第十一章
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――――――
自室の障子戸を開けて部屋に入った土方は、奇妙な感覚に襲われた。
日々寝起きしているこの部屋に、在るべきものが無い違和感だ。
この時間であれば、普段なら大抵この部屋には紗己が居る。食堂に居る時もあるが、それでも通常は、ここに彼女が出入りしている痕跡が残されている。
土方は続き間の和室に鎮座している鏡台の横の壁面に、切れ長の双眸をスッと向けた。
いつもなら、この場所の鴨居の上部――長押 には自分の着物が掛けられている。勤務終了後にすぐに着替えられるように、紗己がそうしてくれているのだ。
それとは逆に、これから勤務開始という時には、必ず隊服がハンガーに掛けられ用意されている。
そのどちらもが無い。当たり前だ、紗己はここには居ないのだから。土方は嘆息しながら羽織を脱いだ。
着替えを進めつつ、今度は座卓に視線を移す。
そこにも普段ならあるはずの痕跡が無い。
紗己は食事の準備や洗濯等でしばらく部屋を離れる際には、いつも小さなメモ書きを座卓の上に残していく。
屯所は広い。家事をする場所は多岐に渡るし、すぐに居場所を確認出来ないこともある。
実際に結婚してすぐの頃、家事のために屯所内を動き回っていた紗己をなかなか捕まえられず、ほうぼう捜し回った事があった。
それ以降、忙しい夫に手間を掛けさせてはいけないと、紗己は用事で部屋を離れる度に、夫に宛ててメモ書きを残すようになったのだ。
(不思議なもんだな、独りの時間の方がよっぽど長かったってのに)
二人の部屋に紗己が居ないことを寂しく思ってしまう自分に苦笑しながら、スカーフを整え上着を羽織る。
土方は着替えのために一旦置いていた携帯電話と封筒を手に取ると、鏡台の横の壁に大きな背中を凭れさせて吐息した。
紗己は今どうしているだろうか。思いながらそっと瞼を下ろすと、その裏側に彼女の泣き顔が見えた。
「紗己・・・・・・」
静かな部屋に掠れた声が響く。
はい、と返事をくれる優しい声が、今は聴こえない。
いつもなら居るはずの、穏やかな笑みを浮かべた紗己が、今ここには居ない――。
土方は僅かに開いた唇の隙間からゆっくりと息を吐き出し、手の中の携帯電話をギュッと握り締めた。
「・・・行くか」
小さく呟いてから、壁に凭れていた身体を起こすと、そのまま室内を移動して廊下に面した襖に手を伸ばした。
だが、土方の長い指は襖引手に軽く触れたまま動こうとはしない。
「紗己・・・・・・」
ここには居ないと分かっているのに、また愛しい妻の名を口にしてしまう。
土方は気持ちを切り替えるために軽く頭を振ると、複雑な想いを胸に自室を後にした。
――――――
「入るぜ、近藤さん」
声を掛けてから襖を開けると、この部屋の主である近藤は、何故か開いた障子戸の手前に立ち、首だけを縁側に出していた。
「何してんだ?」
「お、おおトシ! なんだ、そっちから来たのか」
土方が縁側から来ると思い、今や遅しと待っていたのだ。
近藤は障子戸を閉めて土方の元へと近付くと、座卓の側に腰を下ろした。その向かい側に腰を下ろして胡座をかいた土方を、少し心配そうな表情で見つめて声を掛ける。
「えらいことになっちまったな」
「ああ。昨夜の事もだが、今日これからの事もまさに急展開ってやつだ」
ポケットから煙草を取り出した土方が、苦笑いを浮かべて近藤に言葉を返す。
少し乾いた唇で煙草の吸口を咥え、火を点けようとした瞬間――。
「すまなかった、トシ」
姿勢を正した近藤が、神妙な面持ちで頭を下げた。
突然そんなことを言われても、何故自分が謝られているのか分からない土方は、火を点けられるのを待っていた煙草を一旦指に挟むと、怪訝な顔で近藤を見やる。
「どうしたんだよ、何謝ってんだ?」
「昨夜の接待・・・お前は相手を怪しんで難色を示してたのに、上からの要請だからと俺が話を受けて進めたんだ」
俯き気味に嘆息し、苦々しい表情で言葉を続ける。
