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 こうなることはわかっていたつもりだった。けれどいざそうなってみると、思った以上に冷静だった。だからこそジェフは、自分自身が少し怖くなったのだ。

 目の前には膨大な魔力の持ち主――「王」である魔導師・オズがいる。能力の強さから人間にも魔導師にも恐れられ、民から玉座を捧げられた、少年。
 彼の前には側近と思われる人物が控えている。ロキと呼ばれている細身の男は、もちろんあのオズを守る存在なのだから、彼もまた実戦と駆け引きの実力を備えた魔導師なのだろう。
 権力者を正面にしたジェフの隣には、付き合いの長い女魔導師・アシュリーがいる。領主だった頃のジェフが、様々な計略や荒事に重用した女だ。――領主を辞めてからも、彼女は傍に置いておかなければならなかった。飼い主として。

 通常、面識のないままオズと会うには、王城にある謁見の間に通されるようだが、今は違う。城の一室、ベッドの前に全員がいる。そのベッドでは、怪我人が寝ている。――死にかけの人間が。魔導師だらけのこの空間で、唯一の人間が。

 魔導師は魔法が使え、かつ長く生きる。本来は外敵の多すぎる人間種を守るため、「世界の上側」が力を与えたのが魔導師らしい――という俗説は、そろそろ俗説で済ませられないようになってきていた。
 研究者でも学生でもないジェフには、ことの真偽は議題にもならない。この国には人間の外敵となる種族がいないせいで、魔導師は一方的に強く希少な存在とされていた。
 ルーン魔術という技術が発明されてから、人間はわずかながら魔法を扱えるようになった。としても、魔導師が有利であるという力関係に変わりはない。
 現にオズは、魔力量だけで玉座を得た。
「この人間は、魔導師に対抗する手段を持っていなかったんだろう」
 その正しい分析を聞いて尚、平常心が欠片も乱れない自分がどこか不気味に思えた。

 ところで。
 魔導師が、他の魔導師に強力な術をかけることもできる。それには相手の本名を使う。だからこそ、魔導師という種族に生まれた者は、真の名を明かさない。存在しているだけで脅威になりうる者だから。どこに敵がいるかわからないから。
 生まれた種族が魔導師ならば、統治者でさえ偽名で通しているくらいだ。――まさにジェフ本人がそれだった。
 そもそも、産まれた時点で民に明かされていた名前が偽名だったというだけのことだ。先祖の人間が、いずれ領主の子に魔導師が生まれると想像……あるいは予見していた。その見立てに従い、一切関係のない本名を、ジェフ自身と名付け親だけが知っている。

 そして逆に、ジェフは他者の「名を握る」立場であった。領主の重鎮として右腕を担う魔導師――通称アシュリーの本名を、ジェフは知り、そして使った。否、使っている、今このときも。鋭い視線を浴びてもまだ、アシュリーは目を輝かせている。
「可愛い子寝ちゃってるね、今起こしたらきっともっと可愛い!」
「待て」
「……はぁい」
 これが一例である。何かの術が発動し、女魔導師は、「制止」される。まるで飼い猫に着ける首輪と、飼い犬を繋ぐリードのような魔法だ。
 王たる少年に凝視され、そのそばにいる長髪の男もこちらを睨む。きっと誤解をしただろう。自身は彼女の行動を完全に操っているわけではない。彼女を支配したいわけではない。
 ただ、獣の本性が引き起こすであろう悲劇を防ぎたいだけだ。
「ねえ、どうしてもだめ? さっきだってこの子すっごく可愛くて」
「隣に王様とその側近がいるんだから、だめに決まってるだろ。とりあえず寝てて」
 止める。待たせる。落ち着かせる。そのうえで、説得するか注意を逸らす。今は話を進めるため、魔法で勝手に眠らせた。
 管理ではない。彼は獣を従えている。それだけの話だ。

「噂通り冷酷だな」
 長髪の男・ロキが言う。見た目は薄く細いが、その表情には凄みがあった。
「きみ、彼女の『名前』を握っている。それで、躊躇いなく術をかけた」
「ああなったアシュリーを放っておいたら、いまベッドで眠っている人間は死んでいた。僕は責任者だから、止めるのが筋だろ」
「だそうだ。実際、このジェフってのがいなければ、使者は怪我じゃすまなかった。――オズ。許す?」
 といってロキが振り返った先にいるオズは、この事件について、いや国中全ての出来事において、決定権を握っていた。金髪の少年。この国で一番強力な魔導師で――王様だ。
「……とりあえず、人殺しが起きてないから、極刑にはならない……はず」
 たどたどしい口調で、彼は罪と罰の話を進める。

