第七章
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――――――
土方は布団に横たわる愛しい妻の寝顔を眺めながら、紗己と繋いでいる手にふと視線を落とした。
ただ手を繋いでいるだけなのに、なんでこんなにも気持ちがいいんだ? そう思いながら力加減に気を付けて、自身の右手の中にある、紗己の柔らかな手の感触を確かめる。
手の平に吸い付いてくるような、しっとりとした肌が堪らなく心地良い。
体の相性というものがあるならば、肌の相性というものもあるのだろうか。だとしたら、きっと自分達はかなり相性が良いはずだと、繋いでいる紗己の手の甲を、自身の親指でそっとなぞった。
もちもちとした感触が指の腹に伝わり、思わずしゃぶりつきたくなるのを土方はぐっと堪える。肌の相性だ体の相性だと考えていたせいで、手の中に感じる温もりに過剰反応してしまっているのだ。
あーもっと触れてェ、手だけじゃなく色んなとこに・・・つーかキスしてェ・・・くっそダメだダメだこれ以上何も考えるな俺!
逸る鼓動を落ち着かせるため、深呼吸を繰り返す。
紗己の体調さえ戻れば、いつだってできるじゃないか。そう自分に言い聞かせ、昂ぶる気持ちを息と共に吐き出そうとしていると。
「あ・・・!」
少し慌てたような声が聞こえたと同時に、長い睫毛に縁取られた紗己の瞳がぱちっと開いた。
「ど、どうした?」
突然声を上げて目を開けた妻の様子に、どこか身体に異変でも起きたのかと、土方は身を乗り出して彼女の顔を覗き込む。すると紗己は、焦り顔の夫を不思議そうに見つめながら、ゆっくりと上体を起こして言った。
「あ、いえ、その・・・着替え、してなかったなって」
「あ? 着替え?」
想定外の発言に不意をつかれた土方は、眉をひそめてすっかり身体を起こした紗己の上半身に視線を這わせる。
確かに紗己は、寝間着ではなく日常着にしている着物を身に纏っていた。
よく見れば帯はしておらず、伊達締めを巻いているだけだ。横になる際紗己が自分で解いたか、もしくはその場にいた誰かが解いたのだろう。
そういや、コイツが倒れたってのは近藤さんから聞いたが、どこで倒れて誰がどうやって介抱したかってのは聞いてなかったぞ?
瞬時に様々な想像が脳内を駆け巡り、ムッとした表情で布団を睨み付ける。
倒れたのが自室でなければ、屯所に居た隊士の誰かが、紗己をここまで運んだのかも知れない。となると、その人物は紗己に触れたということだ。おまけに帯を解いたのが彼女自身ではないとしたら――。
自分以外の男が紗己に触れたかも知れないという事、それがまだ確定していない可能性の段階であって、しかも彼女を助けるためだったとしても、どうしようもなく腹立たしい。
土方は込み上げる嫉妬心を表に出さないよう必死に堪えながら、自身の膝の上に拳を乗せて軽く咳払いをした。
「あー、そのなんだ、そういやお前・・・どこで倒れたんだ?」
何とか無表情を繕い、常よりも低い声音で訊ねる。嫉妬心が膨れ上がるような答えが返ってこないことを切望しながら。
――――――
「・・・そうか、なるほどな」
紗己から事の経緯を聞いた土方は、そう言って肩の力を抜くとほっと胸を撫で下ろした。
紗己の説明によると、倒れたのは夕方、炊事場で夕飯の仕込みの手伝いをしている時だった。
流し台の下から大鍋を取るためしゃがんだところ、立ち上がった瞬間激しい目眩に襲われ、そのまま倒れてしまったのだと言う。
その場にいた女中達が紗己の身体を起こしすぐに助けを呼び、たまたま近くを通り掛かった近藤が駆け付け、紗己を居室まで運んだ。そして近藤と共にここまで付き添ってきた女中が、布団を敷いて紗己の帯を解いたのだ。
紗己から聞いた事実が、嫉妬心を膨れ上がらせるようなものではなかったことに、土方は内心安堵していた。彼女に触れたのが、自分が唯一許せる人物だったからだ。
近藤に想い人がいることは十分すぎる程知っているし、彼が士道に背くことをするような男ではないと土方は信じている。だから近藤が倒れた紗己を抱きかかえたとしても、それは人助けの一環でしかなく、『触れた』の範疇には入らない。それが土方の認識だった。
