
 何度話しても初めましてになる、なんて望みのない話を、応援したいんだとか。気持ちは嬉しいし、隣の席は助かるけど。何回も聞かれるのだけは、ちょっといや。

 さて、店を出てすぐに彼を探した。目立つ姿はすぐ見つかった。飾り気のない白衣の裾が、夜風をはらんで舞い上がる。何も語らない、かっちりとした背中が、距離より遠く見えて。後ろ姿をふと、追いかけてみたくなる。どの道から帰るのか知りたくさせる。
 ――だって次会うときには、はじめましてなんでしょ?

 今日のわたしは、ここに置いていかれるんだ。


【抜粋 x=n+2枚目】
 ――また、ある夜。
「隣の席、座らせてもらうね。えっと、はじめまして。」

 わたしが「イチゴイチエ」に来店した時の流れはいつも変わらない。わたしを迎えた店主はまず、一番奥の席を確認する。彼が来ているときには、その隣の椅子は必ず空いている。そこがわたしの席になるのだ。
「隣、失礼するね」
 席に着いてからも同じ。はじめましてして、落胆隠して、ここで買ったマウスピースをセットする。

 店主から、今日のフレーバーを教わる。ここでスイーツの名前を聞かなかったことがない。この人やっぱり、甘いのがお好きなのね。
 あら。
 今日は、羽織ってるものが、違う!
 白い革のジャケットだ。初めて見た。長い間使いこまれた、きっと高級品だ。革靴もそうだが、このひとは相当いいものを身に着けている。もっとも、彼が金に糸目をつけないタイプなのはこの店が証明しているけど、それにしたって。
 魔導師に金持ちは案外いないと思ってるんだけど、違うのかな。お金を欲しがる人がそもそもいないし。お金が入ってくるような職や地位についてるの?

「ねえ、あの――」
 こういうとき、呼び名を知らないのは不便だ。これまで会った魔導師たちは、偽名がなければ何らかの役職を名乗っていたけど。それすら知らない。わたしは知りたい。わたしの辞書にあなたの記述がもっと欲しい。
「わたし、ここで魔導師に会うなんて初めてなの」
 そして、名を知りたがるのはわたしの方だけ。自然な会話を取り繕うのも。

「あなたって、なんの仕事をしているの?」
「仕事の定義は?」
 ピュアな冷気が問いかけに乗って、世界が切り替わった。

「金銭を得る手段? それとも誇っている役目? 魔導師としての力を使う分野? 仕事、という単語が言い表すものは広く、問いがどこを指すかによって答えは変わる」
 青い瞳がぎらり、こっちを見た。綺麗だ。

「君、いかなる意味合いを以て僕の『仕事』を聞いたの?」
 問われている。わたしが。
 わたしから聞いていたはずなのに。
 流れる水より早く回る口と並べられる言葉は精巧な絡繰りみたいで、ただ話を聞くだけでは何もわからない。――追いつきたい自分の心だけが、はっきりしていく。
「すべての意味合いで、聞きたいよ。曖昧を、曖昧として定着させる誠実もあるから」
 煙ではなく、息を吸う。うすくゆっくり言葉をのせて吐いていく。
「あなたの考える定義で教えてくれれば、それでいい」
 横顔じゃなく正面から見つめて、彼の返事を待つ。

 そのとき、地面を失ったような心地で。
「僕の役職は、なんなんだろうね」
 水に息を奪われた人の気持ちで、わたしはその声を聞いた。わたしが知りたいことを、あなたは知らないの? あなたのことなのに。

 ふう、とほどける煙が、わたしをこの場所に戻す。ここで終わりにしたくない。
「じゃあ、質問の角度を変えるね。あなたのこと、何て呼べばいい?」
「人はみんな、他者のことを好きに呼ぶだろ。君も好きに呼べば?」
 たしかにそれはそうだけど、と思う。もう一度別の方向から聞かなきゃな。頭の辞典をめくっている間に、彼の方から言われた。
「ああでも、『どう呼ばれてるか』も、役職なのか。なら博士だっけ」
 は?
「ハカセえ?」
 馴染みのある言葉が飛んだ。聞き返したはいいけど、変な声だと思われなかった?
「胸の凍った博士とか、混沌がどうのとか、色々」
 ――とんだ急展開だ。
 そんな呼ばれ方をしている魔導師なんて一人しか知らないし、一人しかいない。わたしの“仕事場”で飛び交う、様々な愚痴の対象じゃないか。彼の高度な技術に誰も届かないとか、何考えてるんだとか言われている――あのゼル博士。