 ――ベッドで眠る名も知らぬ人間。彼を半殺しにした犯人は、そこにいるアシュリーであった。
 人間はロキの使者として王城付近に訪れていたのを、別の目的で近くにいたアシュリーに出会ったのだ。そして、挨拶をして、少しの言葉を交わし、可愛いと思われた。その後多種多様な魔法で傷つけられた人間が死ぬ前に、ジェフがその状況を発見、制止、救出して今に至る。
 現場にロキがやってきたのは本当に偶然だった。何らかの報告をしにきた使者がいつまで経っても来ないので探しに来たら、惨劇がそこにあった。属性の入り混じった魔法の気配、魔導師が二人、血だまりの中でなんとか生きている使者。ジェフが応急処置をしていたそのとき、ロキは見つけ、アシュリーは見つかったのだ。

 アシュリーという魔導師。
 少なくともジェフが生まれる前には、魔物退治の請負人として頼られていた気さくな女。ジェフも領民も窮地を救われ、信頼を得ている頼れる魔導師。
 ――けれど彼女は時折突然、獣になる。本能のまま、理性と秩序を踏み荒らし、一線を線とも思わず超える獣。
 可愛い。
 そう感じた相手の、もっと可愛い様子を見たい。肉を裂かれる痛みに歪む顔や、皮膚を燃やされ叫ぶ声や、その間に生命を続けるため必死になる息が。可愛い。もっと可愛いところを見せて。可愛い。ああしても、こうしても可愛い。それを繰り替えすうちに、相手は死ぬ。彼女の関心は生き物にしか向かなかったから、死体を見ては「可愛くない」で終わりにする。そういう事件が、予期せぬときに起こる。
 その相手は野生動物であったり、魔獣であったりした。生き物である限り、人間も例外ではない。可愛いと思われてしまえば最後、アシュリーの中に眠る獣を呼び覚ますことになる。
 実際にアシュリーは一度、この本能で人間を殺したことがある。それがジェフの先祖にあたる、遥か昔の領主であった。
 そのままにして生かしておけば、必ずまた誰かを殺めるだろう。こうなることはわかっていた。だから名を握り、彼女を一瞬でも拘束できる術を使った。せめて罪人にならぬように。

 ――という本心を、他の誰かが知っているだろうか? 少なくとも王の従者ロキはわかっていないらしい。
「ジェフ。初めてではないんだろ。あれを繋いでおくのは大変じゃない?」
「否定はしないよ。だが、まあ――この立場になってからは、あまり不自由もしてない」
 かつて様々な誤解を経て手にした領主の座。それを正式に後継者へと譲り、ジェフは肩書きの代わりに自由を得た。
 自分がそこそこの力量を持つ魔導師だということは、領主をやめてから気づいた。人を眠らせる魔法に、眠っている間の治癒能力を高める効果があることにも。
 能力と強さ、経験値を生かして多くの敵を相手取った結果、欲望のまま暴れる獣――国や人間に有害な本能を持つ魔導師――を、まとめて従わせる立場になっていた。
 今も握った名を術で操れば、他の獣をここに呼び寄せることだってできるだろう。ジェフがやろうと思えばの話だが。
「確認をさせてくれ」と、ロキが問う。
「過去のことまで含めたら、罪は重くなるかもしれない。だが少なくとも人殺しは、あの法書が制定されるよりずっと前の話らしい。きみが領主になった後は全て未遂。合ってる?」
「そうだね。僕が認識している限りではその通りだ」
「だとしたら、オズはこの女を――」
 ロキは言葉を切った。王様オズの「判断」は、罪や罰、善悪の基準は、かつての王家が定めたルールに従っている。そこにオズ本人の意図はない。だからこれ以上、従者が話すこともない。けれどロキは、ジェフと同じようなことを考えているのではないだろうか。
力の使いどころすら学んだことのない少年に、玉座なんて早すぎたのだ、と。