運んでくれたのが近藤さんで良かったぜ。この俺の女房だと分かってて、コイツに邪な感情を抱く野郎が真選組 にいるとは思ってねェが、それでも余計な心配はしたかねえからな。
自分がこんなにも独占欲の強い人間だったとは知らなかったと、土方は自身に呆れながら嘆息した。
ともあれ、疑念は晴れた。世話になった近藤には、改めてまた礼を言っておこう。女中達にも、何か差し入れでも用意しておくか。
そんなことを考えていると、ずっと黙っている夫を心配した紗己が、土方の顔を覗き込むようにして声を掛けてきた。
「あの、土方さん? どうか、しましたか」
「ああいや、何でもねェ。そうだ、寝間着の話だったな。そんな格好じゃ休まらねーだろ、寝間着取ってくるから待ってろ」
そう言いながら立ち上がり、いつも寝間着を仕舞っている押入れへと向かう。しかし土方は押入れの少し手前で、不自然に立ち止まった。
寝間着を渡せば、紗己は当然それに着替えるだろう。だが、俺はその間どうすればいいんだ――?
土方は頭を悩ませながら、ゆっくりと歩を進める。だがどれだけゆっくり歩こうと、ものの数歩で押入れの前に着いてしまった。
複雑な面持ちで襖を開ければ、上段に仕舞ってある布団の上に、自分の寝間着と並んで置かれている紗己の寝間着が目につく。それをじっと見つめたまま、高鳴る鼓動に息苦しささえ感じた土方は、大きく吐息した。
寝間着 を渡したら、今この場で着替えるんだよな? 着替え見てもいいのか? 駄目なのか? 俺はこの場に居ていいのか? どれが正解なんだ!?
汗ばんだ両の手の平を、自身の布団の上に乗せた瞬間――目線の先にある紗己の寝間着が妙に神々しく見えて、土方は思わずそこから目を逸らしてしまった。
たかが着替えくらいで・・・と自分自身に呆れる気持ちも無いわけではないが、裸を見せ合う行為に辿り着けていない現状では、着替えの時くらいしか紗己の半裸を目にする機会がない。
そして、共に寝起きしているこの四日間、土方には紗己の着替えを目にする機会が残念ながら無かったのだ。
式の翌朝は、紗己は土方よりも先に起きており、既に着替えも済ませていた。午後から出掛けることになり外出着に着替えはしたが、襦袢の上の着物を替えただけなので肌の露出も無かった。
夜は夜で、緊急出動となった土方が明け方に戻った時には、紗己はもう寝間着姿だった。
更に翌朝、そのまた翌朝も紗己は土方より先に起きて着替えを済ませており、おまけに二日間とも土方は夜勤だったため、夜の着替えを見られるわけも無かった。
土方にも妻の着替え――要は裸を見たいという気持ちは当然あるし、実際彼女が外出着に着替えていた時には、続き間の和室で書類に目を通しながらも、チラチラと着替えの様子を覗き見たりもしていた。その時は裸を目にすることは無く、人知れずがっかりしたのだが。
これって絶好の機会だよな、今なら確実にここで着替えるんだし。
土方は逸らしていた視線をまた妻の寝間着に戻すと、ごくりと生唾を飲んだ。先程は神々しく見えていた寝間着が、今は何やら色香が漂っているように見えてくる。
心臓が早鐘を打ち、身体が熱くなるのを感じながら、土方はまるで壊れ物を扱うようにそっと、愛しい妻の寝間着を手に取った。
ふわっと甘く優しい香りが鼻先を掠める。紗己の匂いだ。この寝間着に袖を通す彼女の素肌からも、きっと同じ匂いがするだろう。
そう思っただけで下半身に血液が集中したのが分かった土方は、存在を主張し始めた部分を隠すため、慌てて紗己の寝間着をやたらと低い位置に持ち直した。
いやまあこれは自然現象だし? 夫婦なんだしそりゃァ勃つだろ、仕方ねーよああ仕方ねえ。
むしろ勃たない方がおかしいだろうと脳内で息巻きながら、ゆっくりと紗己の元へと近付く。だが土方は、また途中で足を止めてしまった。
臍の下辺りで持っている寝間着に視線を落とし、何事か考え込むように形の良い唇を一文字に結ぶ。
俺は着替えが、いや、着替えっつーか紗己の裸が見てェんだよな。けど、コイツの気持ちはどうなんだ・・・・・・?