「……じゃあ、わたしも博士って呼んじゃう」
 という表明に対しては、肯定も否定もされなかった。さっき「好きに呼べば」と言われたばかりだし、わたしだってそうするだけだ。
 それにしても、と彼――博士はわたしに言った。
「いい転換じゃないか。そっちの質問には、事実として結論があるからね。答えやすい」
 私服の博士はからっと笑う。わたしたちは煙を味わう世界に戻った。すべての言葉を嚙み砕くために時間が必要だった。

 退店は博士よりわたしのほうが後だ。店主は今回も緩んだ頬で問う。
「あんなに饒舌で 濃厚なおしゃべりをしていたんだから。今日こそ覚えてもらったんじゃ?」
「それは、どうかなあ」
 ――ぜんぜん覚えてないでしょ。とは思ってたけど、言わなかった。一度も言えなかった。
 だって期待してたから。
 ため息に、煙はついてこなかった。

 夜の風は優しい冷たさで街を覚ます。足が向いたのは「彼の帰り道」――もう誰もいない橋だった。

 四人が並んで歩けるほどの幅ながら、あまり知られていなかった。石造りの欄干はしっかりしている。涼やかな風が吹き込んできて居心地もいい。ただ、この規模ながら人々に有難がられていた様子はない。人間たちが造ったか、造った魔導師が既に死んでいるのか。どちらにせよ、人通りが少ない橋だった。
 上では街灯が橋を示し、下では音を立てて川が流れている。流れは穏やかとは言えない。――流水は爛熟しない。だから彼は、ここを通って帰るんだろうか。
「それにしても――ゼル博士、かあ」
 わたしの、わたしたちの“仕事”において避けて通れない存在。世界で一番、遠いと思っていた魔導師。それが、恋の相手にして相席の彼。
 
「どんな顔で、明日からお勤めすればいいのかね」
 なんて呟きは、川下に流されてしまえ。


【抜粋 x+3枚目】
 ――それから少し経った、とある夜。
 わたしは、彼がゼル博士だと知らないフリを続けている。どちらにせよ初対面になるのだから、姿を知っているのは不自然だ。名の知れた魔導師の、姿までもが有名とは限らない。

 いつも通りの席に案内される。彼のいない日だってあるんだけど、なんだか最近はよく会うなあと思う。わたしは煙より、彼に会うために足を運んでいる。出会ってから、もう、ずっと。

「待たせてしまってごめんなさいねぇ、ホラ彼、一度喋り始めると長いから」
 とは、店主の弁である。わたしの入店から席への案内までしばらく間があったのだ。新しく店内にやってきた絡繰機械に関して、博士が口を回していたらしい。そうそう、彼は魔導師関係や魔法技術の研究分野で博士と呼ばれているけど、他に世界有数の技師でもあった。そのぶん、ひとにはとことん興味がないけれども。

 たしかに前からそうだった。シーシャのフレーバーや装置、店にある他の機器などなど、すごくよく覚えていると感心したものだ。頭の切れる人物だとは思っていた。けれどまさか、かの高名な、あの悪名高い、ゼル博士とは。彼が“こんなひと”だったなんて。

 まあ、そうね。いま思えばそうだったのかと納得できる話は多い。例えば、この店が取り扱うマウスピースが彼はその場のノリで開発したものだったとか。
 これがなかなかいい品で、口当たりもいいし、気持ちよく冷えた煙をやれる。もちろん、火や味の調整をする店主の腕がいいのは前提だ。今日の一服も極上だもの。水の存在を吸気に感じて、煙を呼び込みふうと吐く。