 上に立つ者というのは、今と同時に、もう少し先を見るものだ。ジェフの先祖はそういう者たちばかりであったことを聞かされている。――アシュリーの獣性に見初められた男が、何度も生き延びながら、は殺されると予見したように。
 当時の領主の話だ。少なくともその頃には、アシュリーはこの家の使いという地位を得ていたようだ。何度か「可愛い」の標的になりながら、なんとか怪我で帰ってきた被害者は、自分が殺されたときのために手紙を残した。
 そのときもう身籠っていた妻は、夫を殺す犯人が臣下たるアシュリーであることを知ってか知らずか。アシュリー本人に、彼の手紙を読ませたうえで、魔法で保護させた。
 内容はこうだ。いつかこの血筋に魔導師が生まれたら、真実――アシュリーは殺人犯だと告げること。そしてアシュリーは本名をその魔導師に教えるのだ、ということ。可愛かったらしい彼は、遠い未来に命令を残した。
 死の概念も知らぬ獣。可愛いを見せて、という、本能的な欲求を止められない獣。それでも、獣でないときの彼女は話の通じる魔導師だ。領民を守る戦力として手放すわけにはいかなかった。だから名を握って首輪をつけるのだと。
 魔導師にとって本名を知られるのは不利で仕方がないことだが、アシュリーはその言いつけを守った。死者の命令だ。遵守する必要などどこにもない。それなのにどうして。というジェフの疑問には、はっきり答えが明示されることとなる。朽ちぬまま残った手紙には、こう綴られていた。
 ――獣は疑うことを知らない。

 実際、アシュリーは可愛いものを可愛がるつもりで殺し続けてきたようで。それが人間でなくとも、罪なき命を捕らえていることが何度もあった。
 大抵の場合死にかけであったそれらを、ジェフはなんとか死なないように拾って、生かして、こっそり逃がしていた。けれど全てを隠し通すことはきっと難しい。だからいつかこうなることはわかっていたつもりだった。

 ため息。ついでにゆっくり立ち上がり、死にかけの人間が死んだ人間になっていないことを確認する。この空間にあるすべての魔法を邪魔しないように、最低限の治癒を施した。
 オズは一旦部屋を去り、アシュリーの処遇を考えているようだった。こちらを監視するロキも、事実確認を終えてからは干渉してくる様子がない。今のジェフにとって最も有効な行動は、何もしないことだ。

 人間と魔導師。人間と人間。魔導師と魔導師。どれが並んでいたとしても、一応、見かけはヒトとヒトだ。けれど獣に近い者はよく罠にかかって、ジェフにその名を渡すことになる。自分が多くの手綱を握っているのはそのせいだ。こんなに「名」を知る魔導師も他にいないのかもしれない。チカラやカネ、勢い、気持ち、その他諸々の使いどころは、昔の政戦で嫌というほど学んだ。
 ルーン魔術の発明も大きかったかもしれない。人間でも努力すれば習得可能な魔法は、少しずつ魔導師の立場を変えた。人間は魔物たちから領地を守るために、必ずしも戦える魔導師を味方にしなくてもよくなったのだ。だからこそジェフは領主ではなく、獣の主に鞍替えした。

 さて、そのきっかけであるアシュリーは無邪気に眠っている。ジェフが領主になる前も、飼い主となる前も、彼女が明るく聡明な女であることに変わりはない。

 ジェフの先祖を殺したというアシュリーの命は、いま何百年目なのだろう。時を経て、女魔導師から獣へと変貌する頻度は着実に増えている。呑気な寝顔をしているが、恐らく寿命は近い。ジェフの魔導師としての部分が、そうだと見ている。噂ではもっと魔力を高めたら、自分の死期すら感じ取れるらしいが――アシュリーには無理だろう。

 いつまで自分が生きられるかを、命の算段に組み込める。それは色んな駆け引きを有利にする。ジェフには役立つ手札になるかもしれないが、獣には必要のないことだ。

 ――結果として。
 ロキの、ロキとジェフの予想通り、オズは法に従いアシュリーを許した。法が記されたあの分厚い本のどこかに、「加害者が確実に管理されている状況」という判例があったようだ。やはり王は、法は、世界は僕を管理者として色付けしている。中身を見ぬままに。

「僕も、より強い魔導師にならなきゃな」
 正義面をした言葉を吐いた。想いは本当だ。力が必要であった。せめて自らの死が近いことを悟れる程度には。
 だって自分が死ぬ前に、飼っている獣たちを処分しなければ。その始末をつけるのが、ジェフの飼い主としての役目――。

 ふっと零した息の意味は、安堵ではなく嘲笑だった。
 アシュリーは、罪のことも罰を免れたことも知らず、まだ寝ている。一応、被害者の人間とは引き離しておいた。
 様々な術を組んだ自分の右手を、ジェフはまるで他人のように眺めた。

 飼われている。

 自分は死ぬまで誰かの飼い主だ。そういった立場に飼い慣らされている。
 管理者。従者。権力者。王者を一瞥したが、そこにいるのは迷いの残る少年だった。ここでは誰も彼も皆、役割に飼われながら生きている。
 ――きみもそうだろ、オズ。
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