バレンタイン
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早朝の教室は、澄んだ冷気が立ち込めている。
登校時間にはまだ早く、教室にいるのはわずかな生徒だけだった。
「おはよう、サシャ。コニー」
「……うう、おはようございます、なまえ……。朝ごはん、今日こそ肉が出るといいですね……」
「おいサシャ、学校で朝食が出るわけねえだろ。ってなまえ、お前……今年もやるのか?」
コニーが視線を落とした先。
私の腕の中には、丁寧に可愛らしいリボンでラッピングされた小さな箱があった。
「勿論。年に一度の行事だもの」
「マジかよ……。お前、本当にブレないな。つーか、もっと人がいない時に渡せばいいのに、なんでまた教室で……」
「別に隠すようなことじゃないしね。それに、朝一番に渡したいの」
そう。今日は2月14日。バレンタインデーだった。
私には、昔から一つの流儀がある。義理チョコなんてものは作らない。友チョコなどは有難く貰ってホワイトデーに返す主義。
だから、バレンタイン当日に用意するのは本命チョコのみ。私が自分の手で、特別な想いを込めて作るお菓子は、人生でたった一つ。
たった一人、本命の相手に渡すためだけのものだった。
「あ……噂をすれば」
コニーが視線を向けた教室の入口に、頭一つ飛び抜けて背の高い少年が歩いてくるのが見えた。
スラッとした長身に、少し困ったような、気弱そうな笑みを浮かべた黒髪の少年——ベルトルト・フーバーだ。
隣には、いつものように堂々とした体のライナーが並んで歩いている。
「あ、ベルトルト!ライナー!」
私は迷わず、席を立って彼らに向かって歩き出した。周りの同期たちが「また始まったぞ」と言わんばかりの視線を送ってくるのがわかる。
「おはよう、なまえ。朝っぱらから元気だな」
ライナーが気さくに声をかけてくれる。そして、その隣でベルトルトが、私と目が合った瞬間に「あ……」と声を漏らし、途端に耳の先まで真っ赤にした。
「お、おはよう……なまえ……」
「おはよう、ベルトルト。はい、これ。今年のバレンタインのチョコ」
私は迷いなく、胸の前に抱えていたリボン付きの箱を、ベルトルトの目の前に差し出した。
「っ……! あ、ありがとう……。今年も、僕に……?」
「うん。もちろん、ベルトルトにだよ。本命だからね」
「ほ、本命……っ」
周りから「お約束きたー」「今年もブレねえな」「潔すぎるだろ」というヒソヒソ声が聞こえてくる。
ライナーは「おいおい、羨ましい限りだな」とベルトルトの背中をポンポンと叩いている。
ベルトルトは大きな手を少し震わせながら、壊れ物を扱うように丁寧にその箱を受け取ってくれた。
長身の身体を少し折り曲げ、私と視線を合わせる。彼の瞳は、恥ずかしさと戸惑い、そしてそれ以上の温かい光で揺れていた。
「ありがとう、なまえ。すごく嬉しいよ。……あの、大切に食べるね」
「うん。口に合うといいな。じゃあ、自分の席に戻るね!」
私は満足してニッコリと笑うと、自分の席へと戻った。
ベルトルトと出会って恋をしてから、毎年繰り返されている光景だ。
私は毎年、この日に彼だけに本命のチョコを渡す。隠すこともせず、みんなの前で堂々と「本命だよ」と言って渡す。
でも、それ以上は踏み込まない。
「付き合ってください」とか、「私のことをどう思っていますか」なんて言葉は、口が裂けても言わないのだ。
私は分かっていた。
ベルトルトは優しくて、控えめで、どこか自分に自信がないところがある。私のような思い切りのいいアプローチは、彼を困らせているかもしれない。
それに、私自身、高望みはしていなかった。
ベルトルトが受け取ってくれるだけでいい。
彼が照れながら「ありがとう」と言ってくれる、あの顔が見られればそれで十分だった。