夜とはいえ照明を点けた明るい部屋で、こんな形で裸を見られることに抵抗は無いのだろうか。いや、無いわけがないだろうと土方は胸中で呟く。
突然訪れた絶好の機会に気が逸っていたが、落ち着いて考えたら、紗己の気持ちを無視して突っ走っているように思えてきたのだ。
紗己が裸というものをどう捉えているかは土方にも分からない。
というのも、紗己は土方が着替える際、脱いだ衣類を受け取ったり着替えを用意したりするので、夫の半裸を既に目にしているし、それを特別恥ずかしがっているようには見えないからだ。
男の半裸なんてこの男所帯なら当たり前の光景で、紗己もきっともうそれに慣れてしまっているのだろうと土方は思う。
だが、女の半裸はまた別物だ。いくら男の半裸を見慣れているとはいえ、まだ口付けさえもしておらず、たった一度のイレギュラーを除けば清いままの紗己が、今ここで自分の裸を見られることに戸惑わないはずがない。紗己の恥じらう姿には興奮するが、それが無理矢理であるなら話は別だ――。
土方は眉を寄せて溜め息をつくと、伸ばし気味にしていた両肘を九十度に曲げて、寝間着を鳩尾の辺りに持ち直した。もう下半身は落ち着きを取り戻している。
ふと視線を感じて前方に目を向けると、心配そうにこちらを見ていた紗己が、すぐに柔らかな笑みへと表情を変えた。
「土方さん? あの、どうかしましたか」
先程よりずっと挙動不審だった夫に、遠慮がちにそう訊ねる。
「・・・いや、すまねえ。大丈夫だ」
いつも通り穏やかな妻の笑顔に釣られ、土方もフッと優しい笑みをこぼした。
気遣いの塊とも言える愛しい妻の姿を目にし、ここで俺がせっついたら駄目だろうと土方は自分にそう言い聞かせながら、再び歩を進める。
裸を見る機会は近いうちに確実に訪れるのだから、そう焦ることもないかと思いつつ、布団の横に腰を下ろした瞬間――。
――ぐぅ・・・
何とも可愛らしく情けない音が耳に届き、土方は首を傾げつつ目の前の紗己を見やった。今の、腹の音だよな?
「・・・紗己?」
頬が緩むのを誤魔化すためにわざと気難しい顔をつくって名を呼ぶと、紗己は恥ずかしそうに俯いてから、小さな声でぽつりぽつりと話し出した。
「あ、あの・・・食欲が無くて、お昼あんまり食べてなくて・・・それで、その・・・今、お腹減っちゃって・・・」
話しているうちにどんどん顔が赤くなり、もう耳までもが真っ赤に染まっている。
恥ずかしがっていることがありありと伝わるその姿はあまりにも可愛らしく、ついいじめたくなってしまうのは男の性なのだろうか。
土方はニヤッと口端を上げると、
「随分と可愛らしい鳴き方する腹の虫じゃねェか」
そう言って紗己の華奢な肩に自身の右手を乗せ、大きな背中をぐっと曲げて彼女の顔を覗き込んだ。
すると紗己は、真っ赤な顔を両手で覆いながら、小さな声で呟く。
「やだ、恥ずかしい・・・」
その所作によって結っていない紗己の軟らかな髪がはらはらと流れ落ち、うなじがちらりと見えた。普段なら色白のそれがほんのりと赤らんでいるのが分かる。
これには土方も喉を鳴らした。そのか細く高い声も羞恥の色を帯びた言葉も、赤く染まっていく柔肌も、何もかもが興奮材料でしかない。
もっといじめたい、恥ずかしがっている様をもっと見たい――身体の奥から込み上げてくる欲望を、すんでのところで抑え込んだのは、総動員された理性だった。
腹が減っていれば腹の虫が鳴くのもおかしなことではないし、その音もそれを恥ずかしがる紗己も、土方にとっては全てが愛おしいものでしかない。
しかし当の紗己が羞恥を感じているのなら、これ以上そんな思いをさせるのは可哀想だ。大人の男として、大切な妻をこんな事で傷付けてはいけない。