「あの時お前が言ったように、奴等の関係をしっかりと調べた上で返答すべきだった。それをしなかった俺の責任だ。すまん、トシ」
「近藤さん、アンタは悪くねーよ」
間髪入れずに言い切ると、土方は指に挟んでいた煙草をさっと咥えて火を点け、顔を横に向けながら煙を吐き出した。
「上からの要請を断るのは容易なことじゃねェ。それに連中の狙いはどっちにしろ俺だったんだ。そのことにすぐに気付けなかった、俺の落ち度だ」
「トシ・・・」
「仮に昨夜の接待を蹴っていたとしても、いずれどんな形であれ接触を図ってきただろう。アンタは悪くねェんだから、そんな顔しないでくれ」
眉を寄せて、自嘲じみた笑みをこぼす。責任は全て自分にある、その思いが土方にそんな表情をさせた。
自分の責任だと悔いる気持ちは近藤も同じだったが、これ以上互いを庇い合っていても話は進まない。
近藤は肩の力を抜くと、ずっと気になっていた人物の名を口にした。
「ところでトシ、紗己ちゃんとは会えたのか?」
「ああ、アンタと電話した後に会いに行ってきたよ」
答えてから近藤を一瞥すると、彼はやや気まずそうに自身の顎髭を触っている。
その姿に彼が何を訊きたいのか理解した土方は、手近にあった灰皿に煙草の灰を落としながら、話を切り出した。
「今朝のこと、耳に入ってたんだろ?」
「ま、まあな。隊士達から話は聞いてた」
「電話でも話したが、例の芸者とは何もねーよ。あの女が今朝ここに来たのも、奴等にそうしろと指示されていたからだ」
答えながら、土方は数時間前に雪乃から聞かされた話を思い出す。
彼女が今朝屯所に来た理由――それは対象人物への脅しのためだった。
何らかの理由で雪乃と関係を持たなかった対象の元には、翌日こうして彼女が送り込まれるのだ。逃げることなど出来ないのだと思わせるために。
対象人物の家庭に揉め事の種を蒔いておけば、その芽が出る前に刈り取ろうと必ず対象人物は動く。
その動きが自分達の意に沿うか否かで、対象を利用するか始末するか判断するのだと言う。
そして例に漏れず、土方の元へも今朝雪乃がやって来た。
ただし雪乃は自ら土方に接触を図ろうと、財布に紙切れを忍ばせた。
その結果利害は一致し、二人は同じ敵を屠るべく共闘することを約束したのだ。
自室の障子戸を開けて部屋に入った土方は、奇妙な感覚に襲われた。
日々寝起きしているこの部屋に、在るべきものが無い違和感だ。
この時間であれば、普段なら大抵この部屋には紗己が居る。食堂に居る時もあるが、それでも通常は、ここに彼女が出入りしている痕跡が残されている。
土方は続き間の和室に鎮座している鏡台の横の壁面に、切れ長の双眸をスッと向けた。
いつもなら、この場所の鴨居の上部――
それとは逆に、これから勤務開始という時には、必ず隊服がハンガーに掛けられ用意されている。
そのどちらもが無い。当たり前だ、紗己はここには居ないのだから。土方は嘆息しながら羽織を脱いだ。
着替えを進めつつ、今度は座卓に視線を移す。
そこにも普段ならあるはずの痕跡が無い。
紗己は食事の準備や洗濯等でしばらく部屋を離れる際には、いつも小さなメモ書きを座卓の上に残していく。
屯所は広い。家事をする場所は多岐に渡るし、すぐに居場所を確認出来ないこともある。
実際に結婚してすぐの頃、家事のために屯所内を動き回っていた紗己をなかなか捕まえられず、ほうぼう捜し回った事があった。
それ以降、忙しい夫に手間を掛けさせてはいけないと、紗己は用事で部屋を離れる度に、夫に宛ててメモ書きを残すようになったのだ。
(不思議なもんだな、独りの時間の方がよっぽど長かったってのに)
二人の部屋に紗己が居ないことを寂しく思ってしまう自分に苦笑しながら、スカーフを整え上着を羽織る。
土方は着替えのために一旦置いていた携帯電話と封筒を手に取ると、鏡台の横の壁に大きな背中を凭れさせて吐息した。
紗己は今どうしているだろうか。思いながらそっと瞼を下ろすと、その裏側に彼女の泣き顔が見えた。
「紗己・・・・・・」
静かな部屋に掠れた声が響く。
はい、と返事をくれる優しい声が、今は聴こえない。
いつもなら居るはずの、穏やかな笑みを浮かべた紗己が、今ここには居ない――。