付き合えなくてもいい。私の好きという気持ちが、彼の心にほんの少しでも届いていて、ほんの少しでも彼を温かい気持ちにできているなら、私はそれだけで世界一幸せなのだ。
そう、ずっと思っていた。
あの日までは。
──────
バレンタインデーから1ヶ月。3月14日、ホワイトデーの日。
私は手作りのクッキーをお返しとして配るため、今朝も早朝に登校していた。
友チョコをくれた女の子たちの机の引き出しに、心を込めて作ったメッセージ付きのクッキーの袋をそっと忍ばせていく。始業前には無事に全員分配り終え、私は達成感とともに自分の席についた。
そしてあっという間に放課後を迎え、帰りのホームルームが終わったときだった。
荷物をまとめて帰ろうと立ち上がると、隣の席のベルトルトがそわそわと立ち上がり、私を見つめていた。
「あの……なまえ。今日、一緒に帰らない……?」
「え?うん、喜んで!」
突然の誘いに胸を躍らせながら、私は二人で校門を出た。
夕暮れ時の通学路。薄オレンジ色の光が二人を照らす中、二人で並んで歩く。
ベルトルトの歩幅は大きいはずなのに、私に合わせてゆっくりと歩いてくれているのが分かって、それだけで胸がキュンとした。
少し歩いた先の公園の前で、ベルトルトが足を止めた。
「あのさ、なまえ。ホワイトデーの、お返し……渡したくて」
ベルトルトが鞄から取り出したのは、綺麗なリボンのついた小さな箱だった。
「ありがとう、ベルトルト! 毎年気をつかわせちゃってごめんね。でも、すごく嬉しい!」
私は喜んで箱を受け取ろうとした。だが、いつもならすぐに私の手に渡してくれるはずの箱を、ベルトルトはぎゅっと掴んだまま離さなかった。
「……? ベルトルト?」
不思議に思って顔を上げると、ベルトルトの顔は、今まで見たことがないくらい真っ赤になっていた。おでこから汗が滲み出ているし、呼吸もどこか荒い。
「ベ、ベルトルト?顔、すごい赤いよ?熱でもあるの!?」
「ち、違うんだ……!熱じゃなくて……あの、なまえ」
ベルトルトは深呼吸を一つすると、意を決したように私をじっと見つめた。その強い視線に、私は思わず息を呑む。普段の弱気なベルトルトとは、どこか違う雰囲気が漂っていた。
「……僕、毎年すごく嬉しかったんだ。バレンタインの時、君が僕だけにチョコをくれるのが」
「あ、うん……!迷惑じゃなかったなら良かった」
「迷惑なんて、一度も思ったことないよ! むしろ……すごく、すごく楽しみにしてたんだ。みんなの前で僕の名前を呼んでくれて、堂々と『本命だよ』って渡してくれる君が、眩しくて、可愛くて……」
ベルトルトの口から出る言葉に、今度は私の方が顔を熱くしていく。
「でもね……僕、ずっと不安だったんだ」
「え……? 不安?」
「うん。だって……なまえは、僕にチョコを渡したあと、絶対にそれ以上のことを言わないだろう?『好き』とも言わないし、『付き合ってほしい』とも言わない。僕がお返しを渡しても、ただ『ありがとう!』って笑顔で受け取って、それでおしまいにする」
ベルトルトは悲しそうに眉を下げて、困ったように笑った。
「君は、みんなの前で渡すから……僕、時々分からなくなるんだ。君の『本命』は、本当の『本命』なのかなって。もしかして、こういうイベントを楽しんでいるだけで、僕個人のことを特別な男性として好きでいてくれているわけじゃないのかな、とか……。もし僕が期待して勘違いしたら、君を困らせちゃうんじゃないか、とか……」
「そんな……っ!そんなわけないよ!」
私は慌てて叫んでいた。
「勘違いなんかじゃない!イベントなんかじゃないよ! 私にとっての本命は、世界中でベルトルトだけだもん!他の誰にも、義理チョコだって作らない!ベルトルトのことだけが、ずっと大好きなんだよ!」