 シーシャを嗜む作法として、煙を胸まで吸い込むことはしない。であれば、胸に焦げ付くこれはなんだろう。酔ったみたいに、踊るように、甘い。なんとか、これを恋ではないと思おうとした。無理だった。
 今日のフレーバーも「イチゴイチエ」オリジナルのものだ。数々のブレンド・レシピが載っている手帳を店主は肌身離さず持ち歩いているらしい。

 自然な体を装い、わたしは用意してきた質問を出す。
「あなたも魔導師なら、“翻訳者”という魔導師を聞いたことはある?」
「ないんじゃない?」
 想像はしてた。個人じゃだめなら役職で、と思ったけれど、チョイスを間違えたかな。でも彼と一度、“翻訳者”の話をしてみたかった。
 わたしがそうだから。
「まあ、あまりいないから。珍しいし、目立たないかもね。仕組みの解明をする仕事だよ」

 ――仕組みの解明。特定の技術を、他者が再現できるようにする。翻訳者はその役目を請け負う魔導師の総称。他に何人もいるから、“仕事場”では区別のために偽名を名乗っている。その分外では“翻訳者”としてひとまとめにされがちだ。
 博士は翻訳者たちの存在を知らなかったのか、知って尚忘れたのか。聞き出すこともできないけど。はあ。吐き出してしばらく舌に残る、爽やかなフレーバー、オリジナル・ブレンドの名前は「クライムソーダ」だったかな?
 パイプに手を戻さないところをみるに、博士はもっと甘い方がお好みなのだろう。せっかくだから、お話につきあってもらう。今夜はついてきてほしい。

「例えば、こういうシーシャの水パイプは設計図と既存の技術を組み合わせて作られる成果物でしょう?」
 先にモノだけがあって、誰もその作り方がわからない。この国では、そういうことがけっこうある。――魔導師が、人間の必要とするものを個人で造り出すから。道具や技術、施設ままで。魔導師がする様々な発明には、本人の気質を反映した魔法で仕組みが記述され、記述に基づいた魔法で成果物が構築される。
 するとどうなるか。
「この水パイプを他の魔導師に作ってもらおうとしても、現物だけでは作り方が伝わらなくて、わからなくなっちゃうの。仕組みを記録した設計図がないから」
 成果物の仕組み、それらを織りなす記述と技術。特定の魔導師にしかわからないものは、誰にでもわかるように翻訳しなければ。その”仕組み記述”を読み解くのが“翻訳者”という役職のもつ使命だ。
「つまりね、成果物から逆算して設計図を作るのが、わたしたち“翻訳者”の担う仕事なの」
 
 さらに言えば、“翻訳者”全員が選ぶ「翻訳を担当したくない発明者」は、あなた。そう、もっとも難解でもっとも訳しづらいのが、ゼル博士による記述なのだ。彼による成果物は魔術だったり機械だったり、それ以外にも多岐に渡る。記述は思い付きのようにばらばらに綴られ、法則性がない。どれも読み解くことを前提に作られていない。彼の発明にはレシピという概念がない。

「そんなのいちいち訳さなくても、ちょっと考えればわかるでしょ」
 いかにも、ゼル博士の言いそうな理論だ。この発言を“仕事場”に持っていったら罵詈雑言が飛び交うことだろう。オブラートに包むと「それはお前の頭がいいからだ」みたいなご意見が。
「見ればわかるかもしれないけど、人はそれを全て覚えていられないのよ。だから、読み返せる形にしておくの」
 言い聞かせるみたいな口調が、我ながらおかしい。舌戦で勝てる相手ではないし、今欲しいのは勝利じゃないんだけど。ただこの言い合いのおかげで、わたしはゼルが「胸の凍った」博士と呼ばれる所以を目の当たりにした。
「読み返す必要なんてある? その都度考えてその都度わかればいい」
 これまで“仕事場”で抱いていた虚像と、目の前にいる実像とが結ばれていくのには、唯一無二の心地よさがあった。なにせあなたの像なので。けれど、つまり、だからといって、その理論では、とてもよくない。