そう理性に諭された土方は、紗己の肩から手を下ろすと、その手で自身の首の後ろを撫でながら嘆息した。
「気にすんな、腹が減れば誰だって音くらい出るよ」
言いながら紗己の頭を軽く撫でてやると、左手に持ったままだった寝間着を、紗己の太腿に掛かっている布団の上に乗せた。
「今から飯持ってきてやるから、その間にそれに着替えとけ」
そう言ってすくっと立ち上がった土方を、まだ少し赤い顔をした紗己が慌てて呼び止める。
「えっ、いいです私も食堂に行きます!」
「駄目だ、お前は安静にしてろ」
「で、でも・・・土方さんに配膳なんてさせるわけには・・・」
困惑に満ちた表情で自分を見上げる紗己の姿に、土方は溜め息を落としながらその場にしゃがみ込んだ。不安気な紗己と目線の高さを合わせて、小さく笑う。
「女房が寝込んでたら、世話すんのは当たり前だろ」
「土方さん・・・」
「いいからお前は着替えして横になってろ。大体のモンなら食えそうか?」
気疲れさせないようにあっさりとした口調で訊ねると、紗己は少し表情を和らげてこくりと頷いた。
それに安心した土方は、再び立ち上がると大きな歩幅で室内を横切り、辿り着いた障子戸の前で、
「それじゃ、ちょっと行ってくるな」
軽く首を反らして、続き間の和室にいる紗己に声を掛けた。
お願いします、と優しい声を背中に受けて、土方は引き戸に手を掛け自室を後にする。
この短時間で目まぐるしく変化した自身の心境を振り返り、込み上げてくる笑いを堪えながら。
土方は布団に横たわる愛しい妻の寝顔を眺めながら、紗己と繋いでいる手にふと視線を落とした。
ただ手を繋いでいるだけなのに、なんでこんなにも気持ちがいいんだ? そう思いながら力加減に気を付けて、自身の右手の中にある、紗己の柔らかな手の感触を確かめる。
手の平に吸い付いてくるような、しっとりとした肌が堪らなく心地良い。
体の相性というものがあるならば、肌の相性というものもあるのだろうか。だとしたら、きっと自分達はかなり相性が良いはずだと、繋いでいる紗己の手の甲を、自身の親指でそっとなぞった。
もちもちとした感触が指の腹に伝わり、思わずしゃぶりつきたくなるのを土方はぐっと堪える。肌の相性だ体の相性だと考えていたせいで、手の中に感じる温もりに過剰反応してしまっているのだ。
あーもっと触れてェ、手だけじゃなく色んなとこに・・・つーかキスしてェ・・・くっそダメだダメだこれ以上何も考えるな俺!
逸る鼓動を落ち着かせるため、深呼吸を繰り返す。
紗己の体調さえ戻れば、いつだってできるじゃないか。そう自分に言い聞かせ、昂ぶる気持ちを息と共に吐き出そうとしていると。
「あ・・・!」
少し慌てたような声が聞こえたと同時に、長い睫毛に縁取られた紗己の瞳がぱちっと開いた。
「ど、どうした?」
突然声を上げて目を開けた妻の様子に、どこか身体に異変でも起きたのかと、土方は身を乗り出して彼女の顔を覗き込む。すると紗己は、焦り顔の夫を不思議そうに見つめながら、ゆっくりと上体を起こして言った。
「あ、いえ、その・・・着替え、してなかったなって」
「あ? 着替え?」
想定外の発言に不意をつかれた土方は、眉をひそめてすっかり身体を起こした紗己の上半身に視線を這わせる。
確かに紗己は、寝間着ではなく日常着にしている着物を身に纏っていた。
よく見れば帯はしておらず、伊達締めを巻いているだけだ。横になる際紗己が自分で解いたか、もしくはその場にいた誰かが解いたのだろう。
そういや、コイツが倒れたってのは近藤さんから聞いたが、どこで倒れて誰がどうやって介抱したかってのは聞いてなかったぞ?