言っちゃった。
彼を困らせたくなくて、重荷になりたくなくて、胸の奥に閉じ込めていた本当の気持ち。
「付き合えなくたっていいと思ってたの……!ベルトルトは優しいから、私が告白したら断れなくて困っちゃうかもしれないでしょ?だから……私の気持ちがほんの少しでも伝わって、ベルトルトが喜んでくれれば、それだけで私は幸せだったんだよ……!」
勢い任せに捲し立てると、一気に顔が火照ってくるのがわかった。恥ずかしさで爆発しそうだ。手で顔を覆いたくなるのを必死で耐えていると、目の前でベルトルトが、呆然とした顔で私を見ていた。
そして次の瞬間——彼の大きな手が、そっと私の頬に触れた。
「あ……」
「なまえ……君は、本当にずるいよ」
ベルトルトの声が、いつになく低く、優しく揺れていた。彼の手のひらが、私の頬を包み込む。彼の体温がダイレクトに伝わってきて、心臓が跳ね上がった。
「そんな風に思ってたなんて……僕、ちっとも知らなかった。僕を困らせないために、告白しないでおいてくれたなんて……」
「ベ、ベルトルト……?」
「僕ね、毎年のお返し……ただのお返しじゃなかったんだよ?」
ベルトルトはそう言うと、私の手に握らせていた箱の結び目を、ゆっくりとほどいて見せた。
中から出てきたのは、今年のお返しである綺麗なクッキーの詰め合わせセット——そして、その一番上に添えられた、小さなガラスの小瓶だった。小瓶の中には、淡いピンク色のキャンディが入っている。
「僕、一年前はマカロンの箱と、二年前は紅茶のセットと……必ずこのキャンディの小瓶を添えて渡してたんだ。……このキャンディの意味、知ってる?」
私は首を横に振った。
「『あなたが好きです』……そして、『関係が長く続きますように』って意味なんだよ。ライナーが教えてくれたんだ」
「え……」
「僕、一年前も、二年前も……メインのお菓子と一緒に、ずっとこのキャンディを贈ってたんだ。君の『本命』に答えたいと思って。でも、君があまりにもあっさり受け取るから、僕の気持ちは伝わってないんだなって、勝手に諦めかけてた」
ベルトルトの瞳が、夕日を浴びて琥珀色に輝いていた。
そこに映っているのは、真っ赤な顔をして目を見開いている、私の姿だけだ。
「僕だって……付き合いたいよ。なまえと」
はっきりと、紡がれた言葉。
「君の一途な思いは、とっくに届いてた。届きすぎて……僕の心の中は、君のことでいっぱいなんだ。だから、もう『付き合えなくてもいい』なんて言わないでほしい。僕を、君の特別な人にさせて?」
長身の彼が、私と視線を合わせるために、ゆっくりと腰を落とす。間近に迫るベルトルトの顔。彼の吐息が触れるほどの距離で、彼は私の目をじっと見つめていた。
「僕と……付き合ってくれますか?」
夢の中にいるようだった。
一途に思い続けていた。届くだけでいい、彼が困らない距離感で、ただ好きでいられればそれでいいと思っていた。
なのに……彼も、私と同じ気持ちでいてくれたなんて。
「……っ、うん……!うん……っ!よろしく、お願いします……!」
涙が溢れそうになるのを堪えながら頷くと、ベルトルトの顔が、心の底から嬉しそうな、最高に柔らかい笑顔に変わった。
「よかった……あはは、すごく緊張した……」
ベルトルトは肩の力を抜くと、そのまま私を包み込むように、ギューッと優しく抱きしめてきた。彼のでっかい体が、私の全身を包み込む。
彼の胸の鼓動が、トクトクと速いリズムで打ち鳴らされているのが聞こえた。ベルトルトも、すごく緊張してくれていたんだ。
「ベルトルト……苦しい……ふふっ」
「あ、ご、ごめん……! 嬉しすぎて、つい……」
慌てて腕を緩めるベルトルトが可愛くて、私はベルトルトの胸に顔を埋めた。
「ねえ、ベルトルト。じゃあさ、来年のバレンタインは……」
「うん?」