土方は僅かに開いた唇の隙間からゆっくりと息を吐き出し、手の中の携帯電話をギュッと握り締めた。
「・・・行くか」
小さく呟いてから、壁に凭れていた身体を起こすと、そのまま室内を移動して廊下に面した襖に手を伸ばした。
だが、土方の長い指は襖引手に軽く触れたまま動こうとはしない。
「紗己・・・・・・」
ここには居ないと分かっているのに、また愛しい妻の名を口にしてしまう。
土方は気持ちを切り替えるために軽く頭を振ると、複雑な想いを胸に自室を後にした。
――――――
「入るぜ、近藤さん」
声を掛けてから襖を開けると、この部屋の主である近藤は、何故か開いた障子戸の手前に立ち、首だけを縁側に出していた。
「何してんだ?」
「お、おおトシ! なんだ、そっちから来たのか」
土方が縁側から来ると思い、今や遅しと待っていたのだ。
近藤は障子戸を閉めて土方の元へと近付くと、座卓の側に腰を下ろした。その向かい側に腰を下ろして胡座をかいた土方を、少し心配そうな表情で見つめて声を掛ける。
「えらいことになっちまったな」
「ああ。昨夜の事もだが、今日これからの事もまさに急展開ってやつだ」
ポケットから煙草を取り出した土方が、苦笑いを浮かべて近藤に言葉を返す。
少し乾いた唇で煙草の吸口を咥え、火を点けようとした瞬間――。
「すまなかった、トシ」
姿勢を正した近藤が、神妙な面持ちで頭を下げた。
突然そんなことを言われても、何故自分が謝られているのか分からない土方は、火を点けられるのを待っていた煙草を一旦指に挟むと、怪訝な顔で近藤を見やる。
「どうしたんだよ、何謝ってんだ?」
「昨夜の接待・・・お前は相手を怪しんで難色を示してたのに、上からの要請だからと俺が話を受けて進めたんだ」
俯き気味に嘆息し、苦々しい表情で言葉を続ける。
「あの時お前が言ったように、奴等の関係をしっかりと調べた上で返答すべきだった。それをしなかった俺の責任だ。すまん、トシ」
「近藤さん、アンタは悪くねーよ」
間髪入れずに言い切ると、土方は指に挟んでいた煙草をさっと咥えて火を点け、顔を横に向けながら煙を吐き出した。
「上からの要請を断るのは容易なことじゃねェ。それに連中の狙いはどっちにしろ俺だったんだ。そのことにすぐに気付けなかった、俺の落ち度だ」
「トシ・・・」
「仮に昨夜の接待を蹴っていたとしても、いずれどんな形であれ接触を図ってきただろう。アンタは悪くねェんだから、そんな顔しないでくれ」
眉を寄せて、自嘲じみた笑みをこぼす。責任は全て自分にある、その思いが土方にそんな表情をさせた。
自分の責任だと悔いる気持ちは近藤も同じだったが、これ以上互いを庇い合っていても話は進まない。
近藤は肩の力を抜くと、ずっと気になっていた人物の名を口にした。
「ところでトシ、紗己ちゃんとは会えたのか?」
「ああ、アンタと電話した後に会いに行ってきたよ」
答えてから近藤を一瞥すると、彼はやや気まずそうに自身の顎髭を触っている。
その姿に彼が何を訊きたいのか理解した土方は、手近にあった灰皿に煙草の灰を落としながら、話を切り出した。
「今朝のこと、耳に入ってたんだろ?」
「ま、まあな。隊士達から話は聞いてた」
「電話でも話したが、例の芸者とは何もねーよ。あの女が今朝ここに来たのも、奴等にそうしろと指示されていたからだ」
答えながら、土方は数時間前に雪乃から聞かされた話を思い出す。
彼女が今朝屯所に来た理由――それは対象人物への脅しのためだった。
何らかの理由で雪乃と関係を持たなかった対象の元には、翌日こうして彼女が送り込まれるのだ。逃げることなど出来ないのだと思わせるために。
対象人物の家庭に揉め事の種を蒔いておけば、その芽が出る前に刈り取ろうと必ず対象人物は動く。
その動きが自分達の意に沿うか否かで、対象を利用するか始末するか判断するのだと言う。
そして例に漏れず、土方の元へも今朝雪乃がやって来た。
ただし雪乃は自ら土方に接触を図ろうと、財布に紙切れを忍ばせた。
その結果利害は一致し、二人は同じ敵を屠るべく共闘することを約束したのだ。