瞬時に様々な想像が脳内を駆け巡り、ムッとした表情で布団を睨み付ける。
倒れたのが自室でなければ、屯所に居た隊士の誰かが、紗己をここまで運んだのかも知れない。となると、その人物は紗己に触れたということだ。おまけに帯を解いたのが彼女自身ではないとしたら――。
自分以外の男が紗己に触れたかも知れないという事、それがまだ確定していない可能性の段階であって、しかも彼女を助けるためだったとしても、どうしようもなく腹立たしい。
土方は込み上げる嫉妬心を表に出さないよう必死に堪えながら、自身の膝の上に拳を乗せて軽く咳払いをした。
「あー、そのなんだ、そういやお前・・・どこで倒れたんだ?」
何とか無表情を繕い、常よりも低い声音で訊ねる。嫉妬心が膨れ上がるような答えが返ってこないことを切望しながら。
――――――
「・・・そうか、なるほどな」
紗己から事の経緯を聞いた土方は、そう言って肩の力を抜くとほっと胸を撫で下ろした。
紗己の説明によると、倒れたのは夕方、炊事場で夕飯の仕込みの手伝いをしている時だった。
流し台の下から大鍋を取るためしゃがんだところ、立ち上がった瞬間激しい目眩に襲われ、そのまま倒れてしまったのだと言う。
その場にいた女中達が紗己の身体を起こしすぐに助けを呼び、たまたま近くを通り掛かった近藤が駆け付け、紗己を居室まで運んだ。そして近藤と共にここまで付き添ってきた女中が、布団を敷いて紗己の帯を解いたのだ。
紗己から聞いた事実が、嫉妬心を膨れ上がらせるようなものではなかったことに、土方は内心安堵していた。彼女に触れたのが、自分が唯一許せる人物だったからだ。
近藤に想い人がいることは十分すぎる程知っているし、彼が士道に背くことをするような男ではないと土方は信じている。だから近藤が倒れた紗己を抱きかかえたとしても、それは人助けの一環でしかなく、『触れた』の範疇には入らない。それが土方の認識だった。
運んでくれたのが近藤さんで良かったぜ。この俺の女房だと分かってて、コイツに邪な感情を抱く野郎が
自分がこんなにも独占欲の強い人間だったとは知らなかったと、土方は自身に呆れながら嘆息した。
ともあれ、疑念は晴れた。世話になった近藤には、改めてまた礼を言っておこう。女中達にも、何か差し入れでも用意しておくか。
そんなことを考えていると、ずっと黙っている夫を心配した紗己が、土方の顔を覗き込むようにして声を掛けてきた。
「あの、土方さん? どうか、しましたか」
「ああいや、何でもねェ。そうだ、寝間着の話だったな。そんな格好じゃ休まらねーだろ、寝間着取ってくるから待ってろ」
そう言いながら立ち上がり、いつも寝間着を仕舞っている押入れへと向かう。しかし土方は押入れの少し手前で、不自然に立ち止まった。
寝間着を渡せば、紗己は当然それに着替えるだろう。だが、俺はその間どうすればいいんだ――?