「来年のバレンタインは……二人きりの場所で渡してもいい?」
私がそう尋ねると、ベルトルトは一瞬驚いたように目を丸くし、それからまた耳まで真っ赤にして、幸せそうに目を細めた。
「うん……絶対そうしてほしい。僕だけのものにしたいから」
少しだけ男らしさを覗かせた彼の言葉に、今度は私の方が胸をキュンと射抜かれてしまう。
「なまえ……お返しのキャンディ、今……一つ食べてみる?」
「え、いいの?」
ベルトルトは小瓶のフタを開けると、小さなピンク色のキャンディを一つ指で摘み、私の口元へと運んでくれた。私は少し恥ずかしがりながらも、パクリとそれを口に含む。
口の中に広がったのは、キュンと甘酸っぱい、苺の甘みだった。
「美味しい……!」
「良かった。……キャンディの味……僕にも、教えてくれないかな……?」
「え? あ、うん、苺の味だよ?」
「そうじゃなくて……ね」
ベルトルトは意地悪そうに微笑むと、顔を近づけてきて——私の唇に、そっと自分の唇を重ねた。
「ん……っ!?」
一瞬の、柔らかい触れ合い。離れていったベルトルトの口元から、ふわりと甘い苺の香りがした気がした。
「……うん、本当だ。すごく甘いね」
真っ赤な顔で、悪戯成功といったように笑うベルトルト。
いつもの気弱で控えめな彼はいなくて、そこには私を愛おしそうに見つめる、一人の男の子の顔があった。
「べ、ベルトルトのバカ……! ライナーにそんなことまで教えてもらったの!?」
「あはは……これは僕の独断だよ。……だめ、だった?」
上目遣いで覗き込んでくる彼に、勝てるわけがない。
「……だめじゃない。……すごく、嬉しかった」
私が蚊の鳴くような声で呟くと、ベルトルトはもう一度嬉しそうに私を抱きしめてくれた。
夕暮れの帰り道。
甘い苺のキャンディの味が口いっぱいに広がる中で、私はこれからもずっと、彼だけに本命を渡し続けるのだと、心の中で強く誓ったのだった。
登校時間にはまだ早く、教室にいるのはわずかな生徒だけだった。
「おはよう、サシャ。コニー」
「……うう、おはようございます、なまえ……。朝ごはん、今日こそ肉が出るといいですね……」
「おいサシャ、学校で朝食が出るわけねえだろ。ってなまえ、お前……今年もやるのか?」
コニーが視線を落とした先。
私の腕の中には、丁寧に可愛らしいリボンでラッピングされた小さな箱があった。
「勿論。年に一度の行事だもの」
「マジかよ……。お前、本当にブレないな。つーか、もっと人がいない時に渡せばいいのに、なんでまた教室で……」
「別に隠すようなことじゃないしね。それに、朝一番に渡したいの」
そう。今日は2月14日。バレンタインデーだった。
私には、昔から一つの流儀がある。義理チョコなんてものは作らない。友チョコなどは有難く貰ってホワイトデーに返す主義。
だから、バレンタイン当日に用意するのは本命チョコのみ。私が自分の手で、特別な想いを込めて作るお菓子は、人生でたった一つ。
たった一人、本命の相手に渡すためだけのものだった。
「あ……噂をすれば」
コニーが視線を向けた教室の入口に、頭一つ飛び抜けて背の高い少年が歩いてくるのが見えた。
スラッとした長身に、少し困ったような、気弱そうな笑みを浮かべた黒髪の少年——ベルトルト・フーバーだ。
隣には、いつものように堂々とした体のライナーが並んで歩いている。
「あ、ベルトルト!ライナー!」
私は迷わず、席を立って彼らに向かって歩き出した。周りの同期たちが「また始まったぞ」と言わんばかりの視線を送ってくるのがわかる。
「おはよう、なまえ。朝っぱらから元気だな」
ライナーが気さくに声をかけてくれる。そして、その隣でベルトルトが、私と目が合った瞬間に「あ……」と声を漏らし、途端に耳の先まで真っ赤にした。
「お、おはよう……なまえ……」