「わかっても、残らなきゃ意味ないのよ」
 意味、ないの。名前を聞き出したって。職業を教えたって。
「誰もがその場ですべてを理解できれば、記憶なんていらない、なんて、思われたくない」
 そんなわたしに。

 ゼル博士は言った。
「逆だ」
 水をくぐって、不浄を洗い落とした煙のように。
「記憶がないときの保険になる――記録もそうだろう?」
 なんだかすっきりしたみたいに、わたしには聞こえた。
「でなければ、この世は書物で溢れかえってはいないだろ。他にも」
 爪先で床を叩く。
「僕の好きなこれだって、」
 清々しくくたびれた革のジャケットを示す。
「記録を表面に刻んだものじゃないか」
 ああ。毅然としたかっこよさは腹が立つほどだ。

 ゼル博士は、自分の答えをすぐ見つけてしまう。議論も何もあったものじゃない。――どんな質問をしたって、ここから先へは進めないんだ。
 彼の目は人ではなく出来事に、相手ではなくやりとりに、向けられているのだろう。だからわたしを見ないんだ。そう、そうです。だからこそ。
 残るじゃなくて、“残す”ことができないと、恋の土俵にも立てないんだ。


【抜粋 x+4枚目】
 相席して。はじめましてをして、シーシャのフレーバーを味わい。お話をして。会計をして、お店を出る。
 せっかくお客が二人きりだったのに、当たり障りのないことしかしなかった。決定的な行動は、これから、するから。

 帰り道を追いかける。寂しい街灯が照らす橋の上、存在感をしまわない彼を堂々と呼び止める。さっきお店で別れた彼と、あえて別のタイミングで出てきたわたしと。わざと、ここで再会する。
「私のこと、まだ覚えてる?」
 珍しく、返事はしばらくなかった。
 足の下で、どうどうと川の流れる音がする。
「いきなりなに?」
 水のなきごえを切り差く鋭い声。私が“既に魔法を発動している”ことに、彼だって気づいてる。声をかけたときから臨戦態勢なの。私が何の術でどんな状態になっているか、わかるのかしら。この複雑な重ね掛けを、あなたに読み解ける? すぐには無理。私が邪魔するから。

「今からちゃんと、あなたに覚えてもらおうと思って」
「僕に君は残らないと思うよ」
 冷たくはっきり言ってくるのね。
「それはどうかな?」
 でも私は怯まない。距離を詰める。彼は丸い目をもっと丸くしている。突然の出来事は、あなたの気持ちを動かせたかな?
「やってみないと――」
 一瞬の隙を逃さない。
「――わからないじゃない!」
 左手首を掴んで、ゼルの身体を欄干に押し付ける。あと一撃何かが入れば、このまま川まで突き落とせる。魔術でも足払いでもかまわない。追撃までに、抵抗がなければ。――まさかそんなはず。
「僕にさ。勝とうとか思ってないよね?」
 勿論、もちろんだ。この男が、何もせずやられるわけがない。予備動作のない魔法。――足元が、橋ごと凍った。私に止まる猶予はなかった。滑って、勢い余って、ふたりの身体が傾いた。ぐるり。視界がまわる。わたし浮いてる。
「突き落とす気なら、君が落ちなよ」
「それもいいかも」
 袖口に隠した瓶の蓋を、右手親指でくるりと開ける。この爪を彩るターコイズ・ブルー。封を失った青い爪紅が、私の真下のあなたに降りかかる。化粧のときに感じる、強くてきつい匂いがした。

 もう戻れなかった。決定的な行動を始めてしまった。私に重ね掛けした魔法は、川に落ちても平気でいるための防壁なのだ。青を浴びた魔導師が、私を見上げている。
「わたしはリーエ。彩りの家に集う翻訳者のひとり。別にはじめましてじゃないし、ここで会うのも偶然じゃない」
 魔導師といえど、空中には長くいられない。あなたが橋の上に、わたしは欄干の外側に。一段と近づく瞳と瞳。
「ゼル。いつかあなたに、わたしを残す」
 なんて、やったこともない宣戦布告をしてみた。夜の端に、彼を残して。初めて見る驚愕の表情を目に焼き付けながら。
 故意におちてった。
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