土方は頭を悩ませながら、ゆっくりと歩を進める。だがどれだけゆっくり歩こうと、ものの数歩で押入れの前に着いてしまった。
複雑な面持ちで襖を開ければ、上段に仕舞ってある布団の上に、自分の寝間着と並んで置かれている紗己の寝間着が目につく。それをじっと見つめたまま、高鳴る鼓動に息苦しささえ感じた土方は、大きく吐息した。
汗ばんだ両の手の平を、自身の布団の上に乗せた瞬間――目線の先にある紗己の寝間着が妙に神々しく見えて、土方は思わずそこから目を逸らしてしまった。
たかが着替えくらいで・・・と自分自身に呆れる気持ちも無いわけではないが、裸を見せ合う行為に辿り着けていない現状では、着替えの時くらいしか紗己の半裸を目にする機会がない。
そして、共に寝起きしているこの四日間、土方には紗己の着替えを目にする機会が残念ながら無かったのだ。
式の翌朝は、紗己は土方よりも先に起きており、既に着替えも済ませていた。午後から出掛けることになり外出着に着替えはしたが、襦袢の上の着物を替えただけなので肌の露出も無かった。
夜は夜で、緊急出動となった土方が明け方に戻った時には、紗己はもう寝間着姿だった。
更に翌朝、そのまた翌朝も紗己は土方より先に起きて着替えを済ませており、おまけに二日間とも土方は夜勤だったため、夜の着替えを見られるわけも無かった。
土方にも妻の着替え――要は裸を見たいという気持ちは当然あるし、実際彼女が外出着に着替えていた時には、続き間の和室で書類に目を通しながらも、チラチラと着替えの様子を覗き見たりもしていた。その時は裸を目にすることは無く、人知れずがっかりしたのだが。
これって絶好の機会だよな、今なら確実にここで着替えるんだし。
土方は逸らしていた視線をまた妻の寝間着に戻すと、ごくりと生唾を飲んだ。先程は神々しく見えていた寝間着が、今は何やら色香が漂っているように見えてくる。
心臓が早鐘を打ち、身体が熱くなるのを感じながら、土方はまるで壊れ物を扱うようにそっと、愛しい妻の寝間着を手に取った。
ふわっと甘く優しい香りが鼻先を掠める。紗己の匂いだ。この寝間着に袖を通す彼女の素肌からも、きっと同じ匂いがするだろう。
そう思っただけで下半身に血液が集中したのが分かった土方は、存在を主張し始めた部分を隠すため、慌てて紗己の寝間着をやたらと低い位置に持ち直した。
いやまあこれは自然現象だし? 夫婦なんだしそりゃァ勃つだろ、仕方ねーよああ仕方ねえ。
むしろ勃たない方がおかしいだろうと脳内で息巻きながら、ゆっくりと紗己の元へと近付く。だが土方は、また途中で足を止めてしまった。
臍の下辺りで持っている寝間着に視線を落とし、何事か考え込むように形の良い唇を一文字に結ぶ。
俺は着替えが、いや、着替えっつーか紗己の裸が見てェんだよな。けど、コイツの気持ちはどうなんだ・・・・・・?
夜とはいえ照明を点けた明るい部屋で、こんな形で裸を見られることに抵抗は無いのだろうか。いや、無いわけがないだろうと土方は胸中で呟く。
突然訪れた絶好の機会に気が逸っていたが、落ち着いて考えたら、紗己の気持ちを無視して突っ走っているように思えてきたのだ。
紗己が裸というものをどう捉えているかは土方にも分からない。
というのも、紗己は土方が着替える際、脱いだ衣類を受け取ったり着替えを用意したりするので、夫の半裸を既に目にしているし、それを特別恥ずかしがっているようには見えないからだ。
男の半裸なんてこの男所帯なら当たり前の光景で、紗己もきっともうそれに慣れてしまっているのだろうと土方は思う。
だが、女の半裸はまた別物だ。いくら男の半裸を見慣れているとはいえ、まだ口付けさえもしておらず、たった一度のイレギュラーを除けば清いままの紗己が、今ここで自分の裸を見られることに戸惑わないはずがない。紗己の恥じらう姿には興奮するが、それが無理矢理であるなら話は別だ――。
土方は眉を寄せて溜め息をつくと、伸ばし気味にしていた両肘を九十度に曲げて、寝間着を鳩尾の辺りに持ち直した。もう下半身は落ち着きを取り戻している。
ふと視線を感じて前方に目を向けると、心配そうにこちらを見ていた紗己が、すぐに柔らかな笑みへと表情を変えた。
「土方さん? あの、どうかしましたか」
先程よりずっと挙動不審だった夫に、遠慮がちにそう訊ねる。
「・・・いや、すまねえ。大丈夫だ」
いつも通り穏やかな妻の笑顔に釣られ、土方もフッと優しい笑みをこぼした。
気遣いの塊とも言える愛しい妻の姿を目にし、ここで俺がせっついたら駄目だろうと土方は自分にそう言い聞かせながら、再び歩を進める。
裸を見る機会は近いうちに確実に訪れるのだから、そう焦ることもないかと思いつつ、布団の横に腰を下ろした瞬間――。
――ぐぅ・・・
何とも可愛らしく情けない音が耳に届き、土方は首を傾げつつ目の前の紗己を見やった。今の、腹の音だよな?