「おはよう、ベルトルト。はい、これ。今年のバレンタインのチョコ」
私は迷いなく、胸の前に抱えていたリボン付きの箱を、ベルトルトの目の前に差し出した。
「っ……! あ、ありがとう……。今年も、僕に……?」
「うん。もちろん、ベルトルトにだよ。本命だからね」
「ほ、本命……っ」
周りから「お約束きたー」「今年もブレねえな」「潔すぎるだろ」というヒソヒソ声が聞こえてくる。
ライナーは「おいおい、羨ましい限りだな」とベルトルトの背中をポンポンと叩いている。
ベルトルトは大きな手を少し震わせながら、壊れ物を扱うように丁寧にその箱を受け取ってくれた。
長身の身体を少し折り曲げ、私と視線を合わせる。彼の瞳は、恥ずかしさと戸惑い、そしてそれ以上の温かい光で揺れていた。
「ありがとう、なまえ。すごく嬉しいよ。……あの、大切に食べるね」
「うん。口に合うといいな。じゃあ、自分の席に戻るね!」
私は満足してニッコリと笑うと、自分の席へと戻った。
ベルトルトと出会って恋をしてから、毎年繰り返されている光景だ。
私は毎年、この日に彼だけに本命のチョコを渡す。隠すこともせず、みんなの前で堂々と「本命だよ」と言って渡す。
でも、それ以上は踏み込まない。
「付き合ってください」とか、「私のことをどう思っていますか」なんて言葉は、口が裂けても言わないのだ。
私は分かっていた。
ベルトルトは優しくて、控えめで、どこか自分に自信がないところがある。私のような思い切りのいいアプローチは、彼を困らせているかもしれない。
それに、私自身、高望みはしていなかった。
ベルトルトが受け取ってくれるだけでいい。
彼が照れながら「ありがとう」と言ってくれる、あの顔が見られればそれで十分だった。
付き合えなくてもいい。私の好きという気持ちが、彼の心にほんの少しでも届いていて、ほんの少しでも彼を温かい気持ちにできているなら、私はそれだけで世界一幸せなのだ。
そう、ずっと思っていた。
あの日までは。
──────
バレンタインデーから1ヶ月。3月14日、ホワイトデーの日。
私は手作りのクッキーをお返しとして配るため、今朝も早朝に登校していた。
友チョコをくれた女の子たちの机の引き出しに、心を込めて作ったメッセージ付きのクッキーの袋をそっと忍ばせていく。始業前には無事に全員分配り終え、私は達成感とともに自分の席についた。
そしてあっという間に放課後を迎え、帰りのホームルームが終わったときだった。
荷物をまとめて帰ろうと立ち上がると、隣の席のベルトルトがそわそわと立ち上がり、私を見つめていた。
「あの……なまえ。今日、一緒に帰らない……?」
「え?うん、喜んで!」
突然の誘いに胸を躍らせながら、私は二人で校門を出た。
夕暮れ時の通学路。薄オレンジ色の光が二人を照らす中、二人で並んで歩く。
ベルトルトの歩幅は大きいはずなのに、私に合わせてゆっくりと歩いてくれているのが分かって、それだけで胸がキュンとした。
少し歩いた先の公園の前で、ベルトルトが足を止めた。
「あのさ、なまえ。ホワイトデーの、お返し……渡したくて」
ベルトルトが鞄から取り出したのは、綺麗なリボンのついた小さな箱だった。
「ありがとう、ベルトルト! 毎年気をつかわせちゃってごめんね。でも、すごく嬉しい!」
私は喜んで箱を受け取ろうとした。だが、いつもならすぐに私の手に渡してくれるはずの箱を、ベルトルトはぎゅっと掴んだまま離さなかった。
「……? ベルトルト?」
不思議に思って顔を上げると、ベルトルトの顔は、今まで見たことがないくらい真っ赤になっていた。おでこから汗が滲み出ているし、呼吸もどこか荒い。
「ベ、ベルトルト?顔、すごい赤いよ?熱でもあるの!?」
「ち、違うんだ……!熱じゃなくて……あの、なまえ」