「・・・紗己?」
頬が緩むのを誤魔化すためにわざと気難しい顔をつくって名を呼ぶと、紗己は恥ずかしそうに俯いてから、小さな声でぽつりぽつりと話し出した。
「あ、あの・・・食欲が無くて、お昼あんまり食べてなくて・・・それで、その・・・今、お腹減っちゃって・・・」
話しているうちにどんどん顔が赤くなり、もう耳までもが真っ赤に染まっている。
恥ずかしがっていることがありありと伝わるその姿はあまりにも可愛らしく、ついいじめたくなってしまうのは男の性なのだろうか。
土方はニヤッと口端を上げると、
「随分と可愛らしい鳴き方する腹の虫じゃねェか」
そう言って紗己の華奢な肩に自身の右手を乗せ、大きな背中をぐっと曲げて彼女の顔を覗き込んだ。
すると紗己は、真っ赤な顔を両手で覆いながら、小さな声で呟く。
「やだ、恥ずかしい・・・」
その所作によって結っていない紗己の軟らかな髪がはらはらと流れ落ち、うなじがちらりと見えた。普段なら色白のそれがほんのりと赤らんでいるのが分かる。
これには土方も喉を鳴らした。そのか細く高い声も羞恥の色を帯びた言葉も、赤く染まっていく柔肌も、何もかもが興奮材料でしかない。
もっといじめたい、恥ずかしがっている様をもっと見たい――身体の奥から込み上げてくる欲望を、すんでのところで抑え込んだのは、総動員された理性だった。
腹が減っていれば腹の虫が鳴くのもおかしなことではないし、その音もそれを恥ずかしがる紗己も、土方にとっては全てが愛おしいものでしかない。
しかし当の紗己が羞恥を感じているのなら、これ以上そんな思いをさせるのは可哀想だ。大人の男として、大切な妻をこんな事で傷付けてはいけない。
そう理性に諭された土方は、紗己の肩から手を下ろすと、その手で自身の首の後ろを撫でながら嘆息した。
「気にすんな、腹が減れば誰だって音くらい出るよ」
言いながら紗己の頭を軽く撫でてやると、左手に持ったままだった寝間着を、紗己の太腿に掛かっている布団の上に乗せた。
「今から飯持ってきてやるから、その間にそれに着替えとけ」
そう言ってすくっと立ち上がった土方を、まだ少し赤い顔をした紗己が慌てて呼び止める。
「えっ、いいです私も食堂に行きます!」
「駄目だ、お前は安静にしてろ」
「で、でも・・・土方さんに配膳なんてさせるわけには・・・」
困惑に満ちた表情で自分を見上げる紗己の姿に、土方は溜め息を落としながらその場にしゃがみ込んだ。不安気な紗己と目線の高さを合わせて、小さく笑う。
「女房が寝込んでたら、世話すんのは当たり前だろ」
「土方さん・・・」
「いいからお前は着替えして横になってろ。大体のモンなら食えそうか?」
気疲れさせないようにあっさりとした口調で訊ねると、紗己は少し表情を和らげてこくりと頷いた。
それに安心した土方は、再び立ち上がると大きな歩幅で室内を横切り、辿り着いた障子戸の前で、
「それじゃ、ちょっと行ってくるな」
軽く首を反らして、続き間の和室にいる紗己に声を掛けた。
お願いします、と優しい声を背中に受けて、土方は引き戸に手を掛け自室を後にする。
この短時間で目まぐるしく変化した自身の心境を振り返り、込み上げてくる笑いを堪えながら。