ベルトルトは深呼吸を一つすると、意を決したように私をじっと見つめた。その強い視線に、私は思わず息を呑む。普段の弱気なベルトルトとは、どこか違う雰囲気が漂っていた。
「……僕、毎年すごく嬉しかったんだ。バレンタインの時、君が僕だけにチョコをくれるのが」
「あ、うん……!迷惑じゃなかったなら良かった」
「迷惑なんて、一度も思ったことないよ! むしろ……すごく、すごく楽しみにしてたんだ。みんなの前で僕の名前を呼んでくれて、堂々と『本命だよ』って渡してくれる君が、眩しくて、可愛くて……」
ベルトルトの口から出る言葉に、今度は私の方が顔を熱くしていく。
「でもね……僕、ずっと不安だったんだ」
「え……? 不安?」
「うん。だって……なまえは、僕にチョコを渡したあと、絶対にそれ以上のことを言わないだろう?『好き』とも言わないし、『付き合ってほしい』とも言わない。僕がお返しを渡しても、ただ『ありがとう!』って笑顔で受け取って、それでおしまいにする」
ベルトルトは悲しそうに眉を下げて、困ったように笑った。
「君は、みんなの前で渡すから……僕、時々分からなくなるんだ。君の『本命』は、本当の『本命』なのかなって。もしかして、こういうイベントを楽しんでいるだけで、僕個人のことを特別な男性として好きでいてくれているわけじゃないのかな、とか……。もし僕が期待して勘違いしたら、君を困らせちゃうんじゃないか、とか……」
「そんな……っ!そんなわけないよ!」
私は慌てて叫んでいた。
「勘違いなんかじゃない!イベントなんかじゃないよ! 私にとっての本命は、世界中でベルトルトだけだもん!他の誰にも、義理チョコだって作らない!ベルトルトのことだけが、ずっと大好きなんだよ!」
言っちゃった。
彼を困らせたくなくて、重荷になりたくなくて、胸の奥に閉じ込めていた本当の気持ち。
「付き合えなくたっていいと思ってたの……!ベルトルトは優しいから、私が告白したら断れなくて困っちゃうかもしれないでしょ?だから……私の気持ちがほんの少しでも伝わって、ベルトルトが喜んでくれれば、それだけで私は幸せだったんだよ……!」
勢い任せに捲し立てると、一気に顔が火照ってくるのがわかった。恥ずかしさで爆発しそうだ。手で顔を覆いたくなるのを必死で耐えていると、目の前でベルトルトが、呆然とした顔で私を見ていた。
そして次の瞬間——彼の大きな手が、そっと私の頬に触れた。
「あ……」
「なまえ……君は、本当にずるいよ」
ベルトルトの声が、いつになく低く、優しく揺れていた。彼の手のひらが、私の頬を包み込む。彼の体温がダイレクトに伝わってきて、心臓が跳ね上がった。
「そんな風に思ってたなんて……僕、ちっとも知らなかった。僕を困らせないために、告白しないでおいてくれたなんて……」
「ベ、ベルトルト……?」
「僕ね、毎年のお返し……ただのお返しじゃなかったんだよ?」
ベルトルトはそう言うと、私の手に握らせていた箱の結び目を、ゆっくりとほどいて見せた。
中から出てきたのは、今年のお返しである綺麗なクッキーの詰め合わせセット——そして、その一番上に添えられた、小さなガラスの小瓶だった。小瓶の中には、淡いピンク色のキャンディが入っている。
「僕、一年前はマカロンの箱と、二年前は紅茶のセットと……必ずこのキャンディの小瓶を添えて渡してたんだ。……このキャンディの意味、知ってる?」
私は首を横に振った。
「『あなたが好きです』……そして、『関係が長く続きますように』って意味なんだよ。ライナーが教えてくれたんだ」
「え……」
「僕、一年前も、二年前も……メインのお菓子と一緒に、ずっとこのキャンディを贈ってたんだ。君の『本命』に答えたいと思って。でも、君があまりにもあっさり受け取るから、僕の気持ちは伝わってないんだなって、勝手に諦めかけてた」
ベルトルトの瞳が、夕日を浴びて琥珀色に輝いていた。
そこに映っているのは、真っ赤な顔をして目を見開いている、私の姿だけだ。
「僕だって……付き合いたいよ。なまえと」
はっきりと、紡がれた言葉。
「君の一途な思いは、とっくに届いてた。届きすぎて……僕の心の中は、君のことでいっぱいなんだ。だから、もう『付き合えなくてもいい』なんて言わないでほしい。僕を、君の特別な人にさせて?」
長身の彼が、私と視線を合わせるために、ゆっくりと腰を落とす。間近に迫るベルトルトの顔。彼の吐息が触れるほどの距離で、彼は私の目をじっと見つめていた。
「僕と……付き合ってくれますか?」
夢の中にいるようだった。
一途に思い続けていた。届くだけでいい、彼が困らない距離感で、ただ好きでいられればそれでいいと思っていた。
なのに……彼も、私と同じ気持ちでいてくれたなんて。
「……っ、うん……!うん……っ!よろしく、お願いします……!」
涙が溢れそうになるのを堪えながら頷くと、ベルトルトの顔が、心の底から嬉しそうな、最高に柔らかい笑顔に変わった。
「よかった……あはは、すごく緊張した……」
ベルトルトは肩の力を抜くと、そのまま私を包み込むように、ギューッと優しく抱きしめてきた。彼のでっかい体が、私の全身を包み込む。
彼の胸の鼓動が、トクトクと速いリズムで打ち鳴らされているのが聞こえた。ベルトルトも、すごく緊張してくれていたんだ。
「ベルトルト……苦しい……ふふっ」
「あ、ご、ごめん……! 嬉しすぎて、つい……」
慌てて腕を緩めるベルトルトが可愛くて、私はベルトルトの胸に顔を埋めた。
「ねえ、ベルトルト。じゃあさ、来年のバレンタインは……」
「うん?」
「来年のバレンタインは……二人きりの場所で渡してもいい?」
私がそう尋ねると、ベルトルトは一瞬驚いたように目を丸くし、それからまた耳まで真っ赤にして、幸せそうに目を細めた。
「うん……絶対そうしてほしい。僕だけのものにしたいから」
少しだけ男らしさを覗かせた彼の言葉に、今度は私の方が胸をキュンと射抜かれてしまう。
「なまえ……お返しのキャンディ、今……一つ食べてみる?」
「え、いいの?」
ベルトルトは小瓶のフタを開けると、小さなピンク色のキャンディを一つ指で摘み、私の口元へと運んでくれた。私は少し恥ずかしがりながらも、パクリとそれを口に含む。
口の中に広がったのは、キュンと甘酸っぱい、苺の甘みだった。
「美味しい……!」
「良かった。……キャンディの味……僕にも、教えてくれないかな……?」
「え? あ、うん、苺の味だよ?」
「そうじゃなくて……ね」
ベルトルトは意地悪そうに微笑むと、顔を近づけてきて——私の唇に、そっと自分の唇を重ねた。
「ん……っ!?」
一瞬の、柔らかい触れ合い。離れていったベルトルトの口元から、ふわりと甘い苺の香りがした気がした。
「……うん、本当だ。すごく甘いね」
真っ赤な顔で、悪戯成功といったように笑うベルトルト。
いつもの気弱で控えめな彼はいなくて、そこには私を愛おしそうに見つめる、一人の男の子の顔があった。
「べ、ベルトルトのバカ……! ライナーにそんなことまで教えてもらったの!?」
「あはは……これは僕の独断だよ。……だめ、だった?」
上目遣いで覗き込んでくる彼に、勝てるわけがない。
「……だめじゃない。……すごく、嬉しかった」
私が蚊の鳴くような声で呟くと、ベルトルトはもう一度嬉しそうに私を抱きしめてくれた。
夕暮れの帰り道。
甘い苺のキャンディの味が口いっぱいに広がる中で、私はこれからもずっと、彼だけに本命を渡し続けるのだと、心の中で強く誓ったのだった